プラムゾの架け橋

第一章


02.

「ちょっと時間掛かっちゃった」

 図書館で分けてもらったインクと、新しく購入した植木鉢を抱えたマオは、曇り始めた空を見上げて帰る足を速めた。朝は良い天気だったのだが、この様子だとひと雨きそうな予感がする。先程から気候の変化を察知してか、一緒に歩く仔猫も毛を逆立てている。これは急いだ方が良いだろう。

「ノット、屋敷まで走るよっ」

 明るく声を掛けてマオが小走りになると、仔猫は彼女をちらりと窺ってから走り出した。それと同時に、彼女らの鼻先に冷たい感触が訪れる。残念ながらもう降ってきてしまったようだ――と思ったら、予想を上回る勢いの雨粒が頭上に降り注ぎ、マオは思わず飛び上がった。

「きゃーっ、いっぱい降ってきた!」

 通りを歩いていた他の住人も、慌てた様子で家へと駆け込んでいく。はしゃぎながら走る子ども、洗濯物をぐしゃぐしゃに取り込む女性。それらに混じり、マオと仔猫はそろそろ見えてくるであろう屋敷へと駆けた。

「へっ?」

 その時、ズルッと右足が滑る。顔を引き攣らせたマオが身体を縮こまらせ、傍らを走っていた仔猫はぎょっとした様子で急停止する。もう一秒も経てば水溜りに顔面から突っ込むという瞬間、マオは視界に滑り込んできた大きな影に目を丸くした。

「――ぅぐおぉおッ」

 野太い声と共に彼女の脇腹辺りが掴まれ、ぐいと身体が持ち上がる。植木鉢を抱き締めたままだったマオは、水溜まりへ豪快に飛び込んで下敷きとなってくれた大男を見下ろした。

「……オングさんだ!」

 パッと瞳を輝かせたマオは、浮いた爪先を揺らしては喜ぶ。驚きの速度でスライディングしてきた彼――オングは、摩擦で痛む背中に少しばかり悶えながらも、それを悟らせぬ笑顔を彼女へ向けた。

「け、怪我はしてないか?  マオ」
「うん! ありがとう……って、オングさんの方が汚れちゃってる! ごめんなさい、お着替え用意するから屋敷に行こうっ」
「……うん、そうだな……」

 何故か遠い目をして頷いた彼に、マオは首を傾げた。



「――ノット、捕まえたー!」

 大きめの手拭いを広げ、マオは仔猫をすっぽりと包んで抱き上げる。驚いたように脚をばたつかせる仔猫を抱えて、彼女は暖炉の前にある椅子へ腰掛けた。湿った黒い毛並みを優しく拭いてやると、薄氷色の瞳が気持ちよさそうに細められる。マオは暫くその様子を眺めていたのだが、やがて期待を込めた瞳で仔猫へ尋ねた。

「今日はお泊まりする? 雨、止みそうにないよ?」

 大体こういう問いを仕掛けると、この仔猫は一目散に外へ出ていってしまう。東海岸の方に野良猫の集い場があるらしいのだが、ノットは夜になると必ずそこに帰るのだ。しかし今日は珍しく大雨で、温かい部屋とタオルに包まれているせいか、仔猫は逃げ出すことなく膝の上に留まっていた。

「やったー! 今夜はオングさんもいるから嬉し……あれ? そういえば仕事場から出てこないね」

 ずぶ濡れになってしまったオングに着替えの衣服を渡してから、随分と時間が経っている。居間には来ずに、そのままホーネルのところへ向かったのだろうか。

 彼はこの装身具屋の配達員として雇われており、近所から遠いところは他層まで、様々な場所に商品を届けに行く役割を担っている。そのためこの屋敷に顔を出す頻度は低いのだが、幼い頃によく遊んでくれた優しい人物なので、マオはとても彼に懐いていた。

