プラムゾの架け橋

第一章

05.

 ゆっくりと一歩、前へ踏み出す。感覚は既に死んだのか、裸の足が柔らかな白に深く沈みこんでも、痛烈な冷たさを捉えることは出来なくなっていた。

 また一歩踏み出せば、赤を通り越した紫色の甲が視界に映る。無様に腫れた硬い皮膚から、今にも中身が飛び出しそうだ。

 どこもかしこも腐る寸前、と言ったところか。

「あー、ぅ」

 何枚も重ねた布の中から、赤子の声が聞こえる。叩き付ける雪が当たらぬよう、そうっと布を捲り上げた。小さな、本当に小さな両手が、そこから現れる。その指先が少しばかり赤くなってしまっていた。

 どこか、家屋でなくともいい、この吹雪を凌げる場所はないのだろうか。そう考えて視線を巡らせるものの、あるのは枯れた木々の群れだけ。直立する幾つもの棒など障害にもならず、雪と風は勢いよく森を吹き抜けた。

 不意に、前に進むことが出来なくなる。行き止まりなどではない。ただ単純に、足が動かなくなってしまった。その場に崩れ落ち、自らが赤子を護る籠になるべく、出来うる限り体を丸める。

「ぅー」

 全身の感覚が消えていく。かと思えば、節々から悪戯に生じる痛み。それらが朧気な意識を微睡みへと誘い、次第に甘く、穏やかな気持ちへと痛みを変化させていく。

 ――これが、死、だろうか。

 瞼を閉じようとしたとき、赤子の声が途端に大きくなる。耳を劈くようなそれが「泣き声」であると気付いた頃には、目の前に一つの影が佇んでいた。




◇◇◇




 扉が軽快にノックされる。何となくリズムを刻んでいるようにも聞こえる軽快な音は、ホーネルにとっては些か腹立たしいものである。ペン先から黒インクがぽたりと落ちたところで、彼は無理やり笑顔を浮かべて舌を打つ。そして仕事部屋を大股に出ては、未だにリズムを刻んでいる玄関扉をこじ開けた。

「うるさいな。ノックは三回までだよ歯抜け小僧」
「うわっ出てきた!! じいちゃんが三十回はノックしないと出てこないって言うからさぁ」
「鵜呑みにするんじゃない」

 草臥れた帽子、何年も着古した衣服。少々丈が合っていないそれを身に纏うのは、黒髪の小柄な少年だ。彼は歯が抜けたばかりの口で笑うと、襷がけにしていた大きな鞄から、正方形の箱を取り出した。

「はい、じいちゃんから」

 これには少しばかり驚いた表情を浮かべてから、ホーネルはそれを素直に受け取る。

「随分と早いね?」
「マオが上層に行くらしいって話をしたら、めちゃくちゃ張り切って作ってたぜ」
「……なるほど」

 少年の祖父――ガルフォは幅広い地域と世代から支持を得ている芸術家だ。今や「神の指先」とまで称される彼は、若い頃から彫刻を主とした作品を造り続けてきた。当時から類まれなる技術を誇ってきた彼だが、爆発的な人気が出たのは今から十年ほど前だ。



 若い男女から、結婚指輪に是非ともガルフォの彫刻を入れて欲しい、との依頼を受けたときのことだ。いつもなら黙々と作業に取り掛かるはずが、彼はとても困ってしまった。自分が彫ってきたのは大きな石ばかりで、小さな指輪に何を施せば良いのかなど、さっぱり分からなかったからだ。男女は「ガルフォ殿が彫ってくれるなら何でも」と、何一つ具体的な希望を言いやしない。

 困り果てた彼が唸りつつ向かった先は、街の片隅でひっそりと装身具店を営んでいる男の元だった。

「お前さんなら、この指輪に何を彫る?」

 ガルフォが尋ねた直後、その男は羊皮紙に迷うことなくペン先を走らせたのだ。出来上がったのは、今までの派手な宝石だけが主役だった指輪など、容易く霞ませてしまうほどの細やかな模様。それは決して主張しすぎず、かと言って気にも留まらないほどか弱くはなく、宝石と金属とを上手く調和させる力を持っていた。

 ガルフォは自身が芸術家であることなど、すっかり忘れて驚嘆した。それと同時に、これほどのものを創ることが出来るというのに、何故この男に注目が集まらないのかと疑問に思った。

