86.






 ──南イナムスの中心、美しき聖都は混乱を極めていた。兵士は忙しなく城内を走り回っては、怒号にも似た声で報告を繋げる。聖竜の大山脈を超えてきた大軍は勿論のこと、ひと月前に蒼穹の騎士団が遣わされた各地方からも謎の勢力が噴出している。聖都の重要な戦力とされる第二師団から第五師団までとは連絡が完全に途絶え、皇太子アーネストの存命を知らせる吉報も未だ届かず。そして更に北の三大要塞が突破されている現状が、リューベクの戦死をも示唆していることに兵士らは絶望していた。

「ああ、何と言うことだ」
「我々は嵌められたんだ、騎士団が出払っている隙に……!」
「アーネスト殿下……」

 怒りと悲しみ、嘆きが飛び交う宮殿を、ミラージュは息を切らしながら駆け抜ける。時にぶつかり、時に転び、それでも謁見の間を目指して人混みを掻き分けた。

(まだ、まだアーネスト様は生きておられるはず……! 私のミグスが残っているなら、まだ……っ)

 そう信じるしかなかった。例え自身の体力が殆ど残っていなくとも、今までにはなかった不調が全身を襲っていても、ミグスはまだ──アーネストの命を守ってくれていると。そうでなければミラージュは、アーネストを置いて一人で「未来」を進んでいることになる。もはや感覚が狂っていると言われてしまいそうだが、彼を救えないのなら自分も今ここで死ぬべきだとミラージュは思う。

 先見の魔女は、青き力の守り手を導くために在る。その役目を全う出来ないのであれば、一族の恥どころか“始祖”の期待を裏切ることと同義だ。


『ミラージュ、私は……』


 彼が死ぬ様を幾度となく見てきた。今度こそ助けるから、今度こそ守って見せるから。何度もそんな頼りない誓いを立てて、挫けて、折れて、その繰り返しだった。だがもう逃げる場所も時間もない。ミグスが尽きればアーネストの死の運命は確定し、二度と救うことが出来なくなるのだから。

「おい、何者だ!」
「どうか通してください……! コーネリアス聖王陛下に拝謁を!」

 立ち塞がった二人の近衛兵に怯えつつも、ミラージュはもたつく動きで懐を探る。取り出したのは一族に受け継がれる“印”だ。エンフィールド公爵やバーゼル公爵など、王家と深い関わりを持つ家に贈られる身分証のようなものである。当然、先見の魔女であるミラージュの一族もその中に入っており、この印を見せれば聖王への謁見が許されるはずだった。

 しかし近衛兵は互いにちらりと顔を見合わせると、突如としてミラージュの腕を掴む。

「痛……っ!?」
「不審人物を陛下の御前に出すわけには行かん。来い」

 何故、とミラージュは大きく狼狽えた。この印のおかげで、「過去」では何の弊害もなく聖王と話をすることが出来たのに。混乱を露わにしながら、彼女は咄嗟に近衛兵の顔を見上げる。

(──この人たち、一度も見たことがないわ)

 謁見の間を守る近衛兵は、この二人じゃない。その事実に気が付いた瞬間、ミラージュは慌てて抵抗した。

「は、放してくださいっ」
「おい、抵抗するな。この……っ」

 何とか腕を振り払ったものの、勢い余って床に倒れ伏す。すかさず兵士が剣を引き抜き、何の躊躇いもなくミラージュに刃を振り下ろしてきた。小さく悲鳴を上げて身を翻せば、羽織っていたショールが床に取り残される。無残な布切れと化したそれを一瞥する暇もなく、ミラージュは来た道を引き返した。

「──逃がすな!! “魔女”が現れたぞ!!」
「!?」

 後方から響いた兵士の言葉に喉が引き攣り、体温までいくつか下がったような気がした。ミラージュの素性──未来を視る魔女の存在は、聖王や皇太子といった限られた人間にしか知られていない。あの兵士のように大声で魔女の名を叫んだり、況してや命を狙ったりする者など今まで遭遇したことがなかった。

「きゃ……っ!」

 恐怖のせいか足が竦み、ミラージュは思わぬところで躓いてしまう。加えて貧血──否、ミグスの消耗による不調が襲い、彼女の指先が震え始めた。どうにか立ち上がろうと四苦八苦している間に、武器を携えた謎の兵士たちが彼女を取り囲む。

「これが教祖様の言っていた……」
「ああ、“邪魔者”だ。こいつがいる限り、グギン帝国の復活は叶わない……!」
「血を流させろ! ミグスを根こそぎ奪えば力を失う!!」

 その言葉に背筋が凍った。この者たちがグギン教団の手先であること、教祖がミラージュの存在に気付いていること──そして何より、アーネストではなく自分が命を狙われる恐怖を知ってしまい、ミラージュは頭が真っ白になる。

「死ね、背信者め!!」

 邪教徒が一斉に武器を振り上げ、彼女が身を縮めたときだった。



「──か弱き乙女に寄ってたかって、何をしているのです? 騎士の風上にも置けませんわね」



 たった一本の剣が、全ての刃を寸でのところで食い止める。ミラージュが恐る恐る顔を上げれば、一人の女性が器用にも剣を背負うようにして攻撃を受け止めているではないか。唖然としているのはミラージュだけでなく、彼女を仕留めるつもりだった邪教徒たちも同じ心境だろう。

「蒼穹の騎士団第一師団所属、オドレイ=ベルクートに勝てると思っていて? ──この蛮族共ッ!!」

 軽鎧を身に纏った女性──伯爵令嬢のオドレイは、勇ましい名乗りと雄叫びを上げて剣を振り払う。屈強であるはずの男たちを彼女が薙ぎ倒せば、どこからともなく数名の騎士が現れ、彼らを素早く拘束する。

 呆気に取られてしまったミラージュの手前、オドレイは先程とは打って変わって慎ましやかな仕草で膝をつき、にこりと優美に微笑んだ。

「お怪我はありませんこと?」
「はっ……! あ、ありがとうございます、ええと、オドレイ様……」
「ミラージュさーん!」

 そこへ更なる声が掛けられる。のろのろと振り返れば、少々疲れた様子のセリアがこちらへ駆け寄ってきた。その側にいるのは──エンフィールド公爵家の騎士たちだ。彼女は大きく息を吐き出すと、ミラージュに向けて咎める視線を送る。

「いきなり離宮を飛び出したかと思えば……もう、オドレイ様がいなかったら、どうなってたことか!」
「ご、ごめんなさい、セリア様……! もしかして、追いかけて……」

 セリアが溜息交じりに頷いたので、ミラージュはもう一度だけ謝罪と礼を述べた。いろいろと状況が飲み込めないが、とにかく助かったようだ。安堵するあまり脱力しかけたミラージュだったが、鋭い視線を感じては肩を跳ねさせる。見れば、拘束された邪教徒のうちの一人が、血走った目でミラージュを睨んでいた。

「殺さなければ……魔女を……魔女を」
「……その者たちを牢に入れておきなさい。暴れるようなら首を刎ねよ」
「はっ」

 彼らの目から隠すようにオドレイが視界に割り込み、毅然とした態度で処遇を言い渡す。邪教徒が強制連行される様を見届けたオドレイは、剣を静かに納めたのだった。

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