「オングさんに意地悪しちゃ駄目だからね、ノット」

 仔猫の小さな鼻を人差し指で擽った瞬間、窓の外が強く光る。短い悲鳴を上げれば、雷の音が轟々と聞こえてきた。

「あ……」

 音が収まるまで、マオはじっと窓の外を見詰めていた。仔猫を抱き締める腕が、微かに強まる。やがてゆっくりと息を吐き出した彼女は、取り繕うように笑顔を浮かべた。

「二階のお部屋、雨漏りしちゃうかも。ちょっと見てくるね」

 タオルに包んだまま、彼女は仔猫を椅子に置く。一人で二階へ向かうべく階段の手摺を掴んだのだが、階上に広がる薄闇を見て少々怯んでしまった。十年以上の月日を過ごしてきた屋敷なのに、天候が悪くなるだけでこうも不気味に見えてしまう。

 ……否、原因は天候ではなく、それによって途端に臆病になってしまう彼女の気の持ちようなのだろう。

「ひゃあ!?」

 階段前でまごつく彼女の肩に、何かが圧し掛かる。腰を抜かす寸前、聞き慣れた鳴き声が耳朶を擽った。言わずもがな、それは後ろから付いて来たノットである。仔猫は固まっている彼女の肩からすぐに飛び降りて、ひょいひょいと階段を上っていく。そして半分ほど上ったところで、こちらを振り返って座り込んだ。

「あ……待って、ノット」

 薄氷色の双眸に誘われて、マオは自然と足を前に出すことが出来ていた。彼女と一定の距離を保ったまま、仔猫は階段を上る。その間にちらちらと視界が点滅したものの、先程のような大きな音は響かなかった。雨漏りのしやすい二階の物置部屋まで辿り着くと、ノットは役目を終えたとばかりに踵を返し、階段を下りていってしまった。居間から漏れる橙色の灯りに、その小さな影は静かに溶け込む。

 そっと物置部屋の扉を開けると、埃っぽい匂いが廊下に漂ってくる。大雨による湿気のせいか、匂いは平素よりも薄まっているようだった。ここは使用していない家具や衣服などをまとめている場所で、マオにとっては一度ちゃんと掃除したい部屋ナンバーワンだ。しかしホーネル曰く、若い頃から物を突っ込みまくっていて収集がつかないのは勿論、何故だか刃物もありそうな予感がするから触らないでほしいとのこと。

 ……とか言って、実は彼の恥ずかしい秘密が隠されているのではと、幼い頃はよくこの部屋を漁ったものだ。刃物は無かったが、特に良いものも見付からなかった。

「……あれっ?」

 そんなことを考えながら天井を見上げたマオは、そこに打ち付けられた単板に目を丸くする。雨漏りしやすい箇所はきちんと補強されていて、雨水が染みている様子もなかった。マオもホーネルも木工はそれほど得意ではないので、家の修理は専ら放置しがちである。
 ゆえに天井を補強してくれたのは――。



「――オングさんっ、物置部屋の天井、補強してくれたんだ!」

 階段まで出迎えてくれた仔猫を抱き上げ、マオは一階の仕事場へとやって来た。部屋には作業机にだらしなく座るホーネルと、些か疲れた様子で書類を捲るオングの姿があった。オングに関しては、マオの乱入で目が覚めたかのように肩を揺らし、それまでの疲労感を取っ払って無理やり笑顔を浮かべる。

「あ、あぁ、さっきホーネルに頼まれてね」

「ありがとう、私じゃ綺麗に出来なかったから……オングさん、疲れてる?」

「えっ、いやそんなことは」

 マオは言葉の途中で、オングの腰掛けている二人掛けのソファにちょこんと座る。彼女の心配する眼差しを受け、彼は慌てて首を横に振ったのだが、視界に入った黒い仔猫を見ては声を引き攣らせた。それに併せて褐色の肌も少しばかり青褪めた気がする。

「はっ……その、配達が立て込みそうで、少し気が遠くなってな……」

「あ、そうだよね……また暫くオングさんと会えないんだ」

 ホーネルが請け負った仕事が多くなれば、自然とオングの仕事も増える。この最下層の住人なら配達なんて数日で終わるし、大体の客は自らこちらに足を運んでくれるだろう。問題は上層に住む貴族と呼ばれる者達で、彼らは依頼のために人を送ってくることはあるものの、出来上がった品は届けに来いという場合が殆どだ。無論、商売人の枠を出ないホーネルが、貴族の言葉に異を唱えることは許されない。近頃はホーネルの噂を聞き付けた上層の客が増えたことで、配達員のオングは多忙の日々を送っているのだ。

