78.






「エリク!!」

 咄嗟に駆け寄ろうとしたニコを牽制するかの如く、エリクの背に乗った影──青い瞳の獣が鋭く咆哮を上げる。彼女の悲鳴を聞いたカイと先生も、慌ただしく外へ出ては絶句した。それも当然だろう。施設の中に獣はいないはずで、ここに至るまでエリクに獣の牙が及ばぬよう最大限の注意を払っていたのだから。

「ナーァ・メイヴォ」
「!」

 ニコがいよいよ獣を蹴り飛ばそうと身を屈めると同時に、施設の出入り口からそんな言葉が投げ掛けられる。積もった雪に頬を擦りつけながら、エリクは辛うじて回る首で後ろを窺う。

 姿を現したのは黒いローブを身に纏った数人の信徒と、同様の格好に長い杖を片手に携えた人物だ。フードを目深に被っているために素顔はよく見えないが、教団の信徒に守られるようにして立つ姿を見るに、この施設の管理者かもしれない。つまりは司祭とか、教祖とかの類だ。

 それを裏付けるかのように、ニコが彼の言葉を受けて固まっている。不満げな、かつ警戒するような瞳で。

「……施設を破壊したのはお前たちだろう。貴重な物資を損失させたばかりか、子どもまで奪うとは……用意周到なことだ」

 男はエリクのすぐ後ろに立つと、臆することなく獣の背を撫でた。獣はエリクを今にも噛み殺しそうな姿勢を見せつつも、寸でのところで衝動を抑えている。信じられないことに、男は理性なき獣を従えているようだった。

 一体どうやって、とエリクが眉を顰めていると、不意に杖の先が顎を捉える。視線を上げた先で迎えたのは、陰に輝く──見覚えのある赤い瞳。言わずもがな、自身のそれとよく似た色を宿す双眸に、エリクが思わず見入ったときだった。


「紅き瞳を持つ若者。あなたは我らの元にいるはずだったというのに」


「え……」
「誰があなたを横取りしたのか……否、それも今となっては些事。こうして自ら戻ったのだ。礼を言おうか、カサンドラ」

 ひび割れた唇から紡がれる言葉は、よく理解できない。そもそもこの男とは一切の面識がないことは勿論、「横取り」とは何の話だろうか。全く飲み込めない話に半ば呆気に取られていれば、いつの間にか教団の者たちがエリクを囲むように立っていた。

「ナーァ! ヴィッテーロ・ヤーエ・デイン!?」
「お……おうおうそうだぞ、さっきから何べらべら喋ってんだおっさん!? そいつから獣をどけろよ!!」

 すると憤慨した様子のニコと、釣られて我に返ったカイが声を上げる。二人がいきり立つと同時に、教団の魔法使いと思しき者たちが行く手を塞いだ。しかしそんな様子も気に留めず、男はエリクを見据えたまま譫言を繰り返す。

「聖王国へ攻め上がる前にやって来てくれるとは。神の思し召しとはよく言ったものだ」
「この……無視してんじゃねーぞ……!」

 刹那、周囲の魔法使いがどよめく。ハッとして城門の方を見遣れば、カイの両手首が雷を纏い始めていた。魔法を使う気なのだとエリクが目を見開いた直後、男もようやくそちらに意識を向ける。

「ほう、アンスルの血筋か」
「それが、どうした!!」

 カイが両手を突き出せば瞬時に雪雲が黒く淀み、魔法使いたちに向かって白い稲妻が打ち下ろされた。激しい雷鳴と閃光が彼らを襲えば、それを合図に動揺の隙を突いたニコが飛び出す。彼女は稲妻から逃れた者たちを各個撃破してしまうと、地を蹴っては一直線に獣へと飛び掛かった。

