プラムゾの架け橋

第一章

06.

 屋敷付近よりも更に賑やかな街を通り、見えてきたのは平素よりも近い橋脚。雲をうっすらと纏う壁には、永い時間を感じさせる蔦や葉が、満遍なく絡み付いていた。

 どれだけ背中を反らせてみても、大き過ぎる橋の全貌を窺うことは叶わない。この橋に一体どれだけの人間が住んでいるのか、治める立場にある者でさえ把握し切れていないことだろう。

 そんな橋に――己の住む世界に、これから初めて足を踏み入れるのだということに、マオの胸は高鳴るばかりだった。

「――通行証、二人分ね。念のために招待状も見せてもらって良いかい? 行き先はリンバール城……と、はい、ありがとよ。少し待っててくれ」

 門番は慣れた口調で手続きを行いながら、ちらりと視線をこちらに寄越す。

「……そいつも連れて行くのかい?」

 指を差されたのは、マオの背中にへばりついている黒い仔猫だった。外套のフードにすっぽりと収まっている仔猫を見遣ってから、マオは不思議そうに口を開く。

「……仔猫も通行証、いるんですか?」
「いやいや、そんなわけあるか。ただ、貴族のところへ配達に行くんだろう? その獣は隠しておいた方がいいぜ」

 ――獣だなんて。

 マオは少しばかり不満げに唇を尖らせる。そんな彼女の隣で、オングが苦笑いを浮かべつつ門番へと告げた。

「だ、大丈夫だ、この子は貴族と直接話すわけじゃないし……」
「そうか? なら良いんだけどよ。温室育ちの方々は、匂いにも敏感だから気を付けとけよ」

 門番の男が悪いわけではないが、マオはついつい頬を膨らませてしまう。まるで汚物のような言い方ではないか。元々、貴族というものに好印象など抱いてはいないものの、目的地であるリンバール城には彼らが集っているわけで、今から気分が下降していくのが自分でも分かった。マオは軽く鼻を鳴らし、門番から顔を背ける。

「……あ」

 そこで彼女は、同じように通過の手続きを行っている二人組を発見した。艶やかな金の短髪に、上質な生地を用いた外套を身に纏う青年。そしてその傍らには、先日マオが正面衝突した鎧の男が立っている。

「あの人たち、上層に……帰るのかな?」

 応対している門番はにこにこと笑顔を携えて、おまけに手なんかも擦り合わせて道を空ける。青年は以前と同様、困ったような笑みを浮かべてそこを通過した。鎧の男――確かグレンデルと呼ばれていた彼が、門番をひと睨みして去っていく。睨まれた者は気持ちの悪い笑顔のまま硬直していた。

「マオ、行こうか」
「あっ、はーい」

 そこへ、手続きを終えたオングが声を掛けてくる。マオが返事をしつつ、荷物を背負ったときだった。青年らの後ろを付いていく、数人の男が彼女の目に留まる。彼らは外套で身を包んでおり、各々の顔をはっきりと捉えることは出来なかった。

「みゃあ」

 マオの視線を追った仔猫が、ひとつ鳴き声を漏らす。

「んん? おい、お前ら! 通行の手続きはしたのか」

 彼らの存在に気付いた門番が、慌てて橋脚の方へと踵を返した。怪しげな男らは、既に内部へと続く洞窟――巨大な鉄格子が開かれた穴の前まで到達している。

 橋脚内部から真っ直ぐに海へと通り抜ける風が、マオの栗色の毛束をふわりと揺らした――刹那。

「ハイデリヒ様っ!」

 野太い声と、甲高い剣戟が鳴り響く。マオが思わず耳を塞いだのも束の間、交わっていた刃が勢いよく弾かれた。

 一瞬の静寂を突き破ったのは、青年――ハイデリヒに奇襲を仕掛けた数人の男らだった。彼らは隠し持っていたナイフを引き抜くと、一目散に青年へ飛びかかる。先程の初撃を見事に防いだハイデリヒは、落ち着いた様子で剣を構えた。

「ハイデリヒ様、お下がりください」

 そこへ割り込んだのは、いつの間にか抜刀していた騎士グレンデルだ。彼は自ら敵との間合いを詰めたかと思えば、最も近くにいた男の短剣を、目にも止まらぬ速さで叩き落とした。地面に刃が着くよりも先に、男の腹部に容赦無く膝を打ち込み、握り締めた剣を後方に振り抜く。そこには背後から攻撃を仕掛けようとしていた男が、剣の柄で顎を打たれ仰け反る姿があった。

