85.







『グギン教団とやらの願いは、巨人族をイナムスに呼び戻すこと……あの青い巨石を使ってプラムゾを捜し出したとして、どうする気なのかね』

 ──もう巨人はいないってのに。

 トリーガンはそう告げてから、話を切り上げた。熟睡しているニコを軽々と担いでは宿に戻し、また明朝に顔を見せると言い残して立ち去ってしまった。

 吊り床にすっぽりと納まったニコは、目を覚ますことなく寝息を立てる。もう悪夢は見なくなったのだろうかと、エリクは多少の心配と共に薄手の寝具を掛けてやった。そうして知らずのうちに溜息を洩らしながら、自身も寝台に腰を下ろす。

(……アステリオス、か)

 珍しい紅緋の瞳、失われた右腕。自身と同じ姿をした若者が、千年前にもイナムスに現れたという話は──些か、不気味だった。勿論エリクにはそんな記憶もなければ、類似した史実を確認したこともない。恐らくトリーガンや当時の魔女によって、アステリオスの存在は故意に隠されたのだろう。大陸の危機を助けるためとはいえ、“約束”を反故にしたことに違いはないのだから秘密にしておいてくれと……きっと、自分と同じで妙に真面目な人物だったのかもしれない。

 浮足立つ思考を落ち着けるべく深呼吸をし、ちらりと視線を持ち上げた。すると吊り床がにわかに揺れる。少しだけ頤を上向けて吊り床を覗き込めば、どこか慌てた様子でもがくニコの姿があった。上手く起き上がれなくて困っているようだ。

「ニコ?」
「! エリク」

 吊り床の揺れを手で押さえてやると、ニコがほっとしたように身を起こす。自分が寝ている場所を確認しては「何だこれは」と驚いていたが、すぐにエリクの顔を見て首を傾げる。

「エリク、ナーァ・シュロウフ?」
「あ……うん、そんなところかな」

 眠れないのか、という問いに、エリクは苦笑交じりに頷いた。今まで「本を読むのに夢中で、そういえば寝ていなかった」と朝になって気付くことが多かったエリクにとって、理由もなく眠れないのは初めてかもしれない。いや、厳密に言えば理由はあるのだけれど。漠然とした不安と受け入れがたい事実に対する戸惑いが、エリクの睡眠を妨げ、奪い取っていた。

「ん……」

 ニコは考え込むように視線を落とし、やがて片手を差し出してくる。かと思いきや手はそのまま近付き、エリクの頭をがしっと鷲掴む。そのままぐしゃぐしゃに髪を搔き乱され、わけも分からず頭を揺さぶられていたエリクは、暫くしてようやくその意図を知って噴き出した。

「ありがとう、眠れそうだ」
「イレン・スード?」
「え!? そ、添い寝は……ちょっと……」

 まさかニコから添い寝を申し出られるとは思わず、エリクは笑顔を固まらせた。だがよくよく考えると、エリクも彼女と手を繋いだり頭を撫でたりしていたので、もしかするとその真似なのかもしれない。……そうされることでニコは快眠を得られたのだろう。とても良いことである。良いことだが、される側になるのは少々勇気が必要だった。

「……じゃあ、こうしてくれるかな」

 エリクは彼女の手を握り、寝台に横たわる。それに併せてニコも吊り床に寝転がり、ひょこっと目元だけ覗かせた。心配いらないと首を振れば、彼女はいそいそとうつ伏せになり、手を繋ぎやすいよう体勢を整えてくれた。

「ありがとう。……おやすみ、ニコ」
「ん。オヤスミ」

 寝具に顔を半分ほど埋めたまま、ニコがゆるやかに笑う。

 やがて彼女が再び寝息を立て始めた頃、エリクも静かに瞼を閉じた。明日になったら、多少の無理をしてでも漁村を発とう。ここから北上して聖都に向かい、どうにかしてアーネストの元へ向かわねば。

 それで──あの紅い瞳の男と、話をしに行こう。こちらからアステリオスの名を出せば、少しは耳を傾けてくれるかもしれない。記憶が無いとは言え、エリクが“始祖”の力を持つ者である限り、彼の暴走を止める義務があるはずだ。

 巨人族はもういない。“始祖”が自ら種の特徴を消し去り、人間と殆ど変わりない存在へと変化させてしまったことを、あの男に伝えよう。それが例え受け入れられなくとも、教団がやっていることの無意味さを理解させなければいけない。

(だって彼らが、いや、“彼女”がもうすぐここへ来てくれる)



