プラムゾの架け橋

第一章


01.

 ――冷たい潮の香りが漂う浜辺には、誰も見付けることが出来なかった。

 小さな住人はゆったりと砂を踏みしめ、波打ち際で白い泡を立てていく。ふと後ろを振り返っても、足跡は波に浚われて消えてしまっていた。再び顔を前に戻す過程で捉えたのは、果てのない藍色に浮かぶ朧げな影。昇り始めた暁に、その影を明かす力はない。

幾重の雲がヴェールとなって、かの正体を照らす光を遮っていた。朝の景色を見詰めていた小さな住人は、やがて町の方へと向かったのだった。



 脛の辺りまであるベージュのズボンを穿き、袖にゆとりのある白いブラウスを頭から被る。更にその上から紺色の作業着を羽織り、腰を太めのベルトできつめに固定していく。ベッドの脇にきちんと並べてある、踵の擦れた靴を履き、立ち上がるついでに大きく伸びをした。そのまま日の射し込む方へ歩み寄ると、立て付けの悪い窓に両手を掛け、勢いよく押し上げる。

 この部屋に限らず、硝子は昨日の雨のせいで随分と汚れてしまったので、後で軽く磨いておかなければならない。ああいや、まずは仕事場のゴミ捨てが先だろうか。掃除の段取りを考えながら、少しだけ身を乗り出し、爽やかな朝の空気を吸い込む。

「わっ」

 すると外から小さな影が飛んでくる。慌てて両手を挙げれば、四足歩行の生き物――真っ黒な仔猫が当然のようにそこへ座り込んだ。

「ノット、おはよう。今日は良い天気だね」

 そんな傍若無人な仔猫――ノットに対し、彼女は優しく挨拶をしつつ頭を撫でる。指先を小刻みに動かしてやれば、仔猫はごろごろと喉を鳴らした。

「ホーネルさん起こさなきゃ。ノットはここで日向ぼっこしとく?」

 暖かな日を浴びながら、目線を合わせるように頬杖をつく。開かれた薄氷色の双眸に微笑みかければ、仔猫は応じるように短く鳴いて起き上がった。そして身軽な動きで跳躍しては、姿勢を正した彼女の肩に飛び乗る。さて行こうかと思ったのだが、彼女は思い出したように声を上げた。

「あっ、ちょっと待って。私まだ髪の毛も結んでなかった」

「みー」
「ご、ごめんね」

 不機嫌そうに鳴きつつも床に降りてくれた仔猫に謝り、彼女は自身の長い茶髪を梳きながら、簡素なドレッサーの前に腰掛けた。うっすらと曇った楕円形の鏡に、少しばかり眠たげな彼女の顔が映し出される。鮮やかな珊瑚珠色の瞳はまだ半開きで、彼女は覚醒を促すべく頬を叩いた。

 手からサラサラと零れ落ちる髪をざっくりと二つに分け、それぞれを頭頂部から耳に掛けて大きく編み込む。項の辺りまで編み込んだ二つの毛束を、紺色のリボンで一つに纏めた。手元が直接見えていない状態での蝶々結びはあまり上手くないので、きっと綺麗に結べているだろうと信じて――つまり妥協している。

「よし、終わり! ノット、おいでっ」

 両手を広げて促せば、仔猫はひょいと肩まで跳躍した。木製の扉を押し開け、荷物で溢れ返った廊下を注意深く進む。これらは一昨日、依頼の品を渡したときに代金と一緒に贈られた品々だ。必要ないと断ったものの「年頃の娘なのだから」と押し切られ、何着かの衣服を受け取ることとなってしまったのだ。

「私はただのお手伝いなのになぁ……お礼ならホーネルさんにあげるべきよ」

 ねぇノット、と同意を求めてみたが、仔猫は知らん顔で肩にしがみついている。かと思えば小さく一鳴きして、黒い尻尾で彼女の背中をくすぐった。

「……貰っておけって? オングさんと同じこと言うんだね」

「みゃあ゛」
「いたたた」

 仔猫の尻尾が唐突にべしべしと背中を叩く。この店で一応は従業員として働いている男の名前を出すと、何故か仔猫は不機嫌になる。どうして仲が悪いのか気になるところだが、訊いても答えてくれないのだ。言語を話さない仔猫は勿論、嫌われている男の方も「心当たりがない」と眉を下げるばかり。変なの、と首を傾げながら、彼女は目的の部屋に到着した。

