88.





 暗く冷たい廊下に、こつりこつりと静かな足音が響く。そこへどこからか滲み出した雨が落ち、時たま物寂しい音を木霊させた。点々と続く水溜まりを辿り、やがて見えてきたのは厳重な錠によって閉ざされた鉄扉。カンテラの灯で照らしつつ観察すること暫く、ふと溜息をついて背後を振り返る。

「ちょっと非力な私では無理そうですね。お願いしてもよろしいですか、イェニー嬢」

 にっこりと笑ったフランツの前に立っていたのは、耳の尖った紫髪の少女だった。イェニーはどこか呆れた様子で彼を一瞥すると、邪魔だと言わんばかりに片手を払う。フランツが素直に扉から離れれば、少女は背負っていた剣を引き抜くなり、思い切り一閃する。破裂音と共に錠が砕け、その見事な技にフランツは感嘆を上げた。

「いやぁ、素晴らしい。ニコ嬢もなかなか豪快でしたが、貴女も負けず劣らずですね」
「アレほど凶暴じゃないっての」

 つっけんどんに返した少女の声は、少しばかり怯えていた。勿論それは非力なフランツに対してではなく、今しがた口にしたニコという名に対してだろう。どうにもイェニーにとって、いや──多くの“兵士”らにとって、ニコは畏怖の対象だったようだ。

 獣を嬲り殺す姿は強烈だったものの、それ以外は呑気極まりないニコの性格を思い浮かべつつ、フランツはゆっくりと鉄扉を押し開けた。そこからまた同じような暗い廊下が闇へと伸びており、ついつい溜息がこぼれ出る。

「ニコ嬢はどういう立場だったのです?」
「……帝国の“皇女役”。隔離されてたけど、あたしらよりか待遇は良かったんじゃない?」
「ふむ……ならば皇帝とやらも、貴女方と同じ……」
「ミグスの適合者だよ。でも同じじゃない。あの二人はあたしらと違う」

 生傷だらけの腕をちらりと見遣り、フランツは彼女の話に耳を傾けた。イェニーはじめじめとした廊下を見渡しながら、施設で行われていた実験について語る。

「あたしらが食ったのは、あんたの国にある青いミグス。……あの二人が食ったのは、教祖が持ってた紅いミグスだよ」
「紅い……? そんなものがあるのですか」
「ある。あんなモン食ったら即死するのが普通だって聞いた」

 イェニーが教団の人間から盗み聞きしたのは、二つのミグスにはいくつか相違点があるということだ。大精霊の手によって加工された青いミグスは、人間の身が崩壊しない程度に力を抑えることで共鳴が比較的容易である。それに対し、紅いミグスは古の巨人族が持っていた力そのものであり、人間の肉体との親和性は皆無だという。その代わり──その力は青いミグスの数倍は強力だ。

「他にもいろいろ副作用があるらしい。幻覚とか、過眠とか」
「……なるほど。貴女は体調に異変は?」
「別にない。食ったときに死にかけただけ」
「ティールの共鳴者とほぼ変わりないということですか」

 興味深い情報に、フランツは「ふむ」と顎を摩る。ニコが常に眠そうにしているのは、紅いミグスが原因となっているのかもしれない。言葉が通じないため推し測ることは難しいが、もしかすると幻覚症状に似た副作用も出ている可能性がある。紅いミグスというのは凄まじい力を与えると同時に、肉体に大きな負荷をかける代物のようだ。

「ああ、そういえばイェニー嬢。傷の具合はいかがです?」
「……もう治った」
「それは嘘でしょう。殿下に斬られた傷が癒えないうちに、獣に噛み付かれるなど。私だったら痛くて泣き喚いているところです」
「うるさいな、どうせしないだろそんなこと」

 ──蒼天宮の寝所に忍び込み、皇太子アーネストの首を狙った暗殺者。それがイェニーだった。

 見付け次第、即処刑しなければならないような少女と出逢ったのは、リボー領の聖地跡を脱した頃。薄気味悪くて居心地最悪の森から抜け出して一安心したのも束の間、何故かこの少女が教団の人間から“処罰”を受けている場に遭遇してしまったのだ。

