77.






 廊下の角で鉢合わせたダエグ兵士は、果敢にも槍を携えニコに襲い掛かる。少女はまるで意に介さない様子でそれを躱し、身を翻す勢いで剣を振った。甲高い音と共に鉄の槍が叩き折られ、怯んだ兵士は何か言葉を発する前に崩れ落ちる。脳天に踵を落としたニコは、着地と同時にきょろきょろと周りを窺う。

「ニコ、こっちだ!」
「!」

 エリクは頭の中にある見取り図を頼りに、施設の南東部に位置する厩舎を目指していた。そこへ行けばカイと先生、それから自警団のゴールズがいるはずだ。リーゼロッテとオスカーが教団とダエグ王国の手に落ちた今、せめて施設の爆破とニコの救出だけでも達成しなければならない。そのためにはまずカイたちとの合流と、この場からの早急な離脱が求められる。

「エリク」
「……ニコ、ブロイク・サス・ヴンドゥ?」

 魔法具が爆発したあと、教団の人間やダエグ兵は状況確認のために上階へと向かったようだ。それはエリクたちにとって好都合だが、ぐずぐずしていると今度は二階、一階と爆発が続くだろう。混乱が生じているうちに厩舎へ向かうべく、エリクは適当な頃合いで窓を破り、施設の外へ出ることを決めた。

「……」

 嵌め殺しの窓をちらりと一瞥したニコは、頷きながらも何処か心配そうな目を向けてくる。多分、外をうろつく獣を気にしているのだろう。エリクは微笑を浮かべ、彼女の背中を引き寄せて摩った。

「この辺りは獣がいないってリーゼロッテ様から聞いた。だから大丈夫」
「だいじょうぶ?」
「うん。頼むよ」

 そっと体を離せば、ニコがすぐに窓に向き直る。勢いを付けて剣を振りかぶり、唸る太刀筋が鉄格子を捉えて捻じ曲げた。そうして大きく凹んだ格子を何度か蹴れば、けたたましい音を立てて窓が破壊される。そこを跨いだニコはひょいと外へ出るなり、エリクに両手を伸ばす。気遣いに感謝しつつエリクも窓枠に片足を掛け、彼女の手を握ったとき。

「おい、何者だ! 施設を爆破したのはお前か!?」

 ぎょっとして振り返ると、扉を開け放ったダエグ兵が剣を引き抜く。兵士がこちらへ駆け出すのと、エリクの腕が強く引かれるのは同時だった。

「うぐ!?」

 ニコが持っていた剣を投擲槍のごとく投げ、兵士の腕へと直撃させたのだ。見事な技を見届けた直後、エリクは積雪の上にどさりと落ちる。

「エリク」
「たた……大丈夫だよニコ、ありがとう」

 慌てたように屈んだニコは、ぐいとエリクの肩を抱き起こした。顔面から勢いよく落ちたのは確かだが、柔らかい雪のおかげで痛みは軽減されている。彼の笑みを見て安心したのか、ニコは小さく頷いて立ち上がった。

「さ、急ごう。もうすぐ厩舎が見えてくる」

 ざくざくと雪を踏みしめながら、二人は壁沿いに走り出す。左手には高い城壁とそれを優に超える寒々しい森が広がり、降りしきる雪が闇から運ばれてくる。耳を澄ませてみたが、獣の咆哮もそれを狩る子どもたちの声も聞こえてこない。彼らの誘導はゴールズの自警団と、リーゼロッテがアンスルから連れてきた信頼の置ける臣下が行う手筈になっている。順調に事が運んでいれば、既に施設から離れて姿を晦ませているだろう。

「……オスカー……」
「!」

 ふと視線を隣へ戻すと、心なしか落ち込んだような横顔がそこにある。

(……やっぱり、彼は大切な存在なんだろうな)

 エリクも釣られるように眉を下げ、先程のオスカーの様子を思い浮かべる。

 “喪神の蝶”は対象の自我を失わせ、術者の思い通りに動かしてしまう。元は青灰色だった彼の瞳は、蝶と同じ黄金色に変化し怪しく輝いていた。彼にはリーゼロッテの丸薬を与えていないこともあり、すんなりと術に嵌まってしまったのだろう。もしもニコがあれを飲んでいなかったら、果たしてエリクは今生きているのかどうかも分からない。

(あれじゃリーゼロッテ様の生死に関わらず、操られるがままに聖王国を攻め落としてしまうかもしれない)

 オスカーの呪縛を解くために押さえるべきはただ一つ、セヴェリだ。彼さえ教団から手を引けば、戦力は大幅に削られるのだが──彼の思考はどうにも掴みづらい。大精霊をイナムスに留めたいなら、無闇に戦火を広げるような真似は自殺行為のはず。それも、精霊が南から姿を消す原因となった巨人族を信仰する集団に、自ら進んで手を貸すというのも妙な話だった。

(それに僕は何でこんな話……誰かに聞いたのか……?)