「でも今日はゆっくり休んでね。そうだ! 花屋さんが新しい茶葉を分けてくれたから、淹れてくるね」

「えっ、は……花屋!? マオ、待て待て待て」

 オングの制止も虚しく、マオは仔猫と共に台所へと向かってしまう。彼は半ば絶望的な表情で彼らを見送っては、ゆっくりと視線を前に戻した。

「いやあ本当に、良いタイミングで帰ってきてくれたね、オング」

「……なあ」

「ん?」

「何でそんなに笑ってるんだ? あんた……」

 帰還して早々、ホーネルから満面の笑みで出迎えられたオング。普段から気だるげなツラをしているくせに、一体何を企んでいるのかと問うより先に、店主から物置部屋の天井を補強してくれと頼まれてしまった。嫌とは言えない性格の彼は、脚立を持って渋々木工を開始。補強を終えて一階に戻り、店主に再度その笑顔の理由を尋ねようとしたのだが、まるで図ったように外で雨が降り出した。「ああしまった、マオが外に行ってるんだった」というホーネルの呑気な言葉で、オングは慌てて外へと飛び出す。するとちょうど、屋敷の方へ駆けてくるマオを発見。何だか危険な予感がした彼が咄嗟に走れば、案の定マオが足を滑らせる。捨て身のスライディングで彼女の下敷きとなった瞬間、「帰って早々、どうして俺はこんなことしてるんだ?」と疑問に思ったものの、マオの笑顔で何とかメンタルを保つことが出来た。

 そんなこんなでようやく落ち着くことが出来たオングに、ホーネルは次に届けて欲しい商品リストを渡したのだった。

「お前が帰って来なかったら、配達が滞るところだったよ」

 椅子に座り直したホーネルは、どこか呆れた視線を送る。オングは書類に目を落とし、灰色の短髪を片手で掻いた。

「ああ、勘違いするなよ? 何度も言うけどお前はこの店の配達員で、マオの“保護者”だ。お前に限界が来たら臨時の……傭兵にでも頼むさ」

「いや、ここに置いてもらってる身だ。何処ぞの傭兵に取って代わられちゃ困るな」

 オングは少しばかり抑揚をつけて告げ、苦笑を零す。

 厳つい見た目に反して、彼はいつだって穏やかな態度を貫いた。例えどれだけ行儀の悪い貴族の前でも、決して腹を立てることなく穏便に済ませることが出来る。配達を行きずりの傭兵などに頼んでいれば、貴族と問題を起こしてホーネルの評判も下がっていたことだろう。

 ……ゆえに“代わり”など捜すつもりもないので、オングにはしっかり休暇を取らせたいのがホーネルの本音だ。

「……ん? この新しい依頼、随分と猶予が無いな」

「ああ……第二層に住む、あの我儘な男爵からの依頼だよ。今朝方、殴り込みに来てね。最優先で取り組めだとさ」

「今朝? ……納品期日が二週間ほどしかないぞ」

「酷いよねぇ。それと、更に困ったことがあって」

 ホーネルはがさがさと机を漁り、真新しい封筒を引っ張り出す。それは今朝やって来た男爵の使いから渡されたものだ。既に開封されているそれを確認したオングは、段々と顔を青ざめさせた。

「……だから納品を急がせたのか」

「そういうこと。まぁ設計図はもう完成したし、午前の間に製作所に頼んだから、商品に関してはすぐに完成できる」

「……」

「問題はお前だね」

 その封筒には、男爵宛てに綴られた招待状の写しが同封されていた。二週間後、第二層のリンバール城で、ある名家の結婚披露宴が大々的に開かれるらしい。爵位を持つ人間が各層から招かれ、珍しいことに公爵家の者も第二層へ下りてくるのだとか。

「こ、公爵……」

「届け先はリンバール城に指定されてるから、貴族がうじゃうじゃいるところにお前は行かなきゃならないわけだけど……どうしたんだい?」

「腹が痛くなってきた……」

「大変だねぇ、苦手なものが多くて」

 大きな身体を丸め、腹部を押さえて蹲るオングに、ホーネルは肩を竦めた。

 と、その時。

「じゃあオングさんが緊張しないように、私も一緒に行く!」

 何ともキラキラした笑顔で、お盆を持ったマオが申し出た。



「――みゃー」

 頬を膨らませたマオは、暖炉の前で三角座りをしていじけていた。丸まった華奢な背中には、仔猫がべたっと引っ付いている。慰めているのか、はたまた「諦めろ」と諭しているのかは分からない。

