79.






 ニコは両手を放し、数歩下がってから尻餅をつく。真紅の結晶に覆われた自身の手を見て、驚いたようにまばたきを繰り返していた。

 血の気が引くとは、まさに今のエリクの状態を指すのだろう。先程まで彼を支配していた煮えたぎる怒りは凍り付き、途方もない後悔と焦りが湧き出てくる。脳裏を過ったのは、結晶化して跡形もなく砕け散った獣の姿だった。

「……ニコ……!」

 咄嗟に彼女に駆け寄ろうとして、止まる。唖然とこちらを見上げるニコの瞳を凝視し、どうしようもなく苦しくなった。同時に自分が恐ろしくなる。一体何がどうなっているのだ。ただ自分が触れただけで、獣にもニコにも不可思議な結晶を生み出してしまう。

 次に指先が少しでも触れれば、ニコが粉々に砕けてしまうのではないかと、底知れない恐怖が全ての動きを鈍らせる。

「エリク」

 近付こうとした足で思わず後ずされば、ニコの小さな声が引き留めた。その両手がエリクのせいで結晶化したことは分かっているだろうに、彼女は依然としてエリクの身を案じる視線を寄越すのだ。

 耐え切れずに再び踵を後ろへずらすと、それを見咎めた彼女が立ち上がる。

「来ないでくれ、ニコ、お願いだから」
「エリク、だいじょうぶ」
「大丈夫なわけないだろ!? 近付いたら駄目だ、危険なんだ!」

 目を瞑り声を荒げ、食い気味に言い返しても、ニコの足音は構わずにこちらに歩み寄る。そうして彼女に左手を掴まれたとき、エリクは真紅の結晶がまたゆっくりと肥大化するのを感じた。見れば、やはりニコの手を更なる赤が侵蝕している。

 エリクは咄嗟に左手を払い、口を開く。瑠璃色の瞳の「変化」に気付いた頃には、もう遅かった。


「──ナーァ・ターク!」


 自分でも驚くほど棘のある声。発したのは、とても彼女の境遇を考慮したものとは思えない「拒絶」の言葉だ。張り詰めた静寂が森の奥まで広がっていくのを感じながら、エリクは目の前の彼女を見詰めることしか出来ない。

「……」

 ニコは虚を衝かれたような顔で、ぼろぼろと涙をこぼしていた。

 この実験施設で半ば隔離されて暮らし、教団の人間や兵士からも避けられていたニコにとって、エリクは決して厳しい言葉を吐かない稀有な存在だったに違いない。今までずっと穏やかに接してきたエリクも、彼女の孤独な過去を知って憤りを覚えたはずだ。

 だというのに、自分は「触るな」と、施設の人間と変わらぬ言葉を吐いたのだ。

 もっと言い方があっただろうと後悔しても、もう遅い。エリクが初めて見た彼女の感情は、穏やかな笑顔を滲ませるほどの喜びなどではなく、涙を溢れさせるほどの悲しみだった。

 呆然と立ち尽くす二人の間に、ゆるやかな風が吹く。かと思えばそれは突風へと変わり、横殴りの雪が全身を打った。ニコの姿すら見えなくなる猛吹雪に、エリクは立っているのもやっとだ。急な天候の変化に戸惑いを露わにしつつ、不意に視線を動かしたときだった。

「──やれやれ、ひどい男だなお前は」

 そこで見覚えのある若者が、にこやかにエリクを見下ろしていたのだ。白目と黒目の境が曖昧な瞳は、相変わらず虚ろな色を宿している。

「とりあえず落ち着け。こんな血の匂いがする場所にいれば、ミグスが反応するのも無理はない」
「え……」
「ということで坊主、ちょっくら俺と愛の逃避行でも──うわっと!?」

 途端にふざけた口調になった彼に勢いよく衝突してきたのは、吹雪を掻き分けてきたであろうニコだ。彼女はまだ泣いているようだったが、エリクに近付く人影に警戒したのか、ぐいぐいと若者の胴を掴んで引き離そうとする。

「ナーァっ」
「あー、待て待て、お嬢ちゃんも連れて行ってやるから。泣くな泣くな、よーしよしよし」
「ぅあ!?」

 まるで子犬でも宥めるかのように、若者はニコをひょいと抱き上げてしまう。そのまま軽々と肩に担ぐと、エリクに向き直っては手を差し出した。

「さぁ坊主、助けるのはこれで二度目だが、別に気にする必要はないぞ。見返りも求めないし」
「……あなたは、一体……」
「気が向いたら教えよう」

 適当な受け答えは、昔、生まれ故郷から寂れた教会へエリクを連れて行ったときと変わらない。

 その姿さえも、昔のまま。



 □□□



 ──吹雪が止むと、そこには誰も残っていなかった。

 赤い瞳の若者も、カサンドラも、アンスルの血筋も、見知らぬ壮年の男も。恐らく今の吹雪に乗じて、“また”横取りされたらしい。忌々しいことこの上ないが、収穫はあった。

「アステリオスが戻った……千年、千年ぶりだ」

 粉々に散った獣の残骸を見下ろし、男は呟く。カサンドラに絆されたおかげで不発に終わったが、あの調子ならエーベルハルトよりも優れた皇帝になれるだろう。問題は“精霊王”が動くかどうかだが──もはや引き返すことは出来ない。ここまで来たのだ。必ず、必ず──。



「プラムゾの解放はすぐそこです。“始祖”様」

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