80.







(──まただ)


 真っ暗な闇の中で目を覚ます。一寸の光も射さない漆黒を揺蕩いながら、どこか爪先の届く場所はないかと探す。ゆらゆらと手足を動かしていくうちに、気付けばしっかりとした感触が足裏に訪れた。だが水中を歩いているかのように動きは鈍く、奇妙な浮遊感と共に闇を突き進む。

「何だったんだろうね」

 不意に、遠くから誰かの声が聞こえてきた。後ろから、だろうか。人の気配を察して振り返ろうとするも、体は意に反してその場に座り込んでしまう。急がなければ、今の声がどこかへ行ってしまうような気がする。だが焦れば焦るほど手足は重さを増し、冷たい石畳に縫い付けられていった。

 しかし、逸る気持ちを汲んでくれたのか、背後から軽い足音が近づく。駆け足でこちらへ寄ってくる。そうして少しばかり途切れがちな息を整えながら、“彼女”はこちらの顔を覗き込んだ。

 明るい朱色の瞳は美しい珊瑚を彷彿とさせ、薄闇の中で淡く輝いている。自身のものより数段は澄んだ色を宿す“彼女”の双眸の隣、対照的な薄氷色がひょこっと覗く。

 二対の瞳を確かめた瞬間、体の自由が奪われる。口が勝手に言葉を紡ぎ、“彼女”らに語り掛けた。されどその音は捉え切れず、分かるのは“彼女”が首を縦に振ったり横に振ったりするだけだ。


「そうか。──それは良かった」


 不意に、自分が嬉しそうにそんなことを言って、笑う。

 夜空から星が消え、暗闇に暁光が射す。一斉に視界が明るくなり、眼前に果てしない海が広がった。“彼女”の瞳は日の光に染まり、その薄茶の髪が黄金へ変わる。視線の先を追えば、朽ちた巨大な遺跡が晴天の下に佇んでいる。緑豊かな、神話に出てくる楽園を思わせる姿に“彼女”は見とれていた。


「僕たちは君のことを待ってるよ。──」


 告げた言葉は、果たして己のものだったのか。「待って」と叫ぶ“彼女”の姿は、やがて珊瑚珠の花弁に覆われ、消えた。



 ◇◇◇



 糸で編み列ねられた薄い竹板は、外からの眩しい陽射しを和らげていた。ただ足場を整えるためだけに如かれた楕円形の絨毯、その上に置かれる家具はやはり木材で造られ、涼やかな風を感じさせる。丸い天井と梁を見つめること数分、窓を仕切る簾がそうっと持ち上げられた。

「……エリク?」

 その声でハッと意識が覚醒し、エリクは白い光の方へ視線を遣る。簾の隙間から控えめに顔だけを覗かせているのは、額に包帯を巻いた少女──ニコだ。彼女はエリクが目を覚ましたことを知ると、ふと瞼を伏せてから、何も言わずに踵を返してしまう。からからと簾が揺れるのを見ながら、彼は深い溜息をついた。

(……目を見ようとしなかった)

 自業自得だと分かっているが、ニコから視線を逸らされる経験など無かっただけに胸が痛む。彼女は何に於いても素直な性格だ。実験施設でエリクから「近付くな」と言われたから、あのように早々に立ち去ったわけで。

 思い返すだけでも自分に腹が立ってくる。焦っていたとは言え、あれだけは言ってはならなかった。確かにあのとき、エリクは己の内に潜む奇妙な力に怯え、ニコを獣と同じように砕いてしまうかもしれないという恐怖に支配されていた。でもそれなら「逃げろ」と言えばよかったのだ。彼女を拒絶するような言葉を吐く必要は、どこにもなかったはずだ。

 それに「ナーァ・ターク」という言い回しは、古代語で非常に厳しい意味を持つ。あれはもはや「頼み」ではなく「命令」で、そういった面でもエリクは施設の人間と変わりない態度を取ったことになる。

 いろいろと自己嫌悪を極めたところで、今度は焦りが浮かんでくる。早く謝らなければ。落ち込んでいるのはニコの方だというのに、暴言を吐いたエリクが沈黙しているようではまるで駄目だ。衝動に突き動かされるままに上体を起こそうとしたエリクは、次いで襲ってきた右肩の痛みに呻く。