「ああ、えっと……マオ、俺はただ、意地悪でそんなことを言ったわけじゃなくてだな……」

「でも行っちゃ駄目なんでしょ、“危ないから”」

「うぐっ」

「私、もう十六歳だもん。自分のことは自分で出来るのに」

 この歳になるまで一度たりとも上層へ赴いたことがなく、有り余る好奇心ゆえにマオの口調は責めるようなものになってしまう。だが背後ではおろおろしているであろう大男の姿が簡単に思い浮かぶので、彼女は座ったままちらりと振り返った。

「ねぇオングさん、男爵さまのところまでで良いの。ちょっとだけ上層を見たら、ちゃんと帰るからっ」

「マオ……上層には確かに、マオが想像するような綺麗な町が勿論ある。けど、問題はその道中なんだよ」

「道中?」

 ようやく話を聞く姿勢を見せれば、オングの困った表情が俄に崩れる。それでも頼りなさそうな面構えは変わらない。彼はのそりと腰を下ろし、マオと向かい合う形で胡座をかいた。

「このプラムゾはマオが思っているよりも、遥かに巨大かつ広いんだ。まだ俺が知らない場所だって、数え切れないほどあるだろう」

「うん」

「領主の治める土地なら比較的安全だけど、それ以外は何の保証もない。つまり、賊の縄張りになっててもおかしくはないってことだ」

「……うん」

 第二層以上において、生活の拠点となる町は大抵の場合、賊や獣の侵入を防ぐために城郭で囲まれている。プラムゾの橋脚内部は建造物の内側と言えど、その複雑な造りゆえに未開拓の地が当然存在する。詳細のはっきりとしない地域に、領主の目を盗んで賊がこっそりと根城を築いていることは多いそうだ。

「もしリンバール城に到着するまでに賊に襲われて、俺が万が一怪我をしたら……マオは一人で身を守れるかな」

 決して咎めるような口調ではなく、いつもの優しげな声で彼は問う。マオはちらりと珊瑚珠色の瞳を遣ってから、肩に登ってきた仔猫の顎を撫でた。

「……ううん、きっと守れない」

 ぽとっ、と腕の中に落ちてきた仔猫を、彼女はそっと抱きしめる。オングは何も意地悪を言っているわけではなく、純粋にマオの身を案じているだけなのだ。あまり深く考えずに駄々を捏ねてしまったが、もう少し彼に配慮すれば良かったかもしれない。

「……我が儘言ってごめんね、オングさん」

「えっ。……いや、謝ることじゃない。しっかり説明してこなかった俺も悪いから、ほら、だからその……機嫌を直してくれないか……?」

 恐る恐る尋ねてきたオングを見上げ、マオは緩く口角を上げる。そして仔猫を床に降ろしては、彼の逞しい腕を抱えるようにして引っ張った。

「じゃあ代わりにお話聞かせて? それで我慢する!」

 マオが明るく告げると、オングは何処か申し訳なさそうに笑って、配達途中に見聞きした土産話を始めたのだった。




 ――しかし、その夜。

 控えめなノックが為され、それまで眠っていたマオは目を覚ました。就寝時に有無を言わさず抱き寄せた仔猫をじっと見詰めてから、寝ぼけ眼に扉を見遣る。

「マオ」

 籠った声を聞き捉え、彼女は昼間よりもゆっくりとした動きでベッドから降りた。

「なーに、ホーネルさん。お夜食作った方がいい?」

「ううん、遅くに悪いね。臨時のお仕事……お手伝いかな。頼まれてくれるかい?」

 眠たそうに目を擦りながら、マオはこくりと頷く。ひょこひょこと後ろから付いてきた仔猫は、彼女の足元で短く一鳴き。一人と一匹を見下ろしたホーネルは、自室で眠っているオングには聞こえぬよう、こっそりと囁く。

「男爵から追加の依頼があってね。受諾は任意と言われたんだが……」

「うん……?」


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