91.






 ──聖都の空は暗雲によって閉ざされていた。この季節特有の局地的な雷雨が降り注ぎ、立ち昇る炎と煙が黒く混ざる。その景色はまるで、天さえもティールの命運を見放したかのようだ。

 横殴りの雨に晒されながら、エリクは外套のフードを目深に被る。それを真似してニコも外套を深々と被ったところで、眼下に広がる聖都を二人で見下ろした。

「酷い……町に火を放ったのか」
「さて、どうする坊主? ここから下りても良いが、まー教団の奴らがうじゃうじゃいるだろうな」

 振り返ると、幌馬車の御者台に腰掛けたトリーガンが危機感のない顔で笑っている。彼がエリクとニコを大陸の南端から聖都まで連れて来てくれたわけだが──正直なところ、何がどうなったのかはエリクには分からなかった。あのボロ馬車と大人しそうな馬一頭で、何故こうも早く聖都に着くことが出来るのだろうかと。

 本来なら一週間以上は経ってもおかしくないはずだが、体感的には一日……いや、半日ほどしか経っていない。しかしながら、近道を通ったのか幌馬車自体が普通でないのか等々、気になって仕方がないエリクとは真逆で、ニコは全く気にしていないようだった。

「……取り敢えず下りてみます。教祖がここに来てるなら、何とかして止めないと」
「そうかい。まぁ気を付けて行け」
「はい。トリーガンさん、ここまでありがとうございました」

 エリクが頭を下げれば、何となく別れを察したであろうニコが手を振る。そんな二人の姿を見て肩を揺らし、トリーガンは両手で手綱を引いた。

「今度は死ぬなよ、坊主。もう後がないからな──ああ、それと」
「はい?」
「お前の力は感情や意志に左右される。お嬢ちゃんや他の共鳴者を粉々にしたくなかったら、戦場の空気に呑まれないこった」

 その忠告に深く頷き、ニコの手をそっと握る。彼女の両手は既に結晶が剥がれたものの、うっすらと皮膚に痣を残したままだ。時間が経てばまた元通りになるだろうとのことだが、二度と激情に任せて力を行使することがないよう肝に銘じなければならない。

「じゃあな坊主。次は“未来の先”で会おう」

 トリーガンの言葉に、エリクは笑顔で応じた。

 幌馬車が旋回し、暗い林道の奥へゆっくりと消えていく。やがて完全に影が見えなくなった頃、エリクは改めて崖の下に広がる聖都を見詰めた。ここから西へ行けば市街地に続く階段があるはずだ。聖王国軍と教団が衝突しているのは恐らく大通りが収束する王宮手前の広場、それから大神殿の辺りも激戦区になっているだろう。なるべくそこらを避けながら、教祖の男を探し出し──彼が求めて止まない「プラムゾ」の現状を話さなければ。

 ──もう“巨人族”という種は、この世から消えたのだと。

「ニコ、行こう」
「ん」

 目指すは戦場と化した聖都の中央部。エリクはひとつ深呼吸をしてから、ニコと共に駆け出した。

 雨風に逆らうようにして林を西へ抜けると、市街地へ下る階段が現れた。しかしエリクは段差に足を掛けたところでハッとする。階段の麓にある落とし格子が閉ざされている上に、手前には教団の者とおぼしき剣士が二人ほど配備されていた。

「エリク」

 ちょいちょいと右袖を引っ張られて振り向けば、ニコが自分を指差してから剣士を指す。もしかしなくとも剣士をぶん殴って突破するつもりなのだろう。全く気が進まないが、それが最も手っ取り早い策であるのは確かだ。エリクは少し考え込んだ後、一旦林の中に身を隠し、出来る限り門へ近付くことにした。

「ニコ、この辺りで大丈夫?」
「ローィヴォ・アッターモ」

 任せろ、と何とも頼もしい返事に苦笑いを浮かべたのも束の間、ニコはその場でぐっと姿勢を低くした。枝葉の隙間から二人の剣士に狙いを定めつつ、彼女は傍らに落ちていた手頃な棒切れを拾って駆け出す。土を蹴る足音は轟々と唸る雷鳴に紛れ、彼女が飛び出すと同時に空が白く閃光する。

「な、何だ!?」
「ぐえッ」

 視界に色が戻る頃には、既にニコが剣士の顔を蹴り飛ばしていた。階段を転がり落ちていく剣士を見送ることなく、彼女は持っていた棒切れをもう一人の男めがけて振り下ろす。後頭部に直撃した棒が鈍い音を立てて折れれば、今度はふらついた男の腹部に回し蹴りを放った。