「おはよう坊主、気分は──見るからに最悪そうだな。取り敢えずまだ起きない方が良いぞ」
「……っ!」

 小さな円筒型の小屋に入って来たのは、あの若者だった。彼はダエグで見たときとは違って軽装で、外套も身に纏っていなかった。初めて見る若者の髪は長く、瑞々しい若草色を宿している。フードの陰になっていた額では、何かで抉られたような大きな傷跡が存在を主張した。

「肩はまだ痛むか? 一応、村の医者に見せて治療はしてもらったんだぜ」
「あ……はい……ありがとうございます」

 ブラウスの襟元から左手を差し込めば、右肩の裂傷を覆うように包帯が丁寧に巻かれていることが分かる。獣の爪で肉が抉れたことは間違いないが、その程度で済んだだけマシだろう。これが左肩だったら何も出来なくなるところだった。

「……あの、それで村って……いや、そもそもここ、北イナムスじゃない……?」
「ご明察、南イナムスの南端にある小さな漁村だよ」

 若者は、先程ニコが顔を覗かせた簾を開けると、外に広がる景色を見るよう促す。目を眇めながら光の中を見詰めると、深い藍色の海が現れた。その手前には独特な円錐型の屋根がぽつぽつと並び、いくつもの桟橋が砂浜から伸びている。他にも魚を捕るための細長い舟や銛などがあり、内陸の町ではあまり見られないものばかりだ。

「…………南端!?」

 長閑で心休まる景色をぼんやりと眺めてしまったエリクは、聞き流しそうになった若者の言葉に遅れて驚愕する。振り返るなり若者は大笑いしたが、自身の発言が嘘であるとは言わなかった。

「本当さ。北方にゃこんな温暖な地方はないし、この魚も南のデール地方の特産品だろう? ほらほら」
「うわ、ちょ……っ」

 ずっと持っていたのかは知らないが、若者はびちびちと跳ねる魚の尾を掴み、エリクの顔に近付けてくる。何度か頬をぬるついた感触に殴られたところで、エリクはようやく魚を押し返した。

「た、確かにそうですけど、どうやってこんなところまで? それに僕はどれだけ眠って……」
「坊主が寝てたのは三日ぐらいだ。ここへは俺の愛馬車で」

 嘘をつけ、とエリクが目を見開いて若者を凝視すれば、「信用無いな」と彼がおどける。

「お前も昔乗せてやったろぉ? ちょっと手入れが行き届いてないけど味がある立派な幌馬車だよ」
「ボロ馬車?」
「ほ、ろ、ば、しゃ」

 確かに若者が乗っていた馬車は覚えているが、覚えているからこそ信じられない。車輪も錆びついたような幌馬車で、北イナムスのダエグ王国からティール聖王国の南端まで、たった三日で辿り着けるはずがないのだ。だが負傷によってエリクが眠っていた時間を誤魔化しているのかと言えば、その理由が思い浮かばないのも事実。現にニコの額の傷も治っていないようだったから、本当に時間があまり経っていないのだろう。

「はぁーっ、何だやっぱり生意気なところは変わらねぇな坊主。ちょっと好青年っぽいツラになったと思ったら」
「……あなたは全く変わってませんね。容姿も……奇妙なところも」
「奇妙? 命の恩人にご挨拶だな」
「っ……わけが分からないんです。今の状況も、あなたのことも、僕の身に起こったことも──」


 ──“アステリオス”という名も。


 じくじくと痛む“右腕”を押さえ、エリクは顔を顰める。瞑目して呼吸を整えれば、黙っていた若者が静かに口を開いた。

「まぁ、そうだな。お前は……」

 しかし彼はふと視線を逸らすと、溜息をつく。おもむろにエリクの頭を沈めるようにして撫でては、一転して明るい声で告げたのだった。

「話の前に、ガールフレンドのご機嫌でも取ってきた方が良いかもな。あの子、“言いつけ通り”指一本触れずにお前のこと見守ってたんだぜ?」

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