プラムゾの架け橋

第一章

03.

「――ホーネル!! どういうつもりだ、あんた!!」

 早朝、寝室に殴り込んできた大男を、ホーネルは至極不機嫌そうな顔で見遣る。

「……朝からむさ苦しいなぁ。ここ暫くはマオに起こしてもらってたから余計に……」
「たまには自分で起きろ! ああ、そうじゃなくて……」

 寝台に大の字になっているホーネルは、逆さまに見えているオングの焦った顔を暫く見つめた後、堂々と欠伸をかました。仕方ないと言わんばかりに身体を起こし、オングに背を向けたまま後頭部を掻く。

 その際、少量のフケが膝に落ちた。店主はひっそりと衝撃を受けながら、それを素早く手で払う。

「マオのことだろう? まぁ聞いてくれ」

 一連の行動を済ませてから、ホーネルはのんびりとした動きで大男を振り返る。そこでは未だに、こちらの意図を窺うような眼差しがあった。

「オング、あの子は今年で何歳だい?」
「……十六歳だろ」
「そう、まさに多感な時期だな。元から好奇心は強かったけど、最近は特にぼんやりしていてね」

 それはごく僅かな、まばたき程度の間である。彼女は普段から明るく振舞っているが、時折、ほんの少しだけ上の空になることがある。果てしなく思えるプラムゾの橋脚を見上げ、その双眸に確かな羨望を見え隠れさせる瞬間。実の娘ではないにしろ、長年見守ってきたホーネルにとって、彼女の表情の機微を感じ取ることは造作もなかった。

「あんまり過保護なのも良くないかなと思ってね」
「だからって」
「ここで断ると、一生マオに嫌われてしまうかもな」

 それは敵わんだろう、と視線を遣れば、オングは言葉を詰まらせる。よく効く魔法の言葉だと、ホーネルは頭の片隅に今の台詞を刻み付けておいた。



 一方その頃、既にばっちり目を覚ましていたマオは、いつもより少しばかり早く屋敷の掃除に取り掛かっていた。

 昨晩の大雨によって汚れてしまった窓硝子を、彼女は鼻歌交じりに拭いていく。からりと晴れた青空を見上げて、大袈裟に息を吸いこんだ。雨上がり特有の湿り気を帯びた空気は、寝起きの身体によく染み渡る。

「みゃあ」

 見るからに上機嫌な彼女の足元に、小さな黒猫がやって来た。マオは雑巾をバケツの縁に掛け、掃除用のエプロンで手を拭ってから仔猫を抱き上げる。

「おはよう、ノット。外に行ってたの?」

 高揚した気分のままマオが起床したときには、既に仔猫はベッドから消えていた。ノットは彼女が考えているよりも、実はずっと早起きなのかもしれない。早朝の散歩へ行っていたのかと戯れに問えば、薄氷色の双眸が何度かまばたきを繰り返す。

「ねぇ、ノット聞いてっ? 昨日の晩、ホーネルさんが遠出を許してくれたの!」

 その現場は自分も見ていたと言わんばかりに、仔猫は細い尻尾を動かして、マオの腕を柔らかく叩いた。彼女は擽ったそうに笑ってから、昨晩のことを思い返す。




「――二層に行ってみないかい?」

 昨晩、ホーネルがもたらした話は、まどろんでいたマオの意識を一発で覚醒させてしまった。眠そうに目を擦っていた彼女が一転して、こぼれ落ちそうなほど瞠目する前で、ホーネルは男爵から頼まれた「もう一つの頼み事」を告げる。

「リンバール城で結婚披露宴が開かれる際に、ちょうど珍しい客人が来るらしくてね」
「え……っと、男爵さまの、お客さん?」
「いや? 多分フラフラしてたら偶然、リンバール城に呼ばれたんだろうけど。その客人が絵のモデルを捜してるんだよ」

 彼の口振りに少しばかり違和感を覚えたものの、その件と一体何の関係があるのかということにマオが惚けていると、ホーネルはそんな彼女の頭に優しく手を置いた。

「美女でも野郎でもいいから、とにかく数が欲しいそうだ。僕のところにモデルになれそうな人間がいたら、是非連れてきてほしいと」
「つまり……」
「そう。どうだい? あちらさんは誰でも良いみたいだし、マオが行っても大丈夫だと思うんだけど」

 足元でじっと丸まっている仔猫を見下ろし、マオは動揺した様子で、再び慌ただしくホーネルを見上げる。頭に置かれた大きな手を掴み、徐々に紅潮していく頬を知りつつ口を開いた。

