プラムゾの架け橋

第一章

04.

 プラムゾの第一層、橋脚の周囲――すなわち沿岸部に追いやられた、身分を持たぬ者達が住む街にて。日昇から日没を臨めるのは、橋脚を背にして立ち、海を真正面に捉え、正体の分からぬ朧気な”影”を左手に構えるこの区域のみ。”影”が右手に見えるまで歩き続けると、そこからは日中でも薄暗い森や岩山が広がるという。無論、陽の光が届きづらい場所に居を構える物好きは少なく、必然的に人の集まる場所は絞られていった。

 そしてそれに当て嵌るのは、何も人だけではない。



「――わあ、本当に猫がいっぱい」

 温かな陽射しの下、砂浜よりも手前に広がる林に、猫の溜まり場があるという。視線を何処へ遣っても、白く滑らかな毛並みや斑模様、ふさふさとした尻尾などが視界に入る。朝の可愛らしい集会を初めて目撃したマオは、出来るだけ声を潜めながらも、内心では近付きたくて触りたくて仕方が無かった。

「ノットもあそこでお昼寝するの?」

 うずうずしながら、足元を静かに歩き回る仔猫へ問う。薄氷色の大きな目は、彼女を一瞥してそっぽを向いた。

「あ」

 そのとき、マオの踵が落ちていた小枝を折る。その音を察知した猫が、一様に耳と尻尾を上向かせ、蜘蛛の子を散らすように茂みの向こうへと走り去ってしまった。

「わわっ、逃げちゃった……残念……」

 言いつつ仔猫を抱き上げ、しなやかな背中に頬擦りをする。その行動を咎めるように、尻尾が彼女の鼻先を突っついた。

「ふぁ、く、擽ったい」

 笑って顔を離し、マオはそっと仔猫を降ろす。

「私はこのまま商業区に行くけど、ノットはどうする? お家に戻る?」

 潮風が木々の葉を揺らし、ちらちらと陽光の形を変化させる。ざわめく林は、まるでそれ自身が光っているかのようだった。風が収まれば、散っていた光も元の位置に戻っていく。

 一連の景色を眺めていたマオは、再び仔猫を見下ろしかけ、背中に乗った重みに振り返った。肩にへばりついた仔猫は欠伸をかまし、薄氷色の瞳を線のように細めてしまう。これを同行の意と捉えたマオは微笑むと、踵を返して市場へと向かった。

「……あ、そういえばこの辺りは久し振りに通ったかも」

 浜辺の林から少し歩けば、深い水路を跨ぐための橋が見えてくる。その向こうには俄に活気を見せ始めた居住区と商業区、それからプラムゾの橋脚のごく一部が背景として聳え立っていた。

 マオは橋の手摺を掴み、深い溝を覗き込む。この水路は第一層を満遍なく網羅しており、人々の生活の要と呼ばれている。居住区は言わずもがな、職人の多い商業区では、例えば武器の製造に際する洗浄水として重宝される。

 しかしながら、この水路が一体どこから始まって、終着点である海へと向かうのか、マオはよく知らない。

「ノットと初めて会ったの、この橋だよね」

 黒い仔猫の顎を撫でてやると、短い鳴き声がこれに応じる。

「懐かしいなぁ……あれ、何年前だっけ?」

 マオは首を傾げ、掴んでいた手摺を見下ろす。仔猫を拾ったのは、彼女がまだこれと同じ目線か、もしくはこれより少しだけ低かった頃だ。



「――ネコさんっ」

 珊瑚朱色の真ん丸な瞳に、光をいっぱいに湛えた少女は、両膝を抱えてその場に屈んだ。そこには今とさほど変わらぬ小さな仔猫が、右の前脚を上げた状態で固まっている。今まさに林の方へ向かおうとしていた仔猫は、突然現れた少女に対して、少しの警戒心を露わにした。

「綺麗なお目目だね」

 宝石を思わせる白味の強い青色を指し、少女は楽しそうに話し掛ける。触ってくるような素振りは見せず、一人で左右に揺れる姿を見上げていた仔猫は、やがて恐る恐るといった様子で近付いた。

「! わ、わわっ、ホーネルさん、さわっていい?」

 触りたい、と顔にありありと書かれているものの、居住区の方から向かってくる男に確認を取る。

「んー? 僕じゃなくて、その猫に聞いてごらんよ」

 男は何とも呑気な返事を寄越した。少女はそれを真に受けて、再び仔猫に向き直る。両手を差し出してから、無垢な笑顔と共に告げた。

「おいでっ、ネコさん」

 猫の肉球にも負けぬ、小さくぷにっとした少女の手のひら。好奇心とは裏腹に、少しばかり震えているようだった。そんな少女のことを知ってか知らずか、近付いた仔猫は左手に頭を擦り付ける。

