92.







 ティールの知恵が集まる聖都の学問街。最後に訪れたときとは様変わりした通りを突き進み、エリクはちらりと視線を他所へ飛ばす。打ち破られた門の奥、荒らされた形跡の残る王立図書館がそこにあった。幸い建物は燃えてはいないようだが──蔵書が無事であることを祈るばかりだ。

「エリク」
「なに?」

 隣に視線を移せば、ニコが走りながらそわそわと辺りを窺っている。誰かを捜しているような仕草に倣い、エリクも周囲を探ってみる。学問街からは人々も既に避難を終えており、グギン教団の影も見当たらない。目ぼしいものは何も無いように思われたが、ニコは何を気にしているのだろうか。

「──……!?」

 そのとき、凄まじい歓声が地を揺らす。二人は顔を見合わせるなり、急いで学問街を抜けるべく足を速めた。このまま真っ直ぐに通りを抜ければ王宮前の広場へ出るはずだ。あそこは聖都の中でも最も開けた場所で、防衛のために聖王国軍が布陣していると見て間違いない。そこから歓声が上がったとすれば、それは……。

「!! ニコ、待った」

 瓦礫を飛び越えようとしたとき、ちらりと視界に人影が映る。慌ててニコを引き留めては物陰に隠れ、広場に蠢く群集をそっと窺った。

(……教団の人たちばかりだ。聖王国軍はどこに……)

 グギン教団の者たちは広場の中央を囲み、何やら野次を飛ばしている。そのおかげで辺りが奇妙な熱気に包まれており、幸いにもエリクとニコの存在に気付く者はいない。彼らは一体何を見ているのだと、エリクがゆっくりと腰を浮かせた時だ。


「──エーベルハルト、その男に止めを刺せ!!」


 群集から鋭い声が飛ぶ。驚いて目を凝らせば、遠くに紺藍の髪が揺れている。全身に血を浴びた彼は、その手に剣を握ったまま立ち尽くしていた。

「オスカーさん……!」
「オスカー」

 彼はまだセヴェリの魔法が掛かった状態なのだろうか。いや、そうでなくともリーゼロッテの身柄が教団側にある以上、オスカーはこの戦場から逃れられない。まるで逃げ道を塞ぐかのように教徒が犇めく中、エリクはようやく彼が対峙している人物が誰かを知った。

「トールマン将軍だ」

 オスカーの真正面で片膝をつくのは、聖王の近衛騎士にして蒼穹の騎士団団長を務める男だった。利き腕であろう右手は血に染まり、ぶらりと力なく垂れ下がっている。しかし、それでもトールマンは苦渋の色など一つも見せず、毅然とした態度で口を開いたのだ。

「殺さぬのか、皇帝よ」
「……」

 一向に剣を振ろうとしないオスカーを見兼ねて、周囲から更なる激しい野次が飛び始める。アーネストがいない聖王国を教団が陥落させるには、聖王コーネリアスと彼を守るトールマンの首が不可欠だ。本来なら王の首が最も重要ではあるが──コーネリアスは共鳴者ではない。トールマンさえ殺せば自ずと聖王の守りは失われ、事実上の勝利が確定することだろう。

 それを分かった上で──オスカーが躊躇っている。

 彼が“喪神の蝶”に操られていないことを悟ったエリクは、咄嗟にニコに耳打ちをした。彼女が驚いたようにこちらを見たので、エリクは神妙な面持ちで頷く。

「プロイズ・ヘーリィ。ヴース・ヤーエ」
「ん」

 強く握った手を放せば、ニコがすぐに瓦礫の陰から飛び出した。騒がしい教団の連中には目もくれず、一直線に向かう先は勿論オスカーだ。あと少しのところでニコが被っていたフードが外れてしまい、群集が俄かに騒然となる。

「な……!? カサンドラだ!! 止めろ!!」

 広場全体に動揺が走り、それに気付いたオスカーがハッと振り返った。その瞳は不気味に輝く黄金色ではなく──元の青灰色を宿していた。

「オスカー!」

 ニコは途中で襲い掛かって来た男から剣を容易く奪い取ると、走る勢いのままオスカーに斬り掛かる。微かな困惑を露わにしながらも攻撃を受け止めたオスカーが、彼女の重圧に負けて踵を後ろへとずらした。

