99.






 巨人と人間のあいだに生まれた子。イナムスの歴史上、その最初で最後の例となったのが彼──ディーターだった。

 人の肉体を持ちながらミグスを宿す特異な存在の誕生を、双方の種族は少しの恐れと、それを上回る喜びを持って迎えた。この赤子こそ、今一つ歩み寄ることが出来ていない巨人族と人間の架け橋になれることだろう、と。

 だがその小さな希望が潰えたのは、赤子が生まれて間もなくのことだ。

 二千年前、ある二人の巨人が仲違いを起こした。それは人間と共に生きることを良しとしないグレイエンドという名の巨人が、人の集落を壊滅させたことがきっかけだ。幸い、すぐにアイユールという巨人が彼を止めに入ったため、犠牲はそれほど広がることはなかったが──彼らは言い争う内に、次第に我を忘れていったのだ。

 義憤と憎悪はぶつかり合った果てに、やがて狂気へ変化を遂げる。巨人族の秘めたる凶暴な本性が争いによって顕現し、彼らを獣へと変質させた。負の気は他の同胞たちにも伝染し、彼らはイナムスに暮らす命を見境なく刈り取ってしまった。

 そこからは──歴史に伝わる通りだ。イナムスの滅亡を危惧した“始祖”が大精霊と共に青いミグスを創り上げ、“黎明の使徒”と呼ばれる十二人の若者に力を与えた。彼らによって巨人族は討ち払われ、南海に浮かぶ孤島へ追放されたのだ。

「……私に、人として生きろと“始祖”は仰った。生き残った人間の母と共に……あの女が、既に巨人族を化物と見なしていたことも知らずに」
「!」
「だが私は喜んで受け入れた。忌まわしい人間になりすまし、いつか必ず同胞をイナムスへ呼び戻して復讐するのだと固く誓った! これが“始祖”の御意思なのだと……!!」

 ディーターは目を見開いたまま叫び、乾いた笑いをこぼす。残響が消える頃、彼はその場に突然崩れ落ちた。虚ろな笑みを引き摺った表情で後ろを振り返り、ゆらめく青を見詰める。

「……だがミグスは私の願いには応えなかった。私に、人間を滅する力をお与えにはならなかった……──もうアレは、目覚めた主の“意志”に染まってしまった」

 その言葉にエリクは軽く驚きつつ、釣られて青い巨石を見遣った。

(──そうか。今まで考えたこともなかった)

 古の時代、“始祖”と大精霊が創ったというミグス。二柱の神が生み出した産物だという認識でしかなかったが、厳密に言えば大精霊が加護を与えて加工したものであり、あれも元は「巨人の力」だった。

 そう、あれは“始祖”のミグス。他の誰でもない己が責任を取るために自ら力を手放し、暴れ狂う巨人族を鎮める道具へと転換させたもの。ミグスは千年の時を経て再び現れた主の“意志”に呼応したがゆえに、それと全く相反するディーターの願いを聞き入れなかったのだ。

「アステリオスよ。最後に聞かせてくれ」

 視線を戻すと、ディーターがゆっくりとこちらを振り向く。その額や頬には、真紅の欠片が浮き出ていた。

「同胞は、本当に戻って来るのか。……イナムスに、この大地に」
「……はい。戻ってきます。近いうちに必ず……アステルという名の少女がここに来る」

 確信を持って頷くと同時に、エリクはふと柔らかな笑みを浮かべた。


「それと、僕の名前はエリクです。僕はもうイスでも、アステリオスでもない」


 彼の返答に、ディーターは暫しの間を置いて視線を落とす。その仕草が失望だったのか、諦観だったのか、安堵だったのかは分からない。だが真紅の瞳から、長きに渡ってこびりついた復讐の色が消えたことだけは、確かだった。

