98.






 冷たい感触が頬に伝わり、目が覚める。エリクは何度かまばたきを繰り返し、硬い石畳に左手を突いた。ゆっくりと体を起こし、気怠さの残る頭を軽く振る。

 そこは樹海でも朽ちた遺跡でもなく、石造りの静閑な柱廊だった。外から射し込む柔らかな光に目を眇め、柱の向こうを覗き込むと、以前に商人から見せてもらった絵画と似た風景──聖都の町並みがあった。

「……大神殿の……上階……!」

 ぽつりと呟きながら、エリクは次第に意識を覚醒させる。慌ただしくその場に立ち上がり、誰もいない柱廊を見渡す。ニコやカイ、ミラージュの姿はそこにない。どうやらエリクだけが一階の樹海から抜け出したようだ。恐らくあの白い靄を経由して──。

「アステル……」

 つい先程見た少女を思い出し、エリクはおもむろに頬を探る。驚いたことに、彼は知らずのうちに涙を零していた。

 千年前にイナムスへ舞い戻ったアステリオスは、もしかしたらプラムゾでもその存在が語り継がれているのかもしれない。だからこそあの少女が同じ名を継ぎ、巨人族の罪を克服しようとしているのだから。

 自分はきっと、そのことが堪らなく嬉しいのだろう。かつて暴虐の限りを尽くした同胞たちが、ようやく互いに手を取り合い、孤島から脱しようとしている。巨人族としてではなく、人間と対等な立場で──。

「……急がないと」

 プラムゾの現状をこの目で知れたというのに、肝心のイナムスが混乱の最中では意味がない。教祖に会って、もう争う必要はないと告げなければ。巨人族の末裔は近いうちに、己の手でイナムスへ辿り着くことになる。

 ティールの人間を力で退け、ティビー・ヘミンを造ってまで巨人族に近付く必要は、どこにもない。

 エリクは大きく息を吐き、ついでに目許も拭ってから歩き始めた。青い巨石、ミグスが安置されている部屋を探して歩を進めれば、やがて柱廊が終わりを告げる。曇り空が頭上に広がったことで、エリクはここが大神殿の最上階であることを知った。

「あ……」

 緩やかな弧を描く回廊の先に、開け放たれた大きな扉を見つける。きっとあそこだとエリクはすぐに駆け出したが、その足取りは後方から飛んできた涙声に引き留められた。


「エリク!!」


 目を見開き振り返れば、柱廊の光を遮りながら走ってくる影がある。それが誰かなど考えずとも分かったエリクは、慌てて踵を返して彼女の元へ向かった。光の下へ出てきた彼女は迷わずエリクの胸に飛び込むと、そのまま膝から崩れ落ちてしまう。

「ニコ! まさか追いかけて……っ?」

 ゆっくりとその場へ屈んだエリクは、ニコを壁際に凭れさせる途中で絶句した。

「ニコ……!?」

 彼女の瞳が瑠璃色ではなく、血のような真紅に染まっている。淡く発光してゆらめく様は、どこか禍々しく見えた。そればかりかニコは疲れ切った表情で、何かに怯えるようにエリクにしがみつく。

 ここへ来る途中、つまり──大神殿のミグスが見せる幻影の中を走り抜けたことで、体に異変が生じたのかもしれない。他の共鳴者ならまだしも、彼女は“青き力が抑制する対象”の紅いミグスを宿した身だ。大精霊の加護が施されたミグスの力は、もしかするとニコには有毒だったのではと、今更ながら気付く。

「ニコ、ゆっくり息をして」
「……っ」
「大丈夫」

 彼女の背を摩りながら、エリクは懸命に声を掛ける。そうしながら、少しばかり不本意な──受け入れがたい事実にも気が付いた。

 ニコが今までに何度も悪夢に魘されていたのは、その身に宿るミグスのせいだったのだろう。てっきりエリクは、彼女をからかって遊びがちなセヴェリの仕業かと思っていたが、「エリクが傍にいることで解消される」ならば魔法の類ではない。大神殿に入った時点でニコがこの状態にならずに平気だったのも、“始祖”の力を持つエリクが近くにいたからだ。