 茂みに突っ込んだ剣士の苦しげな呻き声を最後に静寂が訪れ、ニコは特に疲れた様子もなくこちらを振り返る。

「エリぅ」
「うわっ、とと、ありがとう、ニコ」

 つるっと足を滑らせたニコを咄嗟に支え、エリクは労わるように背を摩った。──実験施設でも感じたことだが、ニコは相手が青い瞳の獣でなければ必要以上に攻撃を仕掛けない。獣相手に狩りを行っていたとは言え、人を殺すような教育はされていなかったことが幸運だったのか、彼女は相手が動けないと分かると戦意を失くす。

(いや、もしかしたら……誰かに禁じられているのかもしれないけど)

 誰か──例えば、幼い頃からニコと同等の扱いを受けていたオスカーが挙げられる。彼も正気を保っている限りは、教団の人間を薙ぎ払うだけで命までは奪おうとしなかった。そんな彼の背中を見ていたニコが、彼と似たような戦い方をしてもおかしくはないだろう。

「……オスカーさんも、助けないと」
「オスカー?」
「うん」

 ぽつりと呟いた名前を聞き捉え、ニコが首を傾げる。

「ホルフ・ウーム」
「!」

 オスカーを助けようと伝えれば、瑠璃色の瞳が丸く開かれ、小刻みに瞬く。やがて、ぱっと笑みを浮かべた彼女は嬉しそうに頷き、まるで気合いを入れるかのように右肩を軽く回した。そのまま落とし格子の方へ階段を下り始めたので、エリクは思わず「へ?」と頬を引き攣らせる。

「アブスティークロ!」

 「邪魔!」と言いながら彼女は腰を据えると、落とし格子を両手でしっかりと掴み──何と豪快に持ち上げてしまった。本来なら数人がかりで鎖を巻き上げなければならない門をたった一人でこじ開けたニコは、両手を挙げた状態でこちらを振り返る。

「エリク、ピス・エンドルっ」

 ついつい呆気に取られてしまったが、格子の下をくぐらないとニコが動けない。エリクは早足に階段を下り、彼女が開けてくれた隙間を少しばかり背を屈めて潜り抜けた。

 エリクが城壁の内側へ入ると同時に、ニコもひょいと前進しながら手を放す。支えを失った門が勢いよく落ちれば、雷鳴に似た音が低く地を震わせた。

「ニコ、ありがとう。ザロ・ヒント?」

 手は痛くないかと問えば、ニコが両手を握ったり開いたりしながら首を振る。腕も痛めた様子は無さそうなので、エリクが一先ず安堵しつつ彼女の手を軽く握ったときだった。

 視界の端で炎上する家屋が突如として崩れ、瓦礫の中から数匹の獣が飛び出してきた。やはりアレも聖都に放っていたのかとエリクが顔を顰めたのも束の間、獣はすぐさま襲い掛かって来る。

「ナーァ!」

 しかし彼らよりも一歩先にニコが動き、目にも止まらぬ速さで獣を二体ほど蹴り飛ばした。己よりも強い存在である彼女を恐れるように獣らが後退したかと思えば、今度はエリクの背後から唸り声が近付く。ハッとして振り返れば、眼前には既に無数の牙が彼を喰らわんと大きく開かれていた。

「! エリクっ」

 ニコの声に併せて“右腕”が痛んだが、エリクは恐怖ごとそれを抑え込んだ。咄嗟に左手で獣の胴を掴み、勢いよく身体を翻す。上手いこと獣の軌道を反らしつつ石畳に叩きつければ、突如としてエリクの紅緋の瞳が淡く発光した。

「あ……!?」

 自らの異変に気付いたときには既に、事は起きていた。獣の瞳から青色が滲むように失われ、北イナムスの狼が持つ生来の黄金色がそこに戻ったのだ。弾かれるように手を放しても、狼は先程のように獰猛に暴れることはなく、ぼんやりとした様子で眠ってしまった。

「エリク!」

 そこへ獣を全て始末したニコが駆け寄り、わたわたとエリクの顔を両手で挟んできた。

「だ、大丈夫だよニコ、何ともないから」
「ロィル?」

 心配を露わにするニコに頷き、エリクはゆっくりと立ち上がる。今しがた起きた現象を何度か頭の中で再生しつつ、彼は左手を強く握り締めた。


 ──坊主、その力を恐れるな。お前の意思一つで、そいつは……歪められた者たちを救ってやれる。


 道中、トリーガンから言われた言葉を胸に刻みつけて。

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