「あ、あの、い、良いの?」
「ん?」
「だって今までずっと留守番だったし、オングさんにも迷惑掛けちゃうかもしれないし……っ」
「迷惑?」

 苦笑をこぼした彼に、マオがきょとんと言葉を失う。彼女の癖のない長い栗毛を梳くようにして撫で付けると、彼は穏やかな声で告げたのだ。

「マオは今まで、僕やオングの言うことを大人しく聞いてきただろう? 手が掛からなさすぎて逆に不気味だったくらいだ」
「えっ不気味」
「だからそろそろ、マオの言うことを聞いてやらないとね」

 不気味と称されたことに多少傷付きながらも、マオは彼の言葉を何度か反芻する。

 話によると、名家の結婚披露宴に招待された来賓のうち、「珍しい客人」――推測するに恐らく画家と思われる人物が来るそうだ。その客人が絵のモデルを捜しており、貴族らは彼が気に入るような人材を集めるべく、様々なところへ声を掛けているらしい。男爵に関しては、装飾品の依頼ついでにこちらへ知らせたと言ったところだろう。

「どうする? こういう機会、あんまり無いと思うけど」

 ホーネルの静かな問い掛けに、頭の中をふんわりと整理し終えたマオは、勿論――。




「――それにしても、その絵描きさんは随分と人気者ね」

 昨晩の出来事を振り返り、その時はさほど気にならなかった点に首を傾げる。胸に抱いたノットを見下ろし、右耳で揺れる飾りを人差し指で鳴らした。

「貴族の人たちに、絵のモデルを捜せって言ったのかなぁ……だとしたら凄い大物そう」

 指の背で顎を摩ってやれば、仔猫の喉がごろごろと唸る。暫くは気持ちよさそうに身を預けていたが、やがて飽きたのか仔猫は腕から抜け出してしまった。そのまま廊下をひたひたと歩いて行ってしまい、マオはその小さな黒い影をつい見送る。

「ノット」

 声を張るわけでもなく、ごく普通の声量で呼び掛ける。仔猫はちらりと彼女を振り返ったが、開け放したままだった扉をくぐり、庭へと抜けてしまった。何か餌でも用意しておけば、あの鈴を鳴らしながら付いて来てくれただろうか。そんなことを考えながら残念そうに眉を下げ、マオは窓拭きを再開しようとした。

「ああん、待って! そんな釣れない態度を取らないでちょうだい、逆に燃えてしまうわ!」
「も、燃えるな!! どっか行け!!」
「嫌よぉ! 久々にアナタが屋敷にいるって聞いたから、早起きしてここまで来たのにぃ。はっ、もしかして放置するのがお好みなの? だとしたら逆効果よ、アタシは焦らされるほどに燃え上がるんだから!」
「ひぇっ……!」

 一方は熱を孕みすぎた声で、もう一方は恐怖に満ちた声で叫ぶ。朝っぱらから近所迷惑待ったナシのやり取りをする者なんて、この辺りでは限られていた。ゆえにマオは雑巾を持ったまま、ぱたぱたと玄関へ向かってみる。廊下の角を曲がれば、随分と腰の引けた大きな人影――オングの背中が目に入った。

「あ、そうそう、マオちゃんに渡したお紅茶、飲んでくれたかしら? あれは疲労に効く茶葉でね」
「こ、紅茶? ……ああ昨日、飲んだような……」
「ちょっとだけ媚薬を混入させてるのよ、飲んでくれて嬉しいわ」
「何だとこの変態!!」
「ああん、もっと罵って! ……って、あらマオちゃん、おはよう」

 際どい発言をぶちかましていた人物が、ひょっこりと壁から顔を覗かせるマオに気付く。それまできょとんとした面持ちだったマオは、挨拶を区切りに笑顔を浮かべた。

「おはようございます、マリーさん」
「はあ、朝から愛しのダーリンと愛を囁き合って、マオちゃんから笑顔を貰えるなんて、今日は素敵な日になりそうね」
「誰が囁いたんだ、誰が」

 オングが必死に首を横に振る傍ら、頬に片手を添えて悩ましげに息をつくのは、近所で花屋を営むマリーだ。その知名度は、第一層の住宅に飾られる花の八割がかの店で購入されている、と言われるほど。多種に渡る色彩豊かな花々は勿論、主に女性が好む繊細な模様を施した植木鉢も販売しているがゆえに、その人気が衰える兆しはない。そのためマオも常連客の一人なのだが、彼女は花屋から隠し切れない下心を持って気に入られている。

「マリーさん、オングさんに会いに来たんですか?」
「そうよぉ、昨日マオちゃんが教えてくれたでしょ? だからアタシ、お店を開ける前に会いに来ちゃった」

 まだ町は眠りから殆ど覚めていない。しかし近隣の住人に関しては、先程の際どいやり取りで無理やり起床を促されたのではなかろうか。それくらい時間は早く、マリーが如何にオングを優先しているのか、その度合いが嫌でも窺えてしまう。オングはさりげなくマオの斜め後ろまで後退していた。