「ホーネルさん、起きてるー?」

 扉をノックしてみると、中から呻き声……ではなく、おそらく返事と思われる声が寄越される。たった今目覚めたようだと確信しつつ、彼女は扉をそっと開けた。寝室にも関わらず、そこにはインクと羊皮紙が発する独特な匂いが充満していた。寝台の傍には大量の本が積み上げられており、昨夜も就寝の挨拶をした後で読書に耽っていたのだろう。

「ふごぁっ」

 毛布を引っ張ると、それに包まっていた中年男性が転がり出てきた。白髪交じりのブロンドの短髪を掻きながら、彼――ホーネルはむくりと体を起こす。その間に彼女は寝室のカーテンと窓を開け、すっきりとした笑顔で振り返った。

「ホーネルさん、おはよ!」

「んん……おはよう、マオ」

 寝起きの掠れた声で名前を呼んだホーネルは、大きな欠伸をしては目を擦る。そんなだらしのない姿に、彼女――マオは仔猫と顔を見合わせて笑った。



 箒と塵取りを手に忙しなく歩き回るマオの後ろを、仔猫のノットがのんびりと付いていく。鈴の揺れる小さな音を聞きながら、彼女は慣れた手つきで廊下を掃き、ついでに閉め切っていた窓を順に開放していった。淀んでいた空気が流れ始め、その場の温度も心なしか下がったようだ。

 「無駄に長い」とホーネルが文句を垂れる廊下の突き当りで、マオは最後の窓を開ける。振り返れば、長年の埃や痛みを刻んだ焦げた廊下に、光の筋が幾重も並んでいた。毎朝こうして窓を全開にしているのだが、マオはこの変わらぬ景色をとても気に入っている。視線を下ろすと、ノットがちょこんと座って彼女を見上げている。

 これも彼女にとって、毎朝の一部だ。

「埃っぽくない?」

 尋ねると同時に、仔猫は片脚で顔を擦った。マオは笑いながら謝ったが、ふと何かに気付いては両膝をつく。

「やっぱり取れそうになってる」

 ノットのぴんと立った右耳に触れ、そこに着けられている鈴の耳飾りを摘まんだ。耳を傷めないよう、円筒型の金具を使ってみたのだが……やはり耳殻を挟むだけでは装着の維持が難しいようだ。

「うまく出来たと思ったんだけどなぁ……あ、ごめんね」

 ちょんちょんと青い鈴を指先で突っつくと、ノットが嫌がるそぶりを見せた。まるで耳飾りが外れてしまうのを避けているように見えるが、それは恐らく思い込みというやつかもしれない。残念なことに、ノットはマオの飼い猫ではないのだから。

「ノット、後で調整してもいい?」

 箒と塵取りを壁に立て掛け、マオは仔猫の脇に両手を添えて抱き上げた。彼女の珊瑚珠色の瞳が微笑みかけると、仔猫は一鳴きして欠伸をかます。何だかホーネルさんに似てきたね……とは言えず。  その時、廊下の奥の扉が開く。そこから出てきたのは、先ほど起こしに行ったホーネルその人であった。寝間着から着替えたおかげで、幾分かシャキッとしたような、していないような。

「……あぁ、マオ。もう掃除してくれてたんだね」

「うん! ノットと一緒に」
「そいつは特に仕事してなさそうだけどなぁ」

 その一言に、ノットがまるで殴るように片足を動かす。彼に悪意は無い(と思う)ので、マオは仔猫を抱き締めて宥めておく。ホーネルは誰に対しても柔和な口調で話すが、なにかと言葉に毒を乗せるような性格だ。己に正直、といえば聞こえはいいかもしれないが、接客の際にも時々失言をしてしまうそうな。そのせいで何人のお客を失ったのか、尋ねる勇気はマオにはなかった。

「一通り終わったら朝ごはんにしようか」

「はーい」
「お腹空いたら終わってもいいからね」
「キリの良いところまでやる!」
「ほどほどに」

 労いの言葉を言い終えるより前に、ホーネルは踵を返す。そして放置している荷物に爪先をぶつけ、声にならない悲鳴を上げつつ居間の方へと向かっていった。

「また寝不足かなぁ」

 彼の背を見送ったマオは、心配そうに眉を下げる。ただでさえ普段から周りを見れていないと言うのに、昼間も意識が朦朧としていたら怪我をしまくりだろう。頼むから夜はしっかり寝てくれと頼んでも、聞いてくれた試しは無い。