 途端、更に華やぐ少女の笑顔。

 暫くは両手で仔猫を優しく撫でていたのだが、やがて少女は耐えきれんと言わんばかりに叫ぶ。

「かわいいっ、お家に来てっ!」

 仔猫は少女の発言のあと、そそくさと林の方へ逃亡した。



 そのときは逃げられたものの、浜辺付近で仔猫とよく遭遇するようになったマオは、絵本に出てきた「魔法使いの猫ノット」と同じ名前を付けて――今に至る。

「それにしてもノットは大きくならないねぇ。そういう種類なのかな」

 浜辺にいる猫の中には、餌を与えられすぎてブクブクに太ったものもいる。動くのも億劫といった様子で、あれこそ林の主ではないかと悪戯に噂されてしまうほどの貫禄だ。それに対して、やはりノットと同じ様に小柄な猫もいるわけで。

「……まあ太っちゃったら、こうして肩に乗せられないけどね」
「みゃあ」

 ずん、と重石の如く飛び乗る黒猫の姿を想像しては、確実に腰を痛めるだろうなと、マオは苦笑いを浮かべた。

 マオはホーネルから頼まれたものを買うために、商業区の露店街へとやって来た。インクや羊皮紙など、高価なもの以外はここで揃えることが可能だ。既に人が溢れている街中を歩きながら、マオは目当ての店へと向かっていく。

「……あ!」

 その途中で、彼女は珍しい知り合いを見付けた。背中の仔猫が小さく唸ったことにも気付かずに、爪先をそちらへと転換させる。地味な外套を身にまとったその人物は、既に商品を売り終えたのか、荷物をまとめているところだった。

「魚屋さん! おはようございます」

 声を掛ければ、片付けの手が止まる。緩慢な動きで振り返ったその人は、蒼白とも言える顔色でこちらに会釈をした。

 彼は――残念ながら名前は知らないのだが、皆から「魚屋さん」と親しみを込めて呼ばれている。

 煤けたような暗い赤髪は顔の右半分を覆い隠しており、半開きの黒い瞳は今にも永遠の眠りに就いてしまいそうだ。一見して病弱な印象を持たれがちな彼だが、たまにこうして売りに来る魚はどれもこれも一級品ばかりである。しかし値は他の店と相違なく、質の良い魚を安値で売ってくれる商人として非常に有名だ。

「今朝も完売ですか?」
「……ええ。……おかげさまで」

 彼が開店準備を終える頃には、既に長蛇の列が出来上がっているという。新鮮な魚を購入すべく我先にと客が押し掛ける様は、さながら戦場だ。一度だけそれを目撃したことがあるが、マオには到底勝ち抜けそうにもなかった。

「あっ、魚屋さん。私、今度上層に行けることになったんですっ」
「……上層に?」
「はい。暫く屋敷には帰らないので、魚屋さんに挨拶しておこうと思って」

 たまにしか会えないし、と付け足せば、彼は納得したように何度か頷く。相変わらずマオの肩では仔猫が小さく唸っており、ちらりとそれを一瞥した彼が口を開いた。

「……そちらの猫も一緒に?」
「へっ? あ……ノットは」
「連れて行っては如何です?」
「んえっ」

 食い気味に被せられた勧めに、マオは思わず呆ける。何故、と問いたげな視線を受けてか、彼は片付けを再開しつつ言葉を続けた。

「……第二層に貴族が集まっているという噂を、聞きましたので」
「え、それってリンバール城の……?」
「ええ。……彼らは獣を嫌う。小さな仔猫であっても、怯えて後ずさる者もいるほどです」
「そうなんですか…………それは、連れて行かない方が良いのでは?」