 何でも、イェニーは“欠陥品”らしい。彼女は他の“兵士”に比べて共鳴の度合いが低く、人を傷付けることへの苦手意識が払拭できないでいる。皇太子の暗殺を任ぜられたのは、処分を免れるために教団が与えた最後の機会だったのだ。そして彼女はその任務を立て続けに失敗したことで、あの場で獣に噛み殺されそうになった──いや、半分ほど死にかけていた、と言った方が正しいだろう。

 図らずも残酷な場面を盗み見ることになったフランツは、教団の人間と獣が立ち去った後、こっそりと少女を助けた。

『良いですかお嬢さん。今から貸しを二つほど作るので、全力で私に報いるように』

 獣より危ない輩に捕まった、とイェニーは内心で絶望したに違いない。息も絶え絶えな少女に向かって、彼は飄々とした態度で告げる。

『一つ、貴女の命を何とか繋ぎ止めましょう。二つ、我が主の首を狙った重罪に目を瞑りましょう。事情がおありのようですから』
『……な……にが、目的……』
『理解が早くて良いですね。まあ、それは追々お話ししましょう』

 イェニーを助ける条件としてフランツが提示したのは、簡潔に言えばグギン教団に関する情報の提供だった。“兵士”とは何か、戦力は他にもあるのか、そして教団の拠点はどこにあるのか。フランツが最も聞き出したかったのは最後の項目、本拠地の所在だ。ダエグ王国に実験施設があることはバルドルの話で判明したものの、そこがグギン教団の活動拠点であるとは限らない。聖地跡のように巨人族と縁ある地に拠点を置いている可能性が高いだろうと、大体の当たりを付けてはいたのだが──……。

「……イェニー嬢、私の記憶が正しければ、既にこの辺りは聖都の真下なのですが」
「そうだよ。教団はあんたらの足下にずっといたってわけ」
「下手な怪談話より恐ろしいですね」

 適当な相槌を打ちながら、フランツは舌打ちでもしたい気分になった。敵がよもや聖都の真下──地下に潜んでいたとは。通りで南イナムス各地を探らせても所在が掴めないはずだ。教団にとって最も掌握したいのは、ティール聖王国の中央に位置する大神殿に決まっているではないか。青い巨石が安置されていることは勿論、かの地は古の時代、三柱の創造神が降臨したと言われている「始まりの岩礁」が生じた場所でもある。巨人族を妄信する彼らがそんな歴史ある地を求め、長い年月をかけて地下世界を築いたのだとイェニーは言う。

「まさかとは思いますが、この地下が王宮に続いているなんてことはありませんよね」
「さすがにそれは……どうだろう。小さな穴ぐらいは開通してるかも」

 イェニー曰く、この地下世界は確かに教団の本拠地と言える場所だが、常に教徒で溢れ返っているわけではない。昔は地下から聖都を直接襲撃しようとする動きもあったそうだが、聖都の地盤が非常に硬いために断念。以降この場所は教団の「聖地」、いわば神聖なる領域として認識され、教徒らは地上にある巨石に向けて祈りを捧げていたとか。

「なるほど。グギン教団の聖地、ですか」

 皮肉げに告げたフランツは、ぼんやりと明るくなった視界を見渡した。そこは大神殿の礼拝堂とよく似た空間で、両脇には長椅子がずらりと整列している。中央の通路を進んだ先に佇むのは、天上を仰ぎ両手を広げる巨大な一柱の神像。よく見るとその彫刻は、頭部と胴の間に継ぎ目が見える。まるで頭部から下を後から付け加えたような──。

「……!!」

 不審な面持ちで神像が見上げる方向を追ったフランツは、そこで大きく目を見開いた。

「イェニー嬢、あれは」
「……」

 少女も強張った表情を浮かべ、気味が悪そうに唾を飲み込んでいる。二人が見上げた先で、何重もの鎖と縄で吊られていたのは、巨大な「何か」だった。


「あれは……巨人の死骸。教祖はあいつから紅いミグスを採ったんだ」

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