「今度、寝る前のお茶に薬草でも仕込んじゃおっか。すぐ眠くなるような……」

「みー」

 その薬草は俗に言う睡眠薬に分類されるものなので、それとなくノットが「やめとけ」と批難するような声を上げた。




「――うん、綺麗になった!」

 濡れ雑巾をバケツに放り込み、磨き上げた窓ガラスを見上げる。白い雲の多い青空は、先程よりも鮮明に見通すことが出来るようになった。満足げに頷いたのも束の間、彼女は雲の向こう、うっすらと浮かぶに目を細める。じっとそれを眺めながら、マオは跨いでいた脚立から飛び降りた。

「……ノット、終わったよ」

 思いのほか声が暗くなってしまった。乾いた雑巾を床に叩きつけていたノットが、弾かれたように頭を上げる。マオは口角を上げて笑って見せた。

「あ、手伝ってくれたんだ」

 恐らく床を磨いてくれていた仔猫の足元から、ぐちゃぐちゃになった雑巾を拾い上げる。お礼の意を込めて頭を撫でたのだが、ノットは彼女の手をすり抜けて近寄って来た。その場に屈んだマオの膝上に飛び乗っては、柔らかい肉球を彼女の鼻に押し付ける。思わず笑ってしまったマオは、仔猫を抱き締めて立ち上がった。

「ねぇノット、あの渦が消えたら、雲も晴れるのかな」

 彼女が指し示したのは、窓の向こうに広がる町の景色――それを超えた先にある広い海だ。穏やかに見える藍色の沖には、全てを藻屑にしてしまう大渦が巻いているのだとか。向こう岸に渡るべく挑んだ過去の勇敢な船乗りたちは、尽くその下へと沈んでしまった。誰も渡ることが出来ない海の先に、あの巨大な影は佇んでいる。雲に隠されたそれは、マオだけでなく多くの人々の好奇心を擽り、その命を散らせていった。

「ホーネルさんが言ってたわ。渡ることが出来ないんじゃなくて、許されてないんだって」

 黒い毛並みを優しく撫でながら、どこか寂しそうに告げる。ノットは薄氷色の瞳を細め、そんな彼女の意識を引き戻すように身じろぎをして、床へと飛び降りた。

「ごめんね。お腹空いたよね」

 ついぼうっとしてしまったことを恥じつつ、マオは掃除用具を抱えて居間へと向かう。薄暗い天井を見詰めたまま、右手に提げたバケツを揺らした。時々立ち止まっては物思いに耽り、緩く首を振ってまた歩き出す。上の空な彼女の後ろで、ノットが小さく耳飾りを鳴らした。

 掃除用具を片付け、ホーネルのいる居間の扉を開けようとしたときだった。正面玄関口から叩きつけるようなノックが響く。マオが驚いて廊下を振り返ると、音を聞き取ったホーネルが居間から姿を現した。

「あぁ、マオ、ご苦労様。先に食べてていいよ」

「うん……お客さん?」

 客にしては荒々しい訪問の仕方だと、彼女は少々不安げな表情を浮かべる。ホーネルは彼女の肩を軽く叩き、居間にいるように促した。扉をそっと閉めたマオは、言われた通り仔猫と一緒に朝食を取ることにする。  年季の入った木製のテーブルの上には、スライスされた丸いパンが籠に入れて置いてあった。その傍らには温かい野菜スープと、ミルクとバターが二人分……と思いきや、底の浅い器にもミルクが注がれている。おまけに焼いた小魚まで。

「ノット、どうぞ」

 仔猫用の朝食を与えて、マオは定位置となっている窓際の椅子に腰を下ろす。食事時にはいつも、スープとは別にもう一つ水の入ったボウルが置かれている。幼い頃、この水は何なのかとホーネルに尋ねたら、「手を洗うもの」と端的に教えられたことがある。

 近隣に住む人々からすれば、外見的に小汚い印象の強いホーネルが、そのような行儀の良い作法を守っていることが可笑しくて堪らないそうだ。あまりそういった決まりごとに関して詳しくないマオは、取り敢えず彼の真似をして手を洗うようにしている。

「……?」

 バターを乗せたパンを齧ると同時に、玄関の方から知らない男性の声が聞こえてきた。どうやら怒鳴っているようだが……またホーネルが失礼な発言をしてしまったのだろうか。

「大丈夫かなぁ……」

「……みっ」

 そのとき、静かにミルクをちびちびと舐めていたノットが、不意に尻尾を立てる。マオが不思議そうに首を傾げると、仔猫は彼女の膝の上に飛び乗った。

「――とにかく急いで取り掛かれ! 他の客など後回しにしろ!」

 けたたましい声と共に、何かが割れる音が響く。マオは思わず飛び上がりそうになったが、膝の上にノットがいたことで視線をそちらへ向けるだけに留めた。しかしあまりにも物騒な雰囲気が漂ってきていたので、彼女は食事の手を止めて仔猫を抱き締める。