「頭で考えてることに、指先が追い付いていないんですよ」

 男は苦笑していた。技術が足りないゆえに、男は自身の持つ才能を今ひとつ発揮できずにいたのだ。それを聞いたガルフォは立ち上がり、興奮状態で口走っていた。「ならばワシが再現して見せよう」と。

 互いに才能を持ちながら、今ひとつ創造性に欠けるガルフォと、今ひとつ技術の乏しい男が協力して造り上げた指輪。受け取った依頼人の男女は、結婚式の知らせよりも先に、かの二人の芸術家の存在を皆に知らせたのだった。

 それからと言うものの、二人を訪ねてくる客は急増した。初めは一過性のものだと決め付けていたものの、人気は衰えるどころか伸び続けた。その頃から男が受注と設計を担い、ガルフォが製作を担うという、珍しい分業体制が整ったのだ。

 ――言わずもがな、その男というのがホーネルのことである。

 デザインなど幾らでも思い付くホーネルにとって、手間が掛かるのは明らかに製作の方だ。ゆえに彼は設計に加えて受注と、それから配達も担うようにしていた。

 配達に関しては専らオングに任せているが、まぁそれは適材適所ということで、と彼は平然と言ってのける。



 少年から受け取った箱を開き、相変わらず注文通りに彫られた指輪を手に取る。ガルフォと知り合ったとき、彼は既に老人の域に達していただろうに、あれから十年経っても未だ手先に狂いは見られない。

「さすがだね。これなら男爵も気に入るだろうよ」
「あの脂ぎったオッサンに、指輪の善し悪しなんて分かんのか?」
「歯抜け小僧にしては良いこと言う」

 笑いながら見下ろせば、少年はどうも不機嫌そうだった。後頭部で腕を組んでは、不満だと言わんばかりに唇を尖らせている。

「どうしたんだい」
「じいちゃんとあんたの作品が、価値もわかんねー貴族に渡るのが嫌なんだよ」
「……何だ。マオみたいなこと言うね」

 少年は祖父の仕事に憧れている節があり、物づくりに関しても既にその才能を見せ始めていた。恐らく手先の器用さは、第一層のどの子どもにも負けないことだろう。自身もいつかは祖父のように――そう考えているからこそ、無闇に宝石を身に付けて喜ぶ貴族とやらが鼻につくらしい。

「じゃらじゃらと幾つも指輪着けてさ。あんたらが丹精込めて作ったものも埋もれさせちまう」
「それでいいじゃないか」
「はぁ!? 何で!」
「飾りってのは、そういうものだからねぇ」

 身に付け方は人それぞれだ。一つの指輪をシンプルに付ける者もいれば、それにネックレスやイヤリングなどを加える者もいる。要は気分を高めることが出来れば良いのだ。服装が良い感じに仕上がれば良いのだ。

 所有する富を――権力を示せば、それで良いのだ。

 絶対の基準など無い、そう告げてやれば、少年は腑に落ちない様子で眉を寄せていた。ホーネルはそんな芸術家の卵に向けて、小さく微笑みかけ、ぼそりと告げる。

「まぁ金落としてくれれば何でもいいよ」
「うわッ、あんたやっぱり性根が腐ってんな!!」
「褒めてるのかい? ああ、それで請求書は?」
「……ん」

 何事も無かったかのように尋ねると、少年が無愛想ながらも手紙を渡した。

「お使いご苦労様。またお願いすると伝えてくれるかい」
「おう、次はノック三回のうちに出てこいよな」
「検討しておくよ」
「その暇があるなら出ろ!」

「――あっ、ヒューゴ!」

 二人が見遣った先には、買い出しから帰ってきたマオの姿があった。勿論、その傍らをちょこちょこと歩く仔猫もいる。ヒューゴと呼ばれた少年は、片手を挙げてそれに応じた。

「来てたんだね。あ、また歯が抜けてる」
「最近よく抜けるんだよ。今度は下がぐらぐらしてるし」
「ガルフォさんに糸で抜いてもらったら?」
「ぜってー嫌だ! あれ超痛ぇんだぞ! は、歯茎がブチって……笑いごとじゃねーよ!」

 おかしげに笑っているマオに、ヒューゴは心底怯えた顔で抗議する。少しだけ歳は離れているものの、二人は昔から仲が良かった。友人いうよりは、姉弟と表現した方が適切かもしれない。

