82.





「え……」
「……ターク・ヤーエ?」

 戸惑うエリクに、ニコがもう一度尋ねる。膝を抱えていた手を放し、躊躇いがちにエリクの頬へ触れようとする。しかし寸でのところで指先は止まり、また窺うように視線を寄越した。

 包帯の巻かれた手を見詰め、エリクは湧き出た不安を押し殺す。

 ──もうしない。もう彼女を拒絶するなどしない。

 理性を保つのだ。例え両親の仇が明らかになろうが、それが目の前にいようが我を失ってはならない。そうすればまた、数日前のようにおぞましい力が体を支配するだろう。しかし、ただ怯えていては何も変わらない。

 ──押さえ込むんだ。僕にあんな力は必要ない。ニコを傷付ける力は要らないはずだろう。

 強く己に言い聞かせ、エリクは左手を持ち上げる。ニコの右手に恐る恐る触れ、そこで暫し時が止まった。──包帯には何の変化も見られない。未だ元気のないニコの顔にも、真っ白な首にも、しなやかな脚にも、真紅の結晶は浮き出てこない。

 ぐっと指を絡めて握り締めれば、仄かな温もりが手のひらに伝わった。

 一斉に安堵が広がると同時に、躊躇いが消え失せる。エリクは震えた息を吐いて、ニコの腕を引き寄せた。飛び込んできた彼女の背中を掻き抱き、柔らかな金糸に頬を押し付ける。

「エリク」

 くすぐったそうに目を瞑ったニコは、手探りながらエリクの背に腕を回してくれた。抱き返されても肺があまり苦しくないのは、彼女が傷を労わって力を抜いているからだろう。

 そうして二人で地べたに座ったまま幾分か時間が流れ、エリクは「あれ」と目を瞬かせた。

「ニコ?」
「ん……」

 ずるずると彼女の両手が下がっていき、返事が細くなる。そっと抱擁を解いても、彼女はエリクの胸に頭を預けたまま。長い睫毛がちらちらと頬に影を落とし、やがて瞼ごと完全に閉じられた。

「ま、待った。寝るならせめて椅子で」
「……ラハト・ナーヴ……」

 すぐに起きる、なんてニコにしては殊勝かつ信じられない言葉が返ってきたが、エリクは何とか彼女が熟睡する前に長椅子へ腰を落ち着ける。敷物が無いばかりに膝枕状態になってしまったが、ニコは気にした様子もなく眠そうな欠伸をかました。そのまま寝るのかと思いきや、目を擦りながら彼女は尋ねてくる。

「……エリク、ポィコ・ミッコ」
「へ? ……あ」

 一瞬呆けたエリクだったが、すぐに意味を理解して微笑む。古代語の中でも妙に可愛らしい発音で、それでいてあまり使われない慣用句だ。だからこそ頭の隅に意訳が残っていたわけだが、ニコの口から聞けるとは思わなかった。

「うん。君が良ければ、仲直りしてくれ」

 「ポィコ・ミッコ」は堅苦しい語訳だと「水に流す」とか「元通りになる」という意味になる。今のニコとの関係を考慮するなら、「仲直り」と訳すのが適切だろう。彼女はエリクの笑みをじっと凝視しながら、何度か口を開閉させる。

「な……」
「仲直り」
「なかなおり」

 ゆっくりと発音すれば、ニコがしっかりと反芻した。以前から段々と現代語の発音が上手くなっていたが、今は無性にそれが嬉しい。つい無意識のうちにニコの頬を撫でていると、瑠璃色の瞳が気持ちよさそうに細められ、

「エリク、なかなおり」


 ──花のような笑顔がこぼれた。


 何が起きたのかすぐには把握できず、エリクは呆然とニコの笑顔を見下ろしていた。彼女はこちらの驚きなど露知らず、嬉しそうに「なかなおり」を繰り返す。しかし、やがて彼女の頬に雫が落ちたことで、反芻が一旦止んだ。