 やがて彼女は行儀が悪いと分かりつつも、ノットを抱えたまま席を離れた。そうっと扉を開ければ、玄関扉の前にホーネルの丸まった背中が見える。彼は後頭部を掻いては、足元に散らばっている何かの破片を拾っていた。

「ホーネルさん」

 声を掛けると、彼は屈んだ状態でこちらを振り返る。そこでマオは、先ほどの音の元凶を知った。

 玄関の外には町の通りに繋がる階段が設置されている。石造りの洒落た設計であることは確かだが、如何せん殺風景だからとマオが幾つかの植木鉢を置いていたのだ。割れてしまったのは、恐らくそのうちの一つだろう。

「悪いね、マオ。気性の激しいお客さんだったみたいで」

「あ……ううん。ホーネルさんは怪我してない?」
「大丈夫だよ。それより、ちょっと困ったことになったなぁ」

 一緒に植木鉢の破片を掃除しながら、マオは何があったのかと話の続きを促す。彼は土に塗れてしまった花を拾い上げ、呆れた様子で溜息をついた。

「少し前に依頼してきた上層の客が、また僕のところで商品を作って欲しいって言ってきてね」

「えっと……前は、指輪を作ったんだっけ?」

 どんな客だったかは覚えていないが、ホーネルの作った商品――装身具に関しては詳しく記憶している。彼の手掛ける指輪や懐中時計は素晴らしいと評判で、その仕事を間近で見てきたマオもまったくもって同意見だ。彼が請け負うのは主に設計なのだが、依頼者の要望に応える技量はもちろんのこと、それほど高額な料金を請求しないところも人気のひとつなのだろう。

「そうそう。気に入ったから、もう一つ違うデザインで作れだとさ。依頼が立て込んでるから暫く待たせるって言ったら、この結果だよ」

 割られた植木鉢を見下ろし、マオは不満げに頬を膨らませる。他の依頼を後回しにして自分を優先しろだなんて、随分と自分勝手な客だ。前払いとして結構な額を押し付けていったらしいが、それもまた悪印象である。

「もしかして貴族の人なの?」

「上層に住んでるからね。それなりの身分はあると思うよ」
「……指輪、作るの?」

 ホーネルはふと手を止めて、彼女の方を見遣る。そのふくれっ面に苦笑をこぼし、宥めるように肩を叩いた。

「屋敷を潰されても嫌だしなぁ。とにかく他の依頼と平行してやってみるさ。オングにまた配達してもらわないとな」

「手伝えることあったら言ってね? 徹夜は良くないから仮眠はちゃんと取って、ごはんも食べてね、あと、それから」
「わかったわかった。必要があればマオにも頼み事するかもしれないし、そのときはよろしく」
「ほんとに?」

 訝しむ視線で問えば、ホーネルはサッと瞳を横に逸らした。手伝えることは言えと告げてみたものの、彼は「頼み事」なんて最も苦手な部類の人間だ。店主として指示することは出来るらしいが、生憎マオのことは従業員というより……ほとんど娘のように思っていることだろう。そんな彼女をホーネルが使い走りにしたことなど無いし、これからも無いように思えた。

「あぁ、それじゃあ……朝食の後で、植木鉢の片づけ頼んでもいいかい」

「お仕事と関係ないじゃないっ」
「んー、あると思うよ。お店の管理運営の一角を担うわけで」
「もう、分かったよ。ホーネルさんが無理しないように勝手に見張っておく」
「いつも通りに落ち着いたな」  そう言って笑った彼に、それまで怒った表情を維持していたマオも、釣られて笑ったのだった。



 その日の午後、植木鉢を片付けたマオは、買い出しのために町へと出た。新しい植木鉢と花を買っていいと、ホーネルから許しが下りたのだ。ついでに少なくなってきたインクも買って来て欲しいとのことだったので、彼女は先に図書館へ向かうことにした。あそこの管理人とホーネルは昔馴染みらしく、高価な羊皮紙と併せてインクも特別に販売してくれているのだ。

「ノット、耳、痛くない?」

 石畳を歩きながら、マオは後ろを歩く仔猫に話し掛ける。屋敷を出る前に、右耳の金具を少しだけきつくしておいた。仔猫は首をふるふると動かしては、耳飾りが取れないことを示す。特に不快感も露わにしなかったため、マオは安心したように微笑んで前に向き直った。

 海とは反対方向――島の中央へと向かう大通りへ出ると、屋敷からは見えなかった巨大な”壁”が遠くに聳え立つ。縦も横も視界には収まり切らず、雲によってその輪郭はぼやけていた。