「んじゃあ、そろそろ帰るわ。あ、上層の土産話、待ってるぜ」
「うんっ、またねヒューゴ」

 マオが手を振るのに併せて、珍しく仔猫もひと鳴き。ヒューゴは瞳を輝かせて屈み、黒い毛並みを揉みくちゃにしてから、満足げに帰って行った。



「――マオ」

 その日の夕方。居間へ向かうと、繕い物をしているマオを見付けた。声を掛ければ、彼女はすぐに顔を上げる。

「なあに、ホーネルさん」

 椅子の下には、黒い仔猫が丸まっていた。微かに耳が動いたことを確認しつつ、ホーネルは彼女の傍へと歩み寄る。

「指輪が今日完成してね。ヒューゴが持ってきてくれたんだ」
「そうなのっ? じゃあ」
「うん、明日にでも出発できるよ」

 途端、珊瑚朱色の瞳が爛々と煌めく。こうも素直な十六歳はそうそういないだろうなと、冗談めいた感想を抱きつつ、ホーネルは彼女の向かいにある椅子に腰掛けた。

「マオのことだろうから、準備はもう終わってるでしょ」
「えっ、な、何で分かるの?」
「そりゃあねぇ……」

 それだけウキウキしてたら誰でも分かる。彼は乾いた笑いを零してから、のんびりとした口調で言葉を続けた。

「外套は忘れずにね。あれ寝袋にもなるから」
「うん」
「お金はオングに渡しておくけど、足りないなーと思ったら男爵から毟り取ってきてもいいよ」
「うん?」

 いきなり不穏な話をされたマオが固まる一方で、何ら気にしていないホーネルは椅子の下を指差す。

「そいつは連れて行くかい?」
「ノット?」
「護身になると思うよ」
「それ、魚屋さんにも言われたけど……ノットは飼い猫じゃないし……」

 ――魚屋。

 あの物静かな青年のことか。意外にも上層へ赴いた経験があるらしい。しかも仔猫を連れて行くように勧めた辺り、貴族のこともよく知っていると窺えた。

「そいつは野良のくせにマオにべったりだから、逃げることは無いと思うけどね」
「でも餌は?」
「知ってたかい? そいつ、川魚くらい自分でひょいひょい捕まえるよ」
「そうなの!?」

 そんなに驚くことでもあるまい。むしろ知らなかったのはマオくらいだ。その仔猫は彼女の前ではゴロゴロ鳴いて甘えて可愛い猫を演じているが、川の魚は捕ってくるわ屋敷の鼠は仕留めて捨てるわ、十分に逞しい野良猫である。ちなみに捕ってきた魚はホーネルのところまで持ってきて、無言で置いていく。焼いて欲しいなら座って待ってろ、と言いたくなるのを何度我慢したことか。

「ま、連れて行くかはそいつの気分次第だね。あとは何か言い忘れたこと……」

 ホーネルは頬杖をついて考えてみたが、特に注意しておくべきことは思い浮かばない。マオは好奇心いっぱいだが、それなりの恐怖心もしっかりと持ち合わせているため、危機管理に関しても心配は要らない……ような気がする。

 心配なのは貴族への態度だろうか。しかしこれは、普通に突っ立っていても「気に障る!」と怒り狂う御仁も存在するので、対策の仕様がないことに気付く。

「……くどくど言うのも好きじゃないし、最後にこれだけ渡しておこうかな」

 ホーネルはそう呟くと、布でしっかりと包んだある物を、テーブルの上に置いた。音からして多少の重量感を読み取ったマオが、不思議そうにそれを見詰める。

「これは……?」


「――……君の持ち物だよ」


 結び目を解き、布を開く。

 そこから現れたのは、ひどく錆び付いた腕輪だった。嵌められた丸い宝石は輝きを失い、もはや色さえ分からない。ガラクタ同然のそれに手を伸ばし、彼女は困惑気味に眉を寄せる。

「……見たことないよ、この腕輪」
「物置部屋に置いてたしねぇ」
「どうして?」
「僕にも分からない」
「ええっ?」

 無責任な答えに、マオが思わず非難するような声を上げた。ホーネルは謝る代わりに笑うと、椅子に深く腰掛ける。

「……でも確かに、君の持ち物なんだ。お守りとして持ってお行き」

 そう言葉を掛けてやれば、マオはそれまでの不審な表情を和らげる。

「……うん、分かった。失くさないようにするね、ホーネルさん」

 彼は笑顔で頷いた後、密かに向けられる薄氷の眼差しに、指先を軽く握り締めたのだった。

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