「……ん? マオちゃん、ちょっとおいで」
「はい?」

 対するマオは何の躊躇もなく歩み寄る。雑巾を持っていない左手をそっと掬われたかと思えば、指先のあかぎれを優しく擦られた。

「まあまあ、相変わらず水仕事を任されてるのね。今度また保湿剤を分けてあげるわ」
「えっ、本当ですかっ? ありがとうございます!」
「お肌は大切にしないとね。乙女の鉄則よぉ」

 ――乙女……。

 マオとオングは思わず花屋を見遣る。これが細身で慎ましやかな女性ならば、オングだってあれほど嫌がったり恐怖したりしない。

 実際にそこに立っているのは、輝くスキンヘッドの頭頂部にちょこんと残された艶やかな黒髪、それを彩る薄桃のリボン、獲物を捕えんとする鋭い青色の瞳、綺麗に紅を引いた分厚い唇、野生の熊と互角に殺り合えそうな逞しい体躯を持った――紛れもない巨漢である。

「…………そうですよねっ、マリーさんはしっかりお手入れしてるから、肌も綺麗だしお化粧も上手だし」
「あらもう、お世辞が上手いんだから」

 逸早く我に返ったマオは、多少の気まずさはあったものの軽やかに会話を繋げた。

 実のところマリーは、どの女性よりも女性らしいと言える。例を挙げるならば身の清潔さだろう。平民ばかりの第一層では、女性であっても毎日身体を洗ったり拭ったりしない。二層以上に住まう貴族ならば湯浴みとやらが行われるそうだが、そんな贅沢を知らない者にとっては面倒臭いことこの上ない。だがマリーは毎日しっかり身体を拭うし、自らが抽出した植物油を利用して保湿剤も作るし、とにかく美の追求を怠らない人だ。

 マオを含めた常連客の女性は、最初こそ恐れはしたものの、すぐさま自身も見習わねばならないと尊敬の眼差しを送るようになったものだ。

「……あれ? ところでオングさん、今朝は起きるの早いね」

 既にオングの身なりが整えられているのを見て、マオは不思議そうに尋ねる。いつもならまだ寝ている時間なのに、と考えたのも束の間、彼女は合点が行ったように笑う。

「マリーさんが来るから?」
「違う違う!? け、今朝はほら、たまたま早く起きて」
「アタシが来ることを予想してたって!? さすがダーリン、意思疎通はバッチリね……あとは肉体のみ……!!」
「や、やめろ、にじり寄って来るな……! マオ、変なことを言わないでくれ!」

 違うことは分かっていたが、大男がこうもビクビクしているとからかいたくなるものだ。足を肩幅に開き、捕縛せんと言わんばかりに両手を広げるマリーと、それに対抗するように臨戦態勢を整えるオングを、マオは笑いながら眺めていた。

 いつからかマリーは彼のことを「ダーリン」と呼んで求愛し続けており、何度かオングを組み敷いたことがあるとか無いとか。体格はオングの方が少し大きいくらいなのだが……ここは愛の力とでも理解しておくべきか。

「そういえばマオちゃん、いつも一緒にいる可愛い黒猫ちゃんは?」

 体勢はそのままに、マリーが失念していたというふうに尋ねてくる。

「ノットですか? さっき庭の方に行っちゃって」
「そう、残念ねぇ。一度で良いからあの毛並みを撫で回したいんだけど」

 二人が会話する手前で、オングは「逃げたな」と小さく呟いた。



 ――花屋の開店時間が迫ったおかげで、オングは何とか事なきを得る。優雅に手を振って去っていくマリーを、マオは笑顔で見送った。

「……あっ、ノット」

 扉を閉めようとすると鈴の音が聞こえ、まるでタイミングを窺っていたかのように、仔猫がするりと中に入ってくる。何か言いたげな表情で見つめて来るオングを一瞥し、仔猫は知らん顔でマオの肩に飛び乗った。

「お散歩はもう良いの?」
「みゃ」
「じゃあ朝ごはん食べるっ?」
「……みゃ」
「わーい! 昨日からノットが優しい!」

 前屈みになったマオは肩から仔猫を降ろすと、そのままガバッと抱き締める。最中にべしべしと尻尾で腕を叩かれたが、彼女はお構い無しに頬擦りをしていた。

「……あー、マオ」
「なーに? オングさん」

 そこへ、何処か気まずそうにオングが声を掛ける。彼は黒い瞳を右往左往させてから、腹が決まりきっていないうちに言葉を続けた。

「……第二層に行く、って話なんだけど」
「あ……ご、ごめんなさい。ホーネルさんからは行ってもいいよって言われたけど、オングさんにはまだ何も言ってなかった……」
「いや、別に遠出を禁止するとか、そんなことは言わないけど」