 そのまま崩れ落ちる音を聞きながら、残る一人へと鋭い視線を向ける。たったそれだけで怯んでしまったのか、男は喉を引き攣らせて剣先を鈍らせた。明らかな恐怖を読み取ったグレンデルは、逃げる暇を与えずに剣を薙ぐ。男は咄嗟に回避したものの、続け様に右足を払われ、無様に地へと転がった。

「うぐぁっ」

 その腕を背中で折り畳むように捻り、俯せに押さえ付けてしまうと、グレンデルは男の喉元に刃を突き付けたのだった。

「……す、すご……」

 一連の華麗な業を、そこに居合わせた者達は思わず最後まで見届けてしまっていた。あの怪しげな男らは青年を害するつもりであっただろうに、グレンデルはひとつも血を流さずに彼らを圧倒したのだ。その手際は迅速かつ確実で、争いごとに無縁なマオですら小さく拍手をしてしまうほどである。

「……グレンデル、すまない。油断していたよ」
「いえ」

 ハイデリヒは静かに言葉を掛けると、未だにもがいている男の傍に片膝をつく。

「さて」
「くっ、放せ!」
「どこの者だ……と聞いても、答えてくれなさそうだね」

 敵意丸出しの男に、青年は困ったと言わんばかりに頬を掻いた。抵抗を咎めるべくグレンデルが力を込めれば、男は苦しげに呻く。

 恐らく傭兵の類だろうが、意外にも口が堅いらしく、雇い主の名を吐露しようとはしなかった。ハイデリヒは別段怒ることもなく、納得した様子で何度か頷く。そのまま立ち上がっては、グレンデルの肩をそっと叩いた。

「行こう。拘束は門番に……!」

 そのとき、ハイデリヒが振り向きざまに剣を引き抜く。しかし、素早く突き出された鋒は獲物を捉え切れず、僅かな布を千切る程度に留めてしまう。彼が視線を遣った先では、隙をついて逃亡した男が、少女――マオの方へと走っていく姿があった。

「へっ!?」

 いきなり男が走ってきたことに驚き、マオは素っ頓狂な声を上げる。街の方へ逃げるつもりなのだと理解した頃には、目の前の男が焦った表情で短剣を振り上げていた。

「チッ、そこ退きな、嬢ちゃん!」
「え、あ」

 迫る刃に足が竦んでしまい、マオはどうすることも出来ずに尻餅をつく。その瞬間、背中がもぞもぞと蠢いた。そこに収まっている仔猫の存在を思い出した直後、黒い影がぴょんと飛び出す。眼前に現れた仔猫に、男が間の抜けた声を漏らした。

「いだッ!?」

 仔猫は男の顔面を尻尾でぶん殴ると、ついでのように鋭い爪をお見舞いする。男があまりの痛みに足を止めれば、その身体がマオの視界から掻き消えた。

「ま、マオ! 怪我はないか!?」
「……はっ……オングさん」

 呆気に取られていたマオは、仔猫が再び擦り寄ってきたことで我に返る。すぐそこに、おろおろと彼女の身を案じるオングの姿があった。平素のちょっぴり頼りない顔は健在だが、今しがた男を殴り飛ばしたのは彼に違いない。

 随分と遠くまで吹っ飛ばされた男は気絶しており、駆け付けた門番の者達に拘束されていた。

「大丈夫だよ、オングさん。ノットも、ありがとう」

 果敢にも助けてくれた仔猫の頭を撫でてやれば、耳と尻尾が下を向く。彼女の手を甘受した後、仔猫は身軽な動きでフードの中へと戻って行った。

「失礼。我々の騒ぎに巻き込んでしまったようだ」

 マオがオングの手を借りて立ち上がると、そこへ青年と騎士がやって来る。それぞれが謝罪を口にした後、ようやく青年がマオの顔を見て目を丸くした。

「……あ。君は先日の……」
「えっと、ぶ、ぶつかった者です」

 マオが眉を下げて笑えば、やがて青年も釣られたように頬を緩めたのだった。



 吹き抜ける風に逆らい、踏み固められた粘土の上を歩く。頭からヴェールを被せられていくように、視界は次第に薄暗くなっていった。

「――ホーネル殿の? それは驚いたな」

 騒ぎが一段落し、マオたちはようやく巨大な門をくぐった。人が通るだけにしては大き過ぎやしないかと圧倒されながら、彼女は隣を歩くハイデリヒに視線を戻す。

「はい。商品を届けに……って、ホーネルさんのことをご存知なんですか?」
「ああ、噂は予々」

 先日グレンデルと正面衝突したことに加え、先程の一件で危険な目に合わせたことについてお詫びがしたい、とハイデリヒは言った。よもや貴族であろう人間からそのような申し出を受けるとは思わず、マオは慌てて断ろうとした。

