89.





 干からびた皮膚には黒ずんだ血の跡が走り、窪んだ眼窩は真っ黒な闇をそこに抱える。大きく開いた口は激しい怒りを露わにし、小さな人間を今にも喰らわんとする勢いで見下ろしていた。

「……古の……巨人」

 これがかつてイナムスの大地を焦土にした種族なのだと思うと、フランツは不覚にも足が竦んだ。死骸が未だ完全に白骨化せず、ところどころに皮膚が残っていることにも驚いた。いや、何よりもこの無残な死骸を吊るし上げたまま、熱心に崇めている教団の狂気っぷりに絶句してしまう。本当に崇めているのなら埋めるなり偶像を作るなりすれば良いものを、何故このような状態で保存しているのか。

「巨人族がイナムスに戻る日まで、あの死骸は土に還らない……とか言ってたけど、単純に腐敗が遅いだけだよ。あいつらはそれを都合よく解釈して、わざと埋めてやらない」
「……冒涜も甚だしいですね」

 神像の周辺が黒く汚れているのは、死骸から滴り落ちた血や体液が原因だったのだろう。今はもう全て乾き切っているようだが、それ以前はひどい腐臭が充満していたに違いない。

「教祖は死骸から紅いミグスを採取して、子どもたちに食べさせ……幸運にも生き残れたのが、ニコ嬢と皇帝だけだったと」

 フランツの確認する言葉に、イェニーが静かに肯いた。

(……果たしてそれは偶然、なのでしょうかね)

 青いミグスはそもそも人間に親和性があるため、術式を抜きにしても共鳴できる可能性は僅かだがある。だが紅いミグスではそうも行かない。口にした人間が全て死に絶えてもおかしくなかったはずだ。ニコと皇帝が共鳴に成功したのは、彼らに何か共通点があったからではないだろうか。

(もしや、バルドル殿が──いや、可能性があるとすれば亡くなられた奥方も)

 じっと思考に耽るフランツを横目で見ていたイェニーは、居心地が悪そうに腕を摩り、不意に息を呑む。弾かれるように後ろを振り返った少女に気が付き、フランツも礼拝堂の入り口を見遣った。

「おや。これはまずい」

 大袈裟に、それほど危機感もない声で驚いて見せると、そこに立っていた人物もにっこりと笑う。ただし友好的な雰囲気は微塵もなく、鮮明な苛立ちと殺意がそこには込められている。

 フランツはさりげなくイェニーを後ろへ下がらせつつ、既に抜剣している男へ声を掛けた。

「ごきげんよう、ネイサン殿。こんな陰気臭い場所に何の御用で?」
「それはこちらの台詞ですよ、エンフィールドの公子殿」

 近衛騎士ネイサン──裏切り者は優しげな糸目をうっすらと開き、微笑を湛える。考えるまでもなく、フランツを追って来たのだろう。さてどうしたものかと腕を組み、彼は朽ちた長椅子に凭れ掛かった。

「私がここにいては何か不都合でも?」
「ええ……やはり貴殿は信用すべきではなかったな。アーネストを殺したというのも虚言でしょう」
「いえいえ、この手で刺しましたよ。さっくりと。ネイサン殿もご覧になったでしょう? 真っ赤な血で染まった殿下を! それに殿下のご遺体も泣く泣く貴方にお渡しして、ようやく信頼を得られたというのに」
「その遺体が忽然と消えたと言うではないですか。収容に当たった私の部下は全滅、アーネストの身柄も武器も残っていなかった」

 芝居めいた口調でアーネストの最期を語っていたフランツは、ネイサンの刺々しい返答に苦笑をこぼす。随分とお怒りのようだ。だが──それは自業自得というもので、こちらに謝る筋合いなどない。そもそも最初に裏切ったのは、この男の方だ。

「ふふ。ところでネイサン殿。リューベク殿下はどちらにいらっしゃるのです」
「……」
「貴方が国を売ってまで王にと望む、貴き御方は、どこに? もしや仲違いでもしてしまわれたか」

 ひく、とネイサンの頬が引き攣る。図星かと嘲笑いそうになったフランツは寸でのところで表情を引き締めたが、感情を露わにしたのはネイサンの方が先だった。

「……あの方は分かっておられないのだ。ご自分がどれだけ王に相応しい器なのか……アーネストが如何に出来損ないであるのかを!! ミグスの力がなければ何の才覚も持たぬ落ちこぼれが、リューベク様を差し置いて聖王になるだと!? そんなことが許されて堪るものか!!」

 憎悪に満ちた声が反響し、足元を震わせる。この痺れるような威圧感は共鳴者特有と言っても良いだろう。ただの人間には無い、それこそ巨人族という強大な存在が放つ恐ろしい覇気が宿っているような。

「ッおい、逃げろ! 胡散臭い奴!」

 ネイサンが剣を握り駆け出したところで、とんでもない殺気を感じ取ったイェニーが青褪めた顔で叫ぶ。だが逃げろと言われても残念ながらフランツは武闘派ではないので、あの太刀筋から逃げられる自信はない。剣はそこそこ使えても、近衛騎士相手に張り合えるわけがないのだ。

「胡散臭いとは酷いですね。まあ、イェニー嬢は出来れば逃げた方がよろしいですよ」
「はあ……!?」

 そうこうしている間にネイサンが目の前まで迫り、剣の切っ先がフランツの喉を捉えようとしていた。あと一歩でも進めば首を切り裂かれるといったとき、フランツの視界の奥で何かがきらりと煌めく。



「──出来損ないだからこそ、“優秀な部下”のおかげでこうして生き延びているわけだがな」



 ネイサンが瞠目した直後、その左肩に矢が深々と突き刺さる。がくりと体勢を崩した彼を見下ろしつつ、フランツは礼拝堂の入り口に立つ数人の影を見つけて笑った。

「ネイサン=ボードウィン! ティールの国と民を邪教徒に売った罪……この場で償ってもらうぞ!!」

 ところどころに傷跡を残す皇太子──アーネストは怒りを滲ませて叫ぶと、弓を放り捨てては剣を引き抜く。皇太子の声と気配を察知したネイサンは、狂気をも孕んだ瞳を血走らせながら低く唸った。肩から血を流したまま、淀みのない動きで振り返る。

「アーネスト……!! この簒奪者がぁああ!!」

 獣の咆哮にも似た怒号を上げ、ネイサンが勢いよく地を蹴った。同時に駆け出したアーネストは、距離を詰めるなり襲い掛かって来た剣を受け流し、間髪入れずにやって来た追撃を紙一重に躱す。そして下げた片足を軽く踏切り、避ける動きから攻勢へと転じる。腰を据えた重い一撃を故意にネイサンに受け止めさせ、今度は立て続けに素早く剣を薙いだ。甲高い音を上げてネイサンの手から剣が弾き飛ばされ、彼が信じられないと言わんばかりに驚愕する。


「──兄上はティールを守る“騎士”だ。それは私でも神でもない、兄上自身が進むと決めた道だ……! お前が勝手に捻じ曲げてよいものではない!!」


 アーネストが躊躇うことなく剣を振り抜けば、切り裂かれたネイサンの胸部から血飛沫が上がる。崩れ落ちた彼が血だまりの中で見たのは、複雑な表情を浮かべて立ち尽くす主君の姿だった。

「……リュー、ベク……様……」

 ブラッドの肩を借りながら、リューベクは近衛騎士の最期をただじっと見つめていた。

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