 ほとんどを緑に侵食された、この異常なまでに大きな壁は、「プラムゾ」と呼ばれる橋を支える橋脚だ。かの橋に対する人間の比率は豆粒未満で、一体どうやって建造されたのかは未だ明らかにされていないらしい。

 ひとつ言えることは、四方を海に囲まれた狭い島で、人々は何とかして居住スペースを確保したかったということだ。現在では身分の高い者が上層で暮らすことを許されており、領民以外の平民や職人は下層に居を構えている。しかしその下層においても橋脚内部を貴族、外部を平民というように住み分けが為されるため、内部に入るだけでも通行証を発行しなければならないそうだ。

「内地の人は怖いって、オングさん言ってたなぁ」

 生まれてこの方、一度も橋脚内部に赴いたことのないマオは、ホーネルやオングの話から得た知識しか持ち合わせていない。彼らが内地へ赴くときは、いつも留守番を任されてしまうからだ。そのため、橋脚付近に位置する図書館に用事があるときは、今日に限らず率先して手伝いを申し出ている次第である。

「ちょっと覗くぐらい、許してくれてもいいのにね」

 不満げに唇を尖らせたマオは、特に確認もせずに通りの角を曲がろうとした。ノットが短く鳴いたと同時に、彼女はゴンッと額を打ち付ける。

「痛……」

 こんなところに壁なんてあったっけ、と額を押さえながら顔を上げると、そこには見慣れない鉄板――否、鎧を身に纏った男が立ち塞がっていた。じろりと鋭い瞳を向けられ、マオは思わず委縮する。

「邪魔だ。そこを退け」

「え、あ、すみませ……」

 彼女は慌てて道を空けようとしたのだが、それを阻むかのように仔猫が前に出てきた。そして鎧の男の正面に歩み出ては、堂々とそこに座ってしまったではないか。……おまけに毛づくろいまで始めた。マオが内心で悲鳴を上げつつ、すぐに仔猫を抱き上げた時だった。

「その言い方は良くないぞ、グレンデル。お前もちゃんと確認しなかっただろう?」

 鎧の男――グレンデルは後ろから肩を叩かれると、一礼して脇に引っ込む。マオが呆けたまま視線を前に戻せば、そこには少し赤みを帯びた金髪の青年が立っていた。光沢のある艶やかな髪はもちろん、同色の優しげな双眸からは気品が滲み出ている。身に纏う衣服も上等なものだと一目で分かったマオは、彼が上層に住む身分の高い人間であることを悟った。

「怖がらせてごめんね。……額は大丈夫かな?」

 物腰の柔らかい人らしく、彼は申し訳なさそうに尋ねてきた。小刻みに頷いたマオは、カニ歩きをしながら道を空け、「どうぞ」と控えめに告げる。その行動に少しばかり眉を下げた彼は、苦笑しつつも礼を述べた。

「ありがとう。グレンデル、行こうか」 「はっ」

 去り際、彼の後ろを付いていこうとしたグレンデルが、マオに一礼する。慌てて彼女も頭を下げている間に、二人は東通りの方へと向かってしまった。

「……びっくりしたぁ」

 強ばっていた肩から力を抜き、マオは大きく息をついた。何処か不機嫌そうな仔猫は、腕の中でもぞもぞと動く。

「もう、ノット。道の真ん中に行っちゃ駄目だよ」

「みぃ」

 生返事をした仔猫は、マオの肩に軽々と移動しては、亜麻色の毛束に顔を擦り付けた。通常運転な様子の仔猫に溜息をつき、彼女は図書館へ向かうべく歩みを再開する。

「……あの人も上層に住んでるんだろうな」

 ぽつりと呟いた彼女は、雲に覆われた橋脚を見上げたのだった。



 ――マオが仔猫と共に図書館へ行った後、ホーネルはとても困った様子で机に向かっていた。机上には依頼の詳細が書かれた羊皮紙が重ねられており、彼はそれらを見比べて唸り声を漏らす。

「……どうしたものかな」

 そのとき、ふと仕事場の窓を見遣った。ちょうど屋敷の玄関口が見えるのだが、そこに一人の大男が歩いてくる。ホーネルは目を見開き、乱暴に窓を開けては身を乗り出した。 「やあ、おかえり!!」

「!?」

 狂気すら感じる声と笑顔を受け、その大男が肩を揺らして振り返る。

「良いところに帰ってきたね、オング」

 これは帰らない方が良かったのでは……と、大男――オングは思わず後ずさったのだった。


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