 しかしながらこの青年、穏やかな物腰の割には決断が極めて速い。第二層のリンバール城へ向かうと告げたならば、そこまでの案内役兼、護衛役として同行することを決めてしまった。ついでに「二人旅は少し退屈でね」と、茶目っ気のある笑みで付け加えて。

「彼の作る装飾品は何処でも人気だからね。交流会などに何度も声を掛けているはずだけど、なかなか応じてくれないことで有名だよ」
「ホーネルさん……」

 ヘラヘラしながら誘いを蹴っているのだろうな、とマオは思わず片手で顔を覆う。彼はあまり上層に行きたがらない節があるので、仕方の無いことかもしれないが。

「それで、マオは上層に行くのは初めて……だったかい?」
「あっ、はい。内部に入るのも初めてで」
「そうか。なら案内役として腕が鳴るね」

 そう言って微笑む青年の横顔を、マオは思わずじっと見詰める。先日会ったときよりも、幾分か顔色が良さそうに見えたのだ。血色がいいというか、纏う雰囲気も明るく感じられた。

「ぅべっ」

 乙女にあるまじき声をあげ、マオは後頭部に乗った重みに手を伸ばす。へばりついた仔猫を両手で掴み、胸元まで降ろしてやれば、ハイデリヒが黒い毛並みに振り返った。

「あっ、ごめんなさい。その……動物、お嫌いですか?」
「ん? いや……恥ずかしながら、こんなに近くで見るのも初めてでね。むしろ触ってみたいぐらいで」
「そうなんですかっ? ノットは大人しいから触っても大丈夫ですよっ」

 男の顔面を尻尾で叩いたり爪で引っ掻いたりしていた、先程の記憶は遥か彼方へ飛んでいき、マオは明るく仔猫を差し出す。ノットは少しだけ不満げな鳴き声を漏らしたものの、マオの手から逃れるような素振りは見せなかった。

「え、じゃ、じゃあ……失礼する」

 律儀に断りを入れたハイデリヒは、恐る恐る仔猫の頭に触れる。短くも柔らかな毛並みを感じた瞬間、駱駝色の瞳が見開かれた。

「ふッ……ふわふわじゃないか! 何で上層にはいないんだ……心底悔やまれる……!」
「ハイデリヒさま、大袈裟です」

 マオがおかしげに笑う傍ら、ハイデリヒは至極真面目に悔しがっていた。その間も撫でる手は止まらず。されるがままの仔猫は、眠そうに瞳を閉じてしまった。

 そんなやり取りを後方から眺めるのは、大男二名である。我ながら暑苦しいと自覚しているのか、双方共が気まずそうに口を閉ざしている光景は、些か滑稽に映った。そんな中で、前方からハイデリヒの声が聞こえてきたとき。

「ハイデリヒ様が……仔猫と戯れている……」

 ぼそり、グレンデルが呟く。未だに冑を被ったままなので表情は分かりづらいが、声には少しの驚きが含まれていた。オングはそんな彼とハイデリヒを交互に見比べてから、そっと声を掛けてみる。

「……護衛になって、もう長いこと経つのか?」
「む……ああ、ハイデリヒ様が年少の頃から、従者としてな」

 答えは簡潔だったが、彼の言わんとしていることは汲み取れた。大方、貴族に生まれたハイデリヒは、ああいった動物に対する好奇心を満たすことなく育てられてきたのだろう。何せ上層には、あのような小さな仔猫であっても、毛嫌いする輩はごまんといる。

「……そうか」

 ――ここにも。

 身体が大きい者は皆、小心者であると誰かが言ったが……仔猫が苦手なのであろうグレンデルは、あまりマオに近付こうとしない。

 ただ、主人の楽しそうな顔が見れたことには満足している様子だった。

「――わあッ、ノット見て見て!」

 やがて聞こえてきた声に、オングは燻った思考を隅に追いやったのだった。

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