「……そうか」

 掠れた声と共に、彼の頬から新たな欠片が零れ落ちる。真紅の石は床にぶつかり、小さな音を立てて割れた。それを最期に、ディーターは静かに瞼を閉じたのだった。

 座ったまま動かなくなった彼の傍に歩み寄り、エリクはそっとその体を横たえる。はらはらと落ちる真紅の欠片は、巨石の光を反射して控えめに輝いていた。

 二千年もの間、復讐のみに囚われて生きてきた彼の肉体は、与えられた寿命などとっくの昔に超えてしまっていたのだろう。ただその強すぎる執念が、彼の身に宿るミグスを生かし続けていただけだ。

 エリクは静かに息を吐き出し、部屋の最奥へと向かう。そこでじっと佇む青い巨石を仰ぎ見て、彼はぽつりと語り掛けた。

「……イナムスを守るはずの力が、争いを生んでは元も子もないね」

 左手を持ち上げ、ミグスにそっと触れる。思いのほか温かい表面を摩り、彼は紅緋の瞳をゆっくりと瞑った。


「──役目は終わった。僕の……最後の願いを聞いてくれ」





 □□□





 聞こえたのは大きな鐘の音。天上にまで響き渡った旋律は人々を魅了し、雲間からは祝福の陽光を誘い出す。

 騒々しさの消えた聖都を見下ろし、目覚めたばかりの少女はぼんやりとしたまま瞼を擦った。しんと静まり返った柱廊は、時が止まったかのように動きが無い。誰もいない空間は苦手だが、不思議と落ち着いた気分で少女は踵を返す。

 彼が入ったとおぼしき扉に手を掛け、隙間を押し広げるように肩を滑り込ませる。それだけの動作が、何故だか随分と重く感じた。

「ん……」

 部屋の中はひどく暗い。つい尻込みしそうになった少女は、すぐに頭を振って中へ踏み込んだ。

 長く伸びた影の先に、何かが倒れている。固く閉ざされた瞼と尖った耳を確かめ、少女は微かに眉を下げた。そして少しの逡巡を経て、投げ出されていた彼の両手を腹の上で組ませた。悪戦苦闘しながらも指を二本ずつ交差させ、昔教えられた通りに祈りの形を整える。生者は指先を上に、そうでないものは指先を下に。

 この変わった手の組み方は、古に生きた巨人族の習わしだったと聞く。その血を喰らった少女もまた、その教えに準ずるべきとして一通りの作法を叩き込まれたが──よもや弔いの儀を、この男に施す日が来るとは思っていなかった。

「……!」

 触れていた手を放し、少女は何気なく部屋の奥を見遣った。そこには何か、淡い光を放つ残骸が散らばっている。少女は首を傾げつつも立ち上がり、恐る恐るそちらへ近付いた。

「むぁッ」

 突然、足を引っかけて勢いよく転ぶ。ぶつけた鼻を押さえて振り返ると、そこに求めていた人が倒れている。少女は痛みも忘れて這い寄り、彼の背中に腕を差し込む。だが思ったように抱き起こすことが出来なくて、少女は困惑を露わにしながら仕方なく呼び掛けた。

「エリク!」

 彼の頬に触れると、いつもより冷たい。ニコは慌てて彼の肩を掴み、その胸部に耳を押し付ける。懇願する思いで強く抱き締めていると、微かに心音が聞こえてきた。自然と止めていた息を吐き、ニコは彼の左脇と衣服をむんずと掴む。

「んーっ……!!」

 唸りながら何とかエリクを引き摺り、暗い部屋の出口へと向かう。それなりに雑な運び方をしていても彼が目を覚ます兆しはなく、ニコは不安の入り混じった声で小さく呼び掛けた。

 もう少し、いいや、もっと力が出れば彼を担ぐことも出来るはずなのに。そうしたら早くここから出られるのに──内に湧き出た焦りが彼女の指先を痺れさせ、誤ってエリクから手を放してしまう。

「あ……っエリク、ご……ごめ、ね」

 咄嗟に屈んだおかげで後頭部は守れたものの、とうとうニコは心細さに負けて蹲った。彼をほんの少し引き摺っただけで疲れてしまい、おかしいと俯いたところでようやく悟る。


 ──この体から、ミグスが全て消えたのだと。

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