「約束を……果たしに……」



 零れ出た言葉は波に浚われ、瞼の裏へ溶けていく。



 ▽▽▽



 まばたき程度の時間だった。いつの間にか視界は明るくなっていて、簾の隙間からは眩しい光がちらついている。夢を見る暇もないほど深い眠りに就いていたらしく、エリクは平素よりも随分と軽い体に驚きを覚えた。

「エリク!」
「わっ」

 次いで視界に飛び込んできたのは、既に起床していたニコの顔だった。彼女も充分に睡眠が取れたようで、すっきりとした面持ちで「オハヨ」とたどたどしく挨拶をする。

「ニコ……おはよう」
「ふふ」

 嬉しそうに笑ったニコだったが、ふと瑠璃色の瞳を丸く見開く。何か気になるのか、不思議そうに窓の外を窺っていた。釣られて耳を澄ましてみると、昨日に比べて宿の周囲が騒々しい。エリクはゆっくりと身を起こし、ニコを伴って外へと向かった。

 陽射しの下へ出れば、ざわめきが一層大きくなる。漁村のあちこちで立ち話をしている者が多いことは勿論、広場では集会でもしているのかと思うほどの人集りが出来ていた。

「……良いことがあった、わけじゃなさそうだな……」

 人々は不安げな表情だったり、半狂乱で騒いだりする者まで見受けられる。エリクは急いで広場へ近付き、数人で話し込んでいた中年女性の元へ駆け寄った。

「あの、すみません。何かあったんですか?」
「あら昨日の! ごめんなさいねぇ騒がしくって……でも大変なのよ!」

 ほらお食べ、と当然のように丸パンをニコに分けてくれた彼女らに礼を言いつつも、もたらされた凶報にエリクはすぐに唖然となった。


「アーネスト皇太子殿下が派兵先でお亡くなりになったそうよ。しかも、正体不明の軍勢が聖都に向かってるって……」


 思わず絶句したエリクの傍ら、聞き覚えのある名前に反応したニコが首を傾げる。二人の様子を単なる困惑としか捉えていない女性らは、互いに顔を見合わせては心配そうに溜息をついた。

「蒼穹の騎士団も散り散りになったらしくて。どうなっちゃうのかしら」
「まさか皇太子様が死んじまうなんて! 天変地異の前触れじゃないだろうね」
「さあ……そもそも誰が攻めて来てるんだい? 北方とか、その辺りかね」

 彼女らの井戸端会議が再開されたところで、エリクは遅れて焦りを露わにする。

(……そんな)

 アーネストが死んだ──それが事実なら、先見の魔女による「過去」への巻き戻しが起きるはず。だがトリーガンの話では、魔女のミグスが底を尽くと同時に再生の術も解除され、本来の時間が動き出してしまうと言うではないか。

 もしもミラージュの術が切れていて、アーネストが本当に死んでいたら──皇太子はもう二度と戻ってこない。

「っ……ニコ、おいで」
「?」

 じっとパンを見詰めているニコの背を押し、エリクは踵を返した。

 急いで聖都に行って、ミラージュに状況を尋ねよう。村人が言う「正体不明の軍勢」とやらはグギン教団でまず間違いない。重要なのはアーネストの生死と、聖都の陥落が時間の問題であるということだ。蒼穹の騎士団が派兵によって聖都を離れ、城の守りが薄くなったところを狙われたのだろう。もしかすると派兵先で教団の伏兵から襲撃を受けたのかもしれない──嫌な推測ばかりが脳内を埋め尽くし、エリクは小さく舌を打った。

「お、坊主。どこ行ってたんだ」
「トリーガンさん!」

 宿へ戻ると、入り口から若草色の髪がひょっこりと覗く。エリクは彼の元へ駆け寄り、ついさっき聞いたばかりの話を掻い摘んで伝えた。その間、不鮮明な瞳に焦りを浮かべることはなく、若者は「ふうん」と呑気な相槌を打つ。

「都が落ちそうなのか」
「はい。蒼穹の騎士団が各地に分散してる今、聖都に残っている共鳴者はトールマン将軍ぐらいしか……“兵士”が大勢で仕掛けてきたら一溜りもない」
「だろうなぁ。……で、坊主はどう思う? 皇太子とやらは死んだと思うか?」

 エリクはその問いに、しっかりと首を左右に振って見せた。

「生きていると信じています」

 トリーガンはほんの少しだけ目を見開いた後、やがて満足げな笑みで頷いたのだった。

「良い回答だ」

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