「……言っただろう、カサンドラ。“動くな”と」

 だが彼女がすぐそこまで来たとき、獣が急に前脚を振り上げ、エリクの右肩に爪を立てた。激痛が迸り、エリクの体が意図せず跳ねる。痛みを逃がすにはあまりに頼りない雪を握り締め、呻き声を漏らした。

「エリク!」

 サッと顔を青褪めさせ、ニコが金切り声で叫ぶ。その間にも疼痛は続き、溢れ出した血が積雪を溶かしていく。爪が抜かれてもなお治まる気配のない寒気と眩暈は、急激にエリクの体から熱を奪っていった。

「エリク……!! やめてくれ、俺の息子を殺す気か!? また、その獣で……ッ」
「やめろ親父さん、近付いたら獣が動くぞ!」

 朦朧とする意識の向こうで、先生が血相を変えて訴える。絶叫にも近い声を上げる先生をカイが慌てて引き留めていると、不意に背後の男が不思議そうな顔で呟いた。

「息子……? 自分が彼の親とでも言うのか?」
「何!?」


「──彼の故郷はもう無い。私がこの手で親ともども消した」


「……!!」

 乱れた呼吸が止まる。限界まで見開いた紅緋の瞳が揺れ、消えかかっていた意識が鮮明によみがえる。炎の海と化した生まれ故郷の景色と共に、視界が赤く染まっていく。一人で納屋に隠れ、怯え蹲ることしか出来なかった記憶が。何もかもを失い、知人の名を呼びながら消し炭の中を歩く自分の姿が。

『エリク、ここに隠れているのよ』

 母の強張った笑みが、闇の奥へ消えた。


「お……まえ、お前が……!!」


 堰を切ってあふれた憎悪が声に乗れば、ふと雪の風向きが変わる。殴りつけるような突然の吹雪にカイやニコが怯めば、背後に乗っていた獣が藻掻くように積雪へ転がり落ちた。じたばたと暴れながら苦しんでいた獣は、やがて青い結晶と化して砕け散る。

「な……っエリク……!?」

 馬車に乗っていたときと同じ現象を目の当たりにし、先生が驚愕を滲ませて名を呼ぶ。しかしエリクにはその声が聞こえていなかった。重い身体を起こし、後ろに立つ男を睨みつける。

「……よい目だな。その方があなたらしい」
「っ黙れ!」

 エリクが噛みつくように怒鳴ったとき、どこからともなく二体の獣が襲い掛かる。目の前の男がけしかけたのは明白で、それを分かっていたからこそエリクは躊躇せずに左腕を振り払った。

 ──するとやはり、獣は青い結晶に体を蝕まれ、粉々に砕けてしまう。

 後ろでカイたちが絶句していることも、その存在すらも忘れて、エリクは男の方へ大股に歩み寄っていく。

 男は確かな高揚を露わに両手を広げ、まるで挑発するように笑った。

「素晴らしい……! アステリオスの力は健在か!! さあ来い、父母の仇はここにいる。憎しみに溺れろ、理性を捨てろ、奥底に眠る“紅き力”を解き放て!」

 それは呪いか、はたまた神に捧げる祝詞だったのか。誘われるように左手を持ち上げたエリクが、男の胸倉を掴む。その手が禍々しい真紅の光を放てば、男の唇がゆるやかに弧を描き──大きく歪んだ。


「──エリクっ」


 エリクの変貌に誰も動けずにいた中で、ただ一人。耳の尖った少女は一目散に駆け寄って、彼の背中にしがみつく。

 背後から軽い衝撃を受けたエリクは、見開いた紅緋の瞳を鋭く彼女に向ける。びくりと肩を竦ませたニコは、それでも首を左右に振って両手に力を込めてくる。

「エリク、ナーァ。スィルムラ」
「……放せ」
「ナーァ!」
「放せ……!」

 鬱陶しげにエリクが吐き捨て、彼女の腕を掴んだときだった。



「……あ」



 ぱきりと軽い音を立てて、彼女の腕が真紅の結晶に包まれたのは。

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