81.






 青い瞳の獣に右肩を裂かれたことが起因し、エリクは暫し昏睡状態に陥っていたと若者は言う。その間、高熱に魘されるエリクを見守っていたのがニコだ。たまに医師が施す治療を手伝いたがって、薬草を掏り潰したり、包帯を洗ったりと落ち着きなく動いていたらしい。だが決してエリクの傍には近寄ろうとせず、若者が菓子で釣ってみても無駄だったそうだ。

「ここの住人には賊に襲われたって体で話してるから、自由に過ごしたらいいさ。あの子と話した後で、今後どうするか決めりゃ良い」

 若者は窓際のテーブルに腰を預け、思い出したように目を開く。

「それと、お前の知り合い二人についてはアンスルまで撤退したはずだ」
「……え? カイと、先生のことですか」
「そうそう。一緒に連れてきた方が良かったか?」

 反射的に頷きかけ、エリクは頭を振った。リーゼロッテの身柄が教団側に渡ってしまったとは言え、施設から逃がした“兵士”の子どもたちをそのまま放置するわけにはいかない。王女の代理として、カイが自警団の者やアンスルの協力者に連絡を取らなければならないだろう。

 先生は──彼の手助けをしてくれるだろうし、今は傍にいて欲しくないのが本音だ。それはニコに暴言を吐いたからではなく、自身に起きている異変を全く把握できていないからだ。親子という枠組みで接してはいるものの、何だか先生に外れクジを引かせたような……こんなことを言うと怒られそうだが、そういう気持ちだった。

 この若者からどれだけの情報が得られるのかは分からないが、エリクの中である程度の理解と覚悟を持って先生に話したい。それを受け入れてくれるかどうかは、先生次第だ。

「そ、じゃあ行ってらっしゃい。杖が必要なら舟のオールでも持ってけ」
「はあ……あの」
「何だ?」
「名前、聞いたことなかったと思って」

 ゆっくりと寝台から足を降ろし、襲う眩暈に耐える。そのまま立ち上がれば今度は立ち眩みがしたが、何とか乗り越え壁に左手をついた。息を吐きつつ若者に視線を移すと、何やら非常に悩んだ様子で唸っていた。

「坊主が名乗らなかったから、好都合だったんだけどなぁ。お前が名乗らなければ、俺も名乗らなくて良いだろう?」
「え。エリクです」
「即行で名乗るな」

 不思議とこの若者相手だと、気が緩むというか、口が緩むというか。十数年前にほんの少し言葉を交わしただけの相手に、少々失礼な態度を取ってしまいがちではなかろうか。今更それに気づいたエリクだったが、当の相手は微塵も気にした様子はなさそうだった。

「名前ねぇ……ジウ=トリーガン、が良いかな」
「トリーガン、さん……不思議な名前ですね」

 若者──トリーガンは屈託のない笑みを浮かべ、「そうだろう」と言った。



 ▽▽▽



 外に出るとより一層、潮の香りが強まった。まだ生まれ故郷で暮らしていた頃は、父母と共に広い海を眺めるのが好きだった。ここはイナムスの真南だから見える景色は少々異なるものの、やはり懐かしさは拭えない。

「……?」

 ふと視線を西へ向けると、漁村よりも海の方へ突き出した岬がある。そこに立つ寂れた木造の塔の頂点には、羽の一つ折れた風車が回っている。物見台だろうかとも思ったが、イナムスの南方に警戒すべき大陸はない。いまいち用途の分からない風車を一瞥し、エリクはゆっくりと浜辺へ向かった。

 途中、漁の準備をしている住人から気さくに声を掛けられる。エリクの体調を案じる者もいれば、彼を襲ったことになっている山賊に憤りを見せる者もいた。日に焼けた健康的な外見をした彼らと言葉を交わしながら、エリクはその気遣いに感謝して礼を述べる。ついでにニコの居場所を尋ねてみると、一人が「ああ」と桟橋の方を指差した。

「ほら、橋の手前にちょっとした四阿があるだろ。あそこにいるよ」
「そうですか、ありがとうございます」
「あ、これ持ってお行きよ! お腹空いてるんじゃないかい?」

 恰幅の良い女性が半ば強引に持たせてくれたのは、この辺りで採れる木の実だった。含有される水分が多く、甘酸っぱい味が特徴的だ。子どもがおやつとして好むと同時に、食の細い病人にもぴったりな品としてティール南部では広く知られている。エリクはありがたくそれを受け取り、四阿を目指して砂浜に踏み入った。

 住人の言う通り、ニコはその四阿に置かれた長椅子に座っていた。抱えた膝に顎を乗せ、海を見るわけでもなくじっと俯いている。心なしか尖った耳までもがしゅんと萎えているように見え、エリクは唇を強めに噛んだ。歯を離すと同時に息を吸い込み、四阿の段差を上った。

「ニコ」
「……」

 ニコの肩が微かに揺れる。けれど彼女は振り向かずに、更に身を縮めてしまう。まだ逃げられないだけマシだと己に言い聞かせ、エリクはそっと彼女の前に回って片膝をついた。その際、包帯の巻かれた両手に目が留まったが、それは後で尋ねよう。

「ニコ、チゥク・ヴース・モ」
「……」
「マィ・ロゥケオスト」

 話をさせて欲しいと伝えれば、金髪のつむじが暫しの間を置いて上下に動く。まず最初の関門をくぐったエリクは、ほっと内心で溜息をついて本題へ入った。

「……ありがとう。ニコ、ウィム・ザリィ。ゾルヴォ・ヤーエ」

 ──君にひどいことをした。

 あの男が生まれ故郷を焼いた張本人だと知ったとき、怒りで我を失った。気付けば青い瞳の獣は結晶と化して砕け散り、あろうことかニコまでも同じ目に遭わせようとした。……今なら、あれがどういうことか少し分かるのだ。ニコには獣と同様、体内に“ミグス”がある。エリクは何らかの方法で彼らのミグスを結晶化して、肉体ごと木端微塵に砕いてしまう──ようだ。

 そればかりか、エリクは彼女を破壊してしまうことを恐れるあまり、要らぬ暴言まで吐いた。本意ではなかったにしろ、親しい人物から急に突き放されたニコの驚きと悲しみは、想像に難くない。

「イフリゥド・モ」

 ──あのとき、自分が怖かった。

 決してニコが嫌いなのではない、ニコには何の罪もなければ悲しむ必要もないと告げた上で、エリクは己の臆病さを暴露した。彼は自分のことしか考えずに、「だいじょうぶ」と言って歩み寄ってくれたニコを拒絶し、その心を踏みにじったのだ。

「……ごめん、ニコ」

 初めて外の世界へ出たニコはきっと、親しく言葉を交わしてくれる存在が先生だけじゃないと知って、嬉しかったのだと思う。エリクやカイ、それからティール聖王国の面々も何の嫌いもなく接してくれたのだから。中でも長い時間を共に過ごしたエリクに対しては、ことさら心を開いていた。それをエリク自身、分かっていながら──。

「ごめん」

 幼き頃から神などは信じていないが、今だけは懺悔でもしたい気分だった。いつしか大切に思っていた、大切にしたいと思った少女を、自らの言葉で傷付けた罪を。



「……ターク?」



 ひたすらに謝罪の言葉を連ねていたら、不意に掠れた声が掛けられる。弾かれるように顔を上げれば、瑠璃色の瞳がこちらをそっと窺っていた。

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