 そこで言葉を切ると、彼は困ったように溜息をつく。決して苛立っているのではなく、不安を持て余しているかのような表情だった。

「……マオより俺の方がビビってちゃ、駄目だよなぁ……」
「え?」
「……マオが上層に行きたいってのは前々から知ってたし、機会はいくらでもあったはずなんだが……どうしても自信がなくてな」

 賊や獣が横行する上層と言えど、自分一人ならどうとでもなる。しかしながらマオが一緒となると、彼女を危険に晒すことなく旅をしなければならない。同行する者は行きずりの商人などではなく、幼い頃から見守ってきた娘同然の――と言うのも何だか虚しい気分だと、オングはひとり顔を曇らせる。それに見守ってきた時間ならば、自分よりもホーネルの方が……。

「あのね、オングさん」
「へっ? あ、な、何だ?」

 思考が違う方へ飛びかけた頃、マオがいつもと変わらぬ調子で声を掛ける。彼女は仔猫を抱えたまま、赤子をあやすような動きで黒い毛並みを撫でていた。

「私って、ほら、特にこれと言ったものがないでしょ? オングさんみたいに体力も無いし、ホーネルさんみたいに素敵な品物も作れないし……」

 自身を卑下するような発言に、オングは思わず口を挟もうとした。しかしながら当の話し手はそれほど悲壮さを滲ませておらず、寧ろ朝の爽やかさを纏った笑顔を浮かべている。ゆえにオングが咄嗟に為そうとしたフォローは、宙に霧散した。

「だから、なのかもしれないけど。上に行けば――私がまだ知らない世界に行けば、私にも出来ることがあるのかな、って」

 その言葉は今日に至るまで、誰ひとりとして耳にしたことのない彼女の思い。否、その腕に抱いた仔猫ならば、或いは。知らぬ間に彼女はそんなことを考えていたのかと、オングは少しばかり遠くなった瞳で栗毛を見下ろす。

「自分探しってほどじゃないけど、視野を広げてみたいっていうか……その」

 上手く言葉を見付けられず、マオは困ったように眉を下げた。無力感とまでは行かないが、ホーネルにしろオングにしろ、花屋のマリーにしろ、皆が己の得意とすることを活かして仕事をしている中で、彼女は己に対して幾らかの失望を覚えたのだ。屋敷の家事はひと通り出来るものの、自慢できるような特技や趣味などはない、と。

 第一層には身分を持たぬ平民と、ものづくりを生業とする職人が多く集う。人口の割には些か小さい島の上、所狭しと敷き詰められた家屋と煉瓦の景色には、絵本で読んだような広い草原や氷山などは見当たらない。これはこれで故郷の大好きな景色であることには変わりないのだが、珊瑚朱色の瞳はどうしても巨大な壁――プラムゾの橋脚を見上げてしまう。

 もしもこの上に行けたとして、そこにマオが望む「何か」があったとしたら。逆に何も無かったとしても、己の器というものを確認することが可能で、納得も出来るというものだ。

「……それにオングさんと一緒に行けるなら、安心出来るもの。知らない傭兵さんに頼むのも怖いし」
「よ、傭兵!? 絶対しちゃダメだぞ!」
「あはは、しないよ」

 依頼の請負は報酬次第。そんな傭兵に「上層まで連れて行って」と、か弱い少女が頼みでもしてみろ。金が支払えない代わりに無理難題を突き付けられる、なんて事案は数え切れない。正直なところ賊よりも厄介な輩が多いような印象を抱いているオングは、彼女に何度か念押ししてから大きく息をついた。

「……けど、そうか。だからマオはずっと上層に……」
「あ、でも単純な好奇心でもあるよ」

 えへへ、と正直に笑ったマオだったが、すぐに窺うような眼差しで彼を見上げる。

「えっと……それで、やっぱり……駄目?」

 幼い頃から変わらない、真っ直ぐで無垢な瞳。お願いをする時は決まって、同じ文句で尋ねるのだ。

 「駄目か」と。

 そう聞かれてしまうと「駄目」と言えなくなるのは、絆されたせいか、はたまた単なる甘さゆえか。そんな思考の末、止めと言わんばかりに、起き抜けに突き付けられたホーネルの言葉が脳裏を駆けていく。オングは降参の意を表すべく、両手を軽く挙げたのだった。

 次いで起こったのは、少女の喜ぶ声。


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