 貴族への嫌がらせに等しい提案へ、尤もな疑問を口にする。すると彼はその黒目をマオに向けて、静かに囁いたのだ。


「――……護身、と思って頂ければ」


 それは提案ではなく――忠告。

 鈍い光は爽やかな朝にそぐわず、脅しのようにも見えてしまった。マオが返事に窮すると、彼は何もなかったかのように視線を逸らす。

「……まあ、そのような仔猫では虫除けにすらならないかもしれません」
「みゃッ」

 ついに仔猫が怒ったような鳴き声を発した。マオは驚きつつも、仔猫を落ち着けるべく肩から降ろし、よしよしと抱き締める。

「の、ノット、どうしたの」
「……あまり好かれていないのです。魚を恵んでやった恩すら忘れたようですね」
「み゛ッ」
「えっ?」

 そんなことがあったのかと問いたくても、彼は既に片付けを終えて、荷物を背負った状態だった。

「では、上層への道中、お気をつけて」
「……あ、はい……ありがとうございます……」

 初めて彼とまともに喋ることが出来たのだが、その内容は些か理解に苦しむものだった。

 それに、現在とっても不機嫌な仔猫と彼との間に関わりがあったことなど、全く知らなかった。ノットは浜辺の猫でも美形だなんだと、猫好きの輩は騒いでいるが……あの魚屋も、もしかして同類なのだろうか。

「……に、似合わない」

 ついうっかり、本音がこぼれてしまった。



 買い出しを終えて屋敷へ戻る途上で、マオは不自然な人集りを発見する。野菜や果物の入った袋を両手で抱えたまま、興味本位にそちらへ近付いてみる。

「ほお、これはまた……」
「あんた、これ本物かい?」
「本物でも此処じゃ売れねえと思うけどな……」

 集まっている人々が言葉を交わす。どうやら彼らはある商品を物珍しそうに観察しているようだ。疑う眼差しと声を受けて、ひょろりとしたみすぼらしい商人は慌てて腰を浮かせる。

「おいおい、上層まで行って拾ってきたんだ。偽物だって疑って掛かるのは止してくれや」
「ほれ、拾って来たんだろ? 取ってきたんじゃなくて」
「うぐっ」

 痛いところを突かれたと言わんばかりに、商人は顔を歪める。そんなやり取りを聞きながら、マオは人混みの端っこから商品を覗き見た。

「……石?」

 小さな石……それも、欠片程度の大きさだ。しかしながらタダの石というわけでもなさそうで、表面には鮮やかな赤を滲ませている。

「それ、何ですか?」

 よく通る声で尋ねれば、マオの姿を認めた商人がパッとこちらを振り返った。

「おっ、お嬢ちゃん、興味あるかい?」
「あらマオちゃん。やめときな、これバッタモンだよ」
「説明くらいさせろや、ばあさん!」

 近所に住む中年女性から呆れたように首を振られながらも、商人は気前よく石の説明をしてくれた。

「これはな、ミグスの石と呼ばれるものだ」
「みぐす……?」

 聞き慣れない単語に首を傾げ、赤い石の欠片を見詰める。

「そう、ミグス。このプラムゾに残る無数の謎のひとつさ。お嬢ちゃんは“術師”ってのは知ってるか?」
「あ、絵本によく出てくる……魔法使いのことですか?」
「それそれ。“術師”は不思議な、それこそ魔法みてえな奇跡を起こす奴らのことだ。このミグスの石は、“術師”が死ぬ間際に生成されるらしい」

 ――死ぬ?

 周りの声が微かに遠くなった。誰かに耳を塞がれたときのように、意識を内側に閉じ込められたかのように。ぼんやりとミグスの石を眺めるマオの足元で、小さな鳴き声が一つ。

「みー」

 足首の辺りを、前脚でぺしぺしと叩かれた。ハッとして、意識を引き戻す。

「“術師”はその存在自体が奇跡って言われててな、まず此所にいる連中で会ったことのある奴なんて一人もいねぇだろう」

 商人の確かめる声色に、我こそはと名乗りを上げる者はいない。

「まあ俺だって詳しく知るはずもねえんだが……彼らは極端に長命だと言われてる。だからミグスの石が生成されるのは、そんな長生きな“術師”が死んだときだけだ」
「だから貴重なんですね」
「そういうこった! 見た目も良いからってんで装飾品に使われたり……どうだいお嬢ちゃん、小遣いに余裕があれば……」

 商人が説明口調から一転、媚を売るかのように揉み手をすれば、周囲の大人達から罵声が飛ぶ。

「こら、買わせんな!」
「詐欺師!」
「帰れ帰れ!!」
「んがあーッひでぇなアンタら!!」

 散々な言われように、商人も負けじと応戦する。騒がしい彼らの隅っこで、マオはじっと赤い石を見詰めていた。

「……死んじゃったんだね」

 ミグスが生まれること、それすなわち術師の死亡を示す。マオは何処か物悲しい気持ちを覚えながら、暫し瞑目する。そして袋を抱え直し、仔猫と共に人集りから離れたのだった。

 ――赤き石は、微かな光を宿していた。

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