「ヴィット・ヤーエ」
「オスカー、ナーァ・カル!」

 攻撃を繰り返す傍ら器用にトールマンを指差したニコを見て、彼はようやくこちらの意図を理解したようだった。ちらりと彼の視線が寄越される頃には、エリクも騒ぎに乗じて二人の近くまで駆け寄っていた。

「──……」

 互いの瞳が交わったのは、ほんの一瞬。エリクが駆け足で二人の横を通り過ぎた直後、けたたましい剣戟の音が広場に響き渡った。

 それまでの斬り合いは単なる遊びだったのかと思わせるほど、ニコとオスカーが凄まじい勢いで剣を振る。刃が深く交わったかと思えば、ニコが盛大に後ろへ吹っ飛ばされた。だが彼女は堪えた様子もなく、そこにいた教団の男を踏み台にして威力を殺す。そうして彼女が着地すると同時に、既に距離を詰めていたオスカーが剣を薙いだ。ひょいとそれを躱したニコの代わりに、後ろにいた数人の教徒が切り崩される。

「お……おい、やめろ! 早くトールマンを──うぐぁ!?」

 果敢にも制止に入ろうとした男の顔面に二人分の足裏が埋まり、嘘のように吹っ飛ばされた。またもや複数人を巻き添えにしたニコとオスカーが素知らぬ顔で再び斬り合いを開始したが、周りを巻き込む気満々の危険な戦闘に教団の者たちが後退し始める。無論、あの二人がそれを逃がすわけもなく──。

「に、逃げろ! 教祖様に伝令を!! え、エーベルハルトとカサンドラが暴走している!」

 一瞬にして広場は阿鼻叫喚となり、想像以上の混乱が訪れたことにエリクは少々心が痛む。何せ「オスカーと一緒に周りを巻き込みながら暴れて欲しい」とニコにお願いしたのは、他でもない彼なのだから。表立って教団に反抗できないオスカーも、突然襲ってきたニコを迎撃したという体なら幾らか通用するだろう。聡い彼はすぐにエリクの意図を理解してくれたようなので、ニコに怪我をさせる心配もない。

 一先ず広場を混沌に叩き落すことに成功したエリクは、状況を把握しきれずに呆けているトールマンの元へ駆け寄った。

「トールマン将軍! 動けますか……!」
「……おぬし、アーネスト殿下の……? あの娘は一体」
「事情は後で。今は退いてください」

 将軍の肩を支えて立ち上がらせると、王宮の方から数人の騎士がやって来る。彼らもこの大騒ぎに少々面食らっていたが、トールマンの姿を見ては表情を引き締めた。

「将軍、申し訳ありません! 我々が不甲斐ないばかりに……っ」
「よい。……王宮内はどうなった」
「は、オドレイ様の部隊が侵入者を全て撃退いたしました。そろそろ援軍が到着なさる頃かと……!」
「…………オドレイ様……?」

 聞き違いかと首を捻ったエリクだったが、詳しく聞くより先に大勢の聖王国軍が王宮から姿を現した。どうやらトールマンは、彼らが到着するまで広場をたった一人で守っていたらしい。オスカーが相手ならば致し方ないかもしれないが、それでも教団の者たちを前に一歩も引かない姿勢はさすがとしか言いようがなかった。

「トールマン様、あちらを! ──伝令にあった援軍です!!」

 兵士の言葉に振り返った瞬間、広場の東側から閃光が走る。

 教団の者たちへ落ちた青白い雷は、火花を散らしながら鎮まっていく。自然発生した落雷とは違う、鮮明な狙いを持って穿たれた光。やがて黒煙の中から現れたのは、エリクの思いもよらない人物だった。


「──我らはアンスル王国軍!! 邪教徒どもの殲滅に助力すべく馳せ参じた!!」


 細剣を掲げ、高らかに宣言したのは──真朱の髪を持つ乙女だったのだ。

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