「エリク? ……ザロ?」

 どれだけ動揺しているのか。気付けば涙まで溢れさせてしまったエリクは、ニコに目尻を摩られながら苦笑した。

「傷は痛くないよ、大丈夫」
「……?」

 じゃあ何故、とでも言いたげな顔に、エリクは少し気恥ずかしくなる。彼にとってニコの笑顔は初めて見る、特別な表情だ。けれどニコにとってはそうでもないのかもしれない。昔──それこそまだ言葉も危うい頃なんて、きっとよく笑う子だったのだろう。それが今、ようやく自然と出るようになっただけの話で、泣くほど感動しているエリクが奇妙に映るのは仕方のないことだ。

 いや、もしかしたら本当に自分が笑っていることに気付いていないのかもしれないが……。

「エリク、クリゥ・ビビ」

 不意に、くすくすと笑いながら告げられた言葉は「泣き虫」。案の定からかわれたエリクは、涙を拭ってから肯定するように頷いた。

「アンドッド。ウィム・ペツロット」

 困ったものだと肩を竦めて答えれば、ニコがまたおかしげに笑う。彼女の華やかな笑顔を見詰めながら、エリクは静かに言葉を紡いでいた。

「笑った方が可愛いな」

 泣いている顔を見て絶望を覚えるのは、もう懲り懲りだ──そんなことを考えていたら、無意識のうちに零れ出た言葉だった。だからニコが意味を問うような視線を向けて来ても、これはさすがに答えられない。

「? エリク、モイ・ヌング?」

 彼女の問いにエリクはわざとらしく首を傾げ、海へ視線を移した。視界の下から不満げな抗議がなされたが、エリクが額を撫でればすぐさま大人しくなる。と同時に忘れていた眠気が再来したのか、唇を尖らせたままニコはうつらうつらし始めた。

「ヴィコ・ヤーエ」

 いつしか告げたように、「後で起こすよ」とだけ伝える。今思えば──この何気ない言葉も、ニコにとって幸せだったのかもしれない。眠っている間、誰かが傍にいてくれることなんて無かっただろうから。

「ロィル?」

 ニコもまた、同じように聞き返してきた。微笑と共に頷けば、ようやくニコは安堵の笑みを浮かべ、深い眠りに落ちたのだった。



 ▽▽▽



「──何だ。意外とすぐに和解したんだな」

 それから暫し、ニコの頭を膝に乗せたまま海を眺めていると、若者──トリーガンがやって来た。彼はにやにやとニコの寝顔を覗き込んでから、遠慮なく長椅子の端に腰を下ろす。

「……ずっとギスギスしててほしかったんですか」
「いや? 年若い男女の行く末を邪魔するほど、俺は無粋じゃないんでな。単に面白がってるだけ」

 充分に無粋である。エリクの白けた視線を物ともせず、トリーガンは少女の片腕をひょいと持ち上げた。

「にしても、ようやっと寝たか。これで治りも早くなるかな」
「え?」
「お前が起きるまで全然寝なかったんだよ。何回ベッドに放り投げても翌朝になると窓の外からお前を観察してやがる」

 エリクが眠っていた三日の間に、何をしていたのだろうかこの二人は。いや、それよりも気になるところがあったため、エリクは気を取り直して若者に尋ねた。

「治りが早くなるって?」
「腕だよ。お前が“ミグスを活性化させた”んだろ。危うくこの子は死ぬところだったわけだが」

 どこか責めるような口調に閉口したものの、エリクは腹を決めて若者に向き直る。

 彼はきっと知っている。エリクは勿論のこと、ティール王家やミラージュ、教団でさえ知らない事実をその瞳の奥に抱えているはずだ。

「トリーガンさん、教えてください。僕は何者で、あなたは何故助けてくれるんですか」

 ──昔も、今も。

 トリーガンは決意を秘めた紅緋の瞳を見据えると、持ち上げていたニコの腕をそっと下ろす。広い海を見渡しては大きく息をつき、水平線の果てを指して告げた。



「プラムゾから舞い戻った“変革の歯車”。……お前は人間になりきれなかった化物さ」

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