97.





「ミラージュさん、聞こえますか? しっかり……!」

 カイとニコが彼女を抱き起こす傍ら、その肩が小刻みに震えていることに気が付いたエリクは、自らが羽織っていた外套を急いで被せる。貧血で倒れたときと同様かそれ以上に、魔女の顔色は酷いものだった。

「う……エリク、様……?」
「おいおい魔女様、何でこんなところで倒れてんだ? 教祖はどうした?」

 うっすらと瞼を開いたミラージュを木に凭れさせながら、カイが労わるように尋ねる。黄昏の瞳を弱弱しく揺らし、ミラージュは震える手で額を押さえた。そのとき、彼女の手の甲から何かが落ちる。

「……!? ミラージュさん、それ」

 膝元に転がったのは、青く輝く石の欠片。ミグスだと直感したのも束の間、それが装飾品などではなく「ミラージュの体から剥がれ落ちたもの」であることを知ってエリクは瞠目した。

 ──魔女のミグスは無限ではない。再生の術を行使するたびに擦り減っていき、やがて底を尽く。

 トリーガンが言っていた話を思い出すと同時に、ミラージュが既に限界に達していることを悟る。何十何百と「未来」を繰り返してきた魔女の中にはミグスが殆ど残っていない上に、体力の摩耗も激しいように見える。彼女はそんな状態で、教祖に人質としてここまで引きずられたのだ。

「……カイ、ミラージュさんの傍にいてあげてくれ」
「はっ?」
「無理に動かしたら駄目だし、かと言ってここで一人で寝かせるのも不味いし……待っていればアーネスト様たちが来てくれるかもしれないから」
「いやいや、お前はどうすんだ!? まさか一人で教祖とご対面する気か!?」
「大丈夫、無茶はしないって約束するよ」

 慌てふためくカイに微笑み、エリクは一足先に立ち上がる。すると弾かれたようにこちらを振り返ったニコが、もたつく動作で腰を上げた。

「ニコ、君も」
「ヴース・ヤーエ!」

 一緒に行くと迷いなく告げたニコは、自分の外套を脱いでミラージュに被せる。少しの戸惑いを露わにミラージュが顔を上げれば、ニコは彼女の頭を恐る恐る撫でてから満足げに背を向けてしまう。

 実を言うとニコも休ませてやりたかったのだが、これは連れて行かないと怒らせてしまいそうだ。エリクが苦笑しつつも、再度カイに断りを入れて走り出そうとした、そのとき。

「え……!?」

 木々の合間から白い霧が迫る。視界が急速に狭まり、景色は滲んで消えていく。突然の異変にエリクがぎょっとしてニコたちを見遣っても、彼女らは特に何の反応も示していない。何故、と混乱しているうちにも視界は白み続け、やがてすぐ傍にいたニコの姿さえ薄らいで。

「ニコ!」

 少女はこちらの声が聞こえないのか、一人で駆けて行ってしまう。縋る思いでエリクがもう一度だけ名前を呼んだとき、はたと立ち止まって彼女は周囲を見回し、不思議そうに後ろを振り返った。

 だが、ついにエリクが瑠璃色の双眸を捉えることは叶わなかった。



 ▽▽▽



 ──真っ白な靄に四方を囲まれ、エリクは暫し茫然としていた。樹海独特の湿った土の匂いも、足元に茂っていた草花も忽然と消え、ひんやりとした空気だけがそこを漂う。

 これとよく似た感覚をエリクは知っている。あれは濁ったような白い海ではなく、何もかもを飲み込む漆黒だったが──何度か見た不可解な夢とこの状況は酷似していた。

「……でも、夢ではないな」

 夢とは違い意識がはっきりとしている。声も出る。音も聞こえる。それが良いのか悪いのかと問われると、どちらとも言えなかった。体の自由が利くのはありがたいが、夢でなければここから出る術が分からない。

 ニコは大丈夫だろうか。彼女はこの靄に気付いていないようだったから、もしかすると自分だけがこの白い景色を見ているのかもしれない。……彼女は一人が苦手だろうから、出来ればそうであって欲しいものだ。

 不意に、遠くから足音が近づく。また走っているようだ。今度は一体どこから来るのかと周囲を見渡し、一歩踏み出す。


 ──すぐ目の前を、見知らぬ少女が駆け抜けた。


 亜麻色の髪を目で追っていけば、白い靄が嘘のように晴れていく。気付けば景色は様変わりし、いつしか見た巨大な遺跡が眼前に広がっている。漆黒の空を彩る無数の星々が波の如く浚われ、走る少女の背を追い越す。幻想的な光景にエリクは目を奪われ、呼吸すら忘れてしまった。

『……あった』

 少女は立ち止まり、黒い台座の前で小さく呟く。肩で息をしながら、彼女は使い古した鞄の中を漁っていた。やがて取り出したのは黄金に輝く大きな腕輪。燦然と光るそれと真っ黒な台座を見比べ、首を傾げる。

「その台座を見たのは──が初めてだよ」

 エリクは彼女に声を掛けた。いや、その言葉はきっと「エリク」のものではなかったのだろう。だがもう恐怖や不安は湧いてこない。この体を借りて喋る者が誰なのか、既におおよその見当は付いていた。

「君以外の“術師”は、誰一人としてここに来てくれなかったから」

 “彼”の言葉に、少女が振り返った。真ん丸な珊瑚珠の双眸は以前と同じだが、顔の左側は奇妙な痣に覆われている。腕や足首にも残る痛々しい痣を一瞥し、“彼”は静かに語り掛けた。


「二千年。二千年待った。待ち続けた。君だったんだね、マオ──いいや、アステル」


 この少女は遥か南海の果て、絶海の流刑地プラムゾからの解放を求める者。

 奇しくも己と同じ“星”の名を継ぐ少女が、二千年に渡る巨人族の贖罪を終えようとしている。度々こうして夢を見ていたのは、その兆しだったのだろう。

 彼らが、我が同胞たちがイナムスへ帰る時が来た。魔の力を抑え、昂る心を律し、自らの手で外へ羽ばたこうとしている。そこにはもう、狂気に振り回され暴れ狂う化物の面影はない。

「君はとうとう辿り着くことになる。君が遥か昔から望み続けた“約束の地”へ」

 ──プラムゾの地へ。

「さぁ、鍵を回せ。君の願いに応えよう」

 数多の声が重なり、“彼”の手足がじわりと消え始める。少女は戸惑いと決意を宿した眼差しで、しっかりとこちらを見据えていた。やがて“彼”の姿が完全に見えなくなるとき、少女は台座に向き直り、輝く腕輪をそこに嵌め込んだのだった。

>>

back

inserted by FC2 system