「……」

 だから、ニコは初めて出会ったときからエリクに懐いたのだろう。エリクの中にある“始祖”の血が、彼女に大きな安堵をもたらすから。

「……ごめんね、ニコ。一人で怖かっただろう」

 声は震えていないだろうか。エリクは自嘲の笑みを浮かべ、ニコを抱き締める腕に力を込めた。次第に彼女の瞳から怯えが抜け、微睡みに瞼が落ちていく。それは嬉しいことなのに、どこか虚しく感じてしまう。


「ニコ。……少しだけ、待っててくれ」


 眠りに落ちたニコを横たえたエリクは、涙で濡れた彼女の目尻に口付ける。我ながら卑怯だと呆れながら、彼は踵を返したのだった。


 ▽▽▽


 ──開け放たれた扉の奥には、静謐の青が待ち構えていた。

 青き力と呼ばれ、二千年に渡って守り継がれてきた秘宝は、目にしたことがないはずなのに懐かしい。両手を回しても余るほどの美しき鉱石は方々へ侵食し、周囲を固める厳重な鉄柵すら己の一部と化していた。

 床や壁、それから天井にびっしりと書き連ねられた古代文字が、巨石の光に呼応して点滅を繰り返す。それはまるで眠りながらも息づき、目覚めの刻を、誰かの帰還を待っているかのようだ。

 その中でただ茫然と佇み、青き光を浴びる人影。エリクはその背中を見詰め、不意に浮かんだ名を紡ぐ。

「……ディーター」

 暫しの間を置いて振り返った教祖──ディーターは、口元に笑みを刻んだ。真紅の瞳は虚ろだが、それは狂気というよりも、諦めの感情を窺わせる。

「このような……愚か者の名を、覚えておいでで?」
「……」
「いや、そんなはずはない。あなたはもう人間だ……かつて我らを導いた、誇り高き“始祖”ではないのだから」

 ディーターは億劫な動きで外套に手を掛け、目深に被っていたフードを外す。彼の顔は干からびた大地のように罅割れ、そのあまりに長すぎた生を物語る。そしてティビー・ヘミンの若者たちと同様、双方の耳は不自然に尖っていた。

「アステリオス、人間に成り下がった者よ。私はこの身に流れる人間の血が忌まわしくて仕方がない。我が父を、友を、仲間を殺した人間が“勝者”としてイナムスを支配するなど赦せるはずがない。……だと言うのに、あなたは……お前は」

 微かな憎悪を露わにしたディーターは、エリクを鋭く睨んで吐き捨てる。

「この二千年、決して同胞を呼び戻そうとはしなかった。罪人と罵られ、理性なき獣の烙印を押されても反論すらしなかった! あのときから既にお前は神ではなかったのだ、一族を見捨てた裏切り者だった!!」
「それでも、アステリオスは……僕はあなたに言ったはずだ」

 エリクは激昂する彼に怯むことなく言い放ち、かつて巨人族が大陸より追放された意味を告げたのだった。

「巨人族は多くの命を失わせ、イナムスの大地そのものを滅ぼすところだった。彼らが己の犯した罪を理解し、自らの手で克服したならば、必ずここへ戻ってくると。それは決してあなたがイナムスに暮らす人々を滅ぼし、荒廃した大地を彼らに明け渡すということではない」

 それでは何の意味もないのだ。巨人族はイナムスに生まれた同じ命として、人や精霊と共に生きることが出来るよう努力をしなくてはならなかった。強すぎる力を持つがゆえに孤立してしまうようなら、彼らはこの先ずっと“始祖”の支配下に置かれ続けなければならないから。


「僕は──“始祖”は、彼らを自由にしたかった」


 彼らが神の元を離れ、種族の壁を越えて行けるように。


「あなたはその象徴だったはずなんだ。ディーター」

>>

back

inserted by FC2 system