 この施設に来てから自分はおかしい。馬車で急に気絶するし、右腕は異常に痛むし、知りもしない「精霊が南イナムスから消えた理由」を口にするし──教団の人間からは妙な視線を向けられるし。

「エリク?」
「あ……」

 不意に声を掛けられ、エリクは我に返った。くいくいと右袖を引かれて意識を向ければ、厩舎の屋根が見えている。行きに乗っていた馬車が城門の外側へ止まっており、カイと先生の姿もそこにあった。

「ニコ、あそこだ。行こう」
「? ──キタナイ!」

 煙の上がる施設を見上げていた二人が、ニコの声に反応しては弾かれるようにこちらを向く。安堵の色を宿したカイが大きく手を振る傍ら、先生はどこか呆気にとられた様子でニコを凝視していた。

「エリク、ニコ! 何だ外にいたのか!」
「キタナイっ」
「だぁーッ名前まだ間違えてんのかよ!? いや、それよりお前ほら、親父さんに反応してやれよ」

 駆け寄るニコに多大なる嘆きを吐き出しつつも、カイは彼女の背を先生の方へ押しやる。そこで初めて先生の存在に気付いたのか、ニコはきょとんと目を丸くした。

「バルドル、ヘルトゥド?」
「……! ……ああ、俺なら大丈夫だ。心配かけたな──って」

 一瞬、感慨深く頷いた先生だったが、ニコの額に滲む血を見てはぎょっと青褪める。それからは、わたわたと傷口を布で押さえたり古代語で怪我の具合を確かめたりと忙しない動きが続いた。「顔に傷が残ったらどうするんだ」と誰に向けるでもなく叫ぶ先生を、エリクは苦笑交じりに一瞥する。

 そして、同じように呆れた顔で親子の再会を眺めていたカイに声を掛けた。

「……カイ、さっきの爆発は君がやってくれたのかい?」
「え? 何言ってんだ、あれはリーゼロッテ様が……」
「へ……」

 そのとき、また大きな爆音が鳴り響く。足元がぐらつくのも構わずに、エリクは急いで今までの経緯をカイに告げた。この施設にセヴェリが来ていること、リーゼロッテとオスカーが彼の術中に嵌まってしまったこと──何とかニコだけを連れ出してきたこと。

 それらの話を聞いたカイは険しい表情を浮かべると、焦りを抑え込むように溜息をついた。

「……なら急いで逃げなきゃな。リーゼロッテ様が眠ってても、逃亡用の魔法陣は生きてるはずだ。そこに行く」
「でもリーゼロッテ様はどうするんだ?」
「そう簡単に死ぬタマじゃないし、ここで殺される可能性も低いって。何でか知らねーけど魔法具が勝手に爆発してるってんなら、計画の半分は成功だ。俺たちがぐずぐずと居残ってたら、それこそリーゼロッテ様に叱られるぜ?」

 「行くぞ」とカイはすぐに馬車へと向かう。意外にも冷静な対応を見せた彼につい閉口したが、今とるべき行動はそれが正しいのだろう。エリクとしても、この不愉快な施設からさっさと離れたいのが本音だ。

「エリク?」

 一足先に馬車へ乗り込んだカイと先生に引き続き、段差に片足を掛けたニコがこちらを振り返る。エリクは彼女に笑みを返し、足早に向かおうとしたのだが。




「──逃げるなら逃げよ、カサンドラ。代わりにこの者を貰うがな」




 背中に何かが圧し掛かり、エリクはその場に叩き伏せられてしまった。状況を理解できぬまま痛みに顔を顰めれば、耳元に獣の荒々しい呼気が触れる。背に食い込む鋭く重い四つの脚は、過去に覚えのある恐怖をエリクに刻みつけた。

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