90.






 息絶えたネイサンの遺体には外套が掛けられ、その傍でジャクリーンが静かに祈りを捧げている。この世であまねく人々に平等に訪れるもの、それが死だ。命を司る神である原初の巨人を信仰する以上、大神殿や各地の教会に身を置く者は誰であろうと死を悼む。それが例え大罪を犯した者であっても、彼女はやはり安らかな死後を祈るのだろう。

「……すまない、アーネスト。嫌な役をさせた」
「兄上……いえ」

 ジャクリーンが祈る姿を静かに眺めていると、掠れ気味な声が掛けられる。見れば、長椅子に腰を下ろしたリューベクが眩暈を堪えるように額を押さえていた。やはりまだ意識が朦朧としているのだろう。何せリューベクは今の今まで、この薄気味悪い場所で軟禁されていたのだから。

「一体いつからこのような場所に幽閉されて……?」
「……ノルドホルンに戻ってすぐ、リボー領に教団とおぼしき武装集団の目撃情報が入ってな。お前に知らせようとした直後、ネイサンに……迂闊だった。あいつの様子がおかしいことには気付いていたんだが」

 改めて謝罪したリューベクに、アーネストは頭を振る。とにかく兄を安全な場所に移し、十分な休息を取ってもらわなければ。この不気味な聖地とやらは、地上の面倒事を片付けてから考えるとしよう。

 そう、それより先にアーネストには一発殴りたい人物がいる。

「──フランツ!」
「何ですか、親愛なる皇太子殿下」

 平常運転のフランツが呑気な返事を寄越したので、アーネストは頬を引き攣らせた。無論、それは皇太子の傍に控えているブラッドも同様だ。今まで以上に剣呑な眼差しを浴びたフランツは、「おお怖い」と大袈裟に肩を竦める。それを合図にアーネストは彼に詰め寄り、聖地跡での心臓に悪すぎる出来事について言及したのだった。

「お前、まさか何も告げずに私を遺体に仕立て上げるとはな!? 目が覚めたらピレー渓谷に投げ落とされる寸前だったんだぞ!!」
「はっはっは! それは面白い!」
「どこがだ! ブラッドとジャクリーンが来なければそのまま死んでたわ!」
「いた」

 心底面白がっているフランツの頬を引っ叩き、アーネストは盛大な溜息をつく。

 あのとき、聖地跡でフランツから刺され──いや、正確に言うと刺されてはいなかったのだが、当然アーネストは驚きと疲労のおかげで崩れ落ちた。その隙を突いてフランツはあろうことか皇太子に睡眠薬を嗅がせて昏倒させ、遺体と称してネイサンの部下に引き渡したのだ。

 目を覚ますなり断崖絶壁が視界に広がっていたアーネストの恐怖と絶望は、この先しばらくは忘れられないだろう。寸でのところでブラッドが助けに入り事なきを得たが、頼むから事前に知らせてくれとアーネストはがっくりと項垂れたものだ。

「いやぁ、しかしセリアから教えてもらったこの赤い塗料、本当に血みたいで優秀でしたねぇ。さすがは私の可愛くて賢い婚約者」
「惚気るのは後にしろ……」

 主君から叩かれたことも既に忘れたのか、フランツは恍惚とした表情で小瓶に頬擦りをしている。中には少量の水で溶いた赤い染料──聖地跡でアーネストの腹部にぶちまけられた血糊が入っていた。これのおかげでアーネストは遺体、とまでは行かずとも瀕死状態であると見なされ、ネイサンの目も誤魔化せたのだ。

 その後、アーネストはジャクリーンから治癒の祈りを受けつつ聖地跡を脱し、ブラッドも合わせて三人で身を隠した。つまりはフランツの計画通りに事は進んだわけだ。彼はその間にイェニーを捕まえて、グギン教団の本拠地までも突き止めていたので、腑に落ちない箇所は多々あれど流石としか言いようがない。

 アーネストたちはそのイェニーを通じてこっそりと連絡を貰い、数刻前にこの場へ侵入した。そして幽閉されていたリューベクを無事に救出し、今に至る。

「……しかし、その娘を引き入れるとはな」

 ブラッドが少々胡乱げな目でイェニーを見遣る。彼にとっては二度も刃を交えている相手ゆえ、まだ信頼するのが難しいのだろう。対するイェニーも、痛い目に遭わされたブラッドには苦手意識でもあるのか、露骨に嫌そうな顔をして後ずさった。そして近くにいたフランツを振り返り、必死の形相で詰め寄る。

「うっ……こ、こんなところまで連れて来たんだから、もうあたしは用済みだよな!?」
「ええ、そうですねぇ。と言いたいところですが、最後に一つだけ教えていただいても?」
「はぁ!? まだ何かあんのか──」

「──貴女、ソーン王国の“行方不明の王族”をご存知ですか」

 唐突に告げられた言葉に、その場にいた全員が怪訝な表情になる。アーネストやブラッド、リューベクは勿論のこと、問いかけられたイェニーも頭に疑問符を浮かべていた。

「ソーンの……? あの国、そろそろダエグとアンスルに吸収されるってことしか知らないけど」
「ほう、そうなのですか?」
「だって王族が殆ど残ってない……あ、だから行方不明……?」

 アーネストは少女のおぼろげな発言に瞠目する。北方諸国連合の三大国家の一角、ソーン王国の王族が残っていないとはどういうことなのか。確かにかの国は他二つと比べて存在感が薄いとは思っていたが──これではもはや滅亡寸前ではないか。

「フランツ、行方不明とは何だ? どこでそのような話を」
「教団に潜り込んだ際に小耳に挟んだのですよ。それとソーンではどうやら……“兵士”の実験に適した人材がよく集まるそうで」
「!? な……っ、まさか……王族を……!?」
「こっそり拉致したかもしれませんねぇ」

 そのとき、フランツが意味ありげな視線をイェニーに送る。少女が不可解な面持ちで首を傾げる一方で、彼は「まぁこの話はあとで」と頭を振った。

「今は聖都を守らなくては。イェニー嬢、ジャクリーン嬢と一緒にリューベク殿下の護衛に就いていただけますか? それが終われば自由の身ですので」
「……分かったよ。やればいいんだろ」

 溜息交じりに了承したイェニーが踵を返し、リューベクの元へ向かう。

 その背中を見送ったアーネストは、同様にして佇むフランツに視線だけで問う。しかし彼はにこりと微笑み、何も言わず口元に人差し指を立てるのみだった。

目次

back

inserted by FC2 system