73.






「エリク!」

 文字通り一瞬で男らを黙らせたニコは、くるりと踵を返しては正面から抱き付いてきた。肺を締め付けられる久々の感覚に、暫し呆けていたエリクもようやく我に返る。眼下にあるふわふわとした金髪や華奢な背中を見下ろし、恐る恐る頭を撫でてみた。それに応じるようにニコが顔を押し付けたことで、エリクはほっと息を吐き出したのだった。

「ニコ。……助けてくれてありがとう」

 忘れられていたらどうしよう、なんて考えたこともあったのだが、嬉しいことに全くの杞憂だったようだ。思わず強く抱き竦めたところで、ニコがもぞもぞと顔を上げる。

「ヴィット・イーロ・ヤーエ?」
「……あ。そうだった」

 ここで何をしているのかと問われ、エリクも顔をそっと離した。ちらりと視界の端に映ったのは、先ほどニコが蹴破った扉の残骸。外鍵ごと破壊していることから、何度もこうして外に出ているのだろうか。彼女の部屋に真新しい扉が頻繁に調達される理由が、今更ながら分かった。

「ニコ、ガット・イーヴィ」
「イーヴィ……。……ヴース・ヤーエ?」
「うん、僕と一緒に。ここから逃げよう」

 不思議なものだ。つい先程まで強張っていた頬が、ニコを前にすると自然と弛緩する。柔らかな微笑みを向ければ、じっと彼を見上げていたニコがこくりと頷いた。

「ヴィット・ターダ?」
「今から話すよ、その前に」

 魔法具を設置しながら詳しく説明しようかと思ったのだが、エリクは彼女の姿を見て考えを改める。ニコは簡素な黒いワンピース一枚に、まさかの裸足だった。屋内とは言え薄着そのもので、このままでは外に出られない。彼女の部屋に何か羽織るものや靴はないだろうかと尋ねてみると、ニコは少し考えた後に部屋の扉──だった箇所を跨いだ。

 施設の一室とは言え、ここがニコの部屋と考えると少々躊躇いを覚えたものの、エリクはすぐにその寒々しい内装に眉を曇らせる。ただでさえ雪空の多い環境下、陽の射し込まない部屋はひどく暗い。ついさっきまで包まっていたのか、寝台には一枚の毛布だけが置かれている。傍らにはサイドテーブルと猫脚の椅子、それから小さな箪笥。エリクが確認できた家具はこれくらいだ。

(……何だ、この部屋。まるで牢屋じゃないか)

 必要最低限の物しか置かれていない部屋は、エリクが通された豪奢な部屋とは比にならぬほど寂しかった。こんな場所でニコは一人で暮らしていたのかと、再び小柄な背中を見詰める。彼女は奥にある細長い扉を開けると、こてんと首を傾げてしまう。

「エリク」

 そしてどこか困ったように呼び掛けられたので、そっと中を覗いてみたエリクは同じように困惑の表情を浮かべる。

「え……凄い数だな」

 侘しい寝室とは一転、その衣裳部屋には大量の服が詰め込まれていた。どれも貴族令嬢が身に纏うような、きらびやかなドレスばかりだ。ニコは身なりに頓着するような性格ではないために、この衣類に手を付けていないのだろう。現に今も質素な、動きやすそうなワンピースを好んで着ているし。

「これ誰が贈って…………いや、気にしちゃだめだ。取り敢えず靴はありそうだね。外套もあれば良いんだけど」
「エリク、エリク。くつ?」

 ぶつぶつと呟いている傍ら、ニコが何やら小さく飛び跳ねながら訴える。見れば、脛を丸ごと覆うようなロングブーツを手に、「くつ」と連呼している。いつの間に単語を覚えたのだろうか。エリクはちょっぴり驚きながらも穏やかに頷いた。

「うん、靴だよ。グローイット──って、そうだ」

 褒められると上機嫌に靴を床に置いたニコを後目に、エリクは鞄の中から布袋を取り出す。リーゼロッテから飲ませるようにと言われた、例の丸薬だ。危うく忘れるところだった。しかし……とてつもない苦さでエリクを始めカイも先生も撃沈したので、ニコにこれを飲ませるのが何だか後ろめたくなってくる。苦いよと前置くべきか、もういっそのこと何も言わずに飲み込んでもらうか──。

「ニコ、ティック・サス」
「?」

 結局エリクは丸薬をニコの手に転がし、「飲んで」とだけ伝える。「食べて」と言ったら噛み砕いて悶絶する未来が見えたので、あくまで飲み込めと。

 ニコは丸薬を摘まんだ時点で微妙な顔つきになったが、やがて口にひょいと放り込む。刹那、ニコが見たこともないくらい目を見開き、眉と唇が同じようにぐにゃりと歪んだ。これは二重の意味で不味いと悟ったエリクは、咄嗟に鞄からもう一つの包みを取り出す。

「ぅえぇ……っ」
「ニコっ、吐き出したら駄目だ。これあげるから」

 口を覆って呻く彼女に差し出したのは、甘い焼き菓子だった。残念ながら流し込む水はないので、これで味を誤魔化すしかない。一番甘そうな粗目糖をまぶしたクッキーを選んで見せると、ニコが非常にゆっくりとした動きで丸薬を飲み込んだ。そしてそのまま目の前にあるクッキーにかじりついたので、エリクは思わず硬直する。

「えっ」

 だがそれは序の口で、ニコはクッキーを咀嚼しながらエリクにしがみつき、必死に苦味をやり過ごそうとする。さくさくさく、と何とも間の抜けた音と共に暫し放心してしまったエリクは、ようやっと思い出したように彼女の背中を摩った。

「……まだあるから、食べていいよ」
「? オィツ?」
「うん」

 焼き菓子の入った包みを彼女に渡したエリクは、通り雨のごとく過ぎ去った激情を忘れるべく、衣裳部屋の奥へと向かったのだった。



 ──寝台に座って黙々と焼き菓子を食べるニコの顔色は、徐々に元通りになっていった。甘味が好きな彼女にとって、あの丸薬の凶悪な苦さを緩和するには少々時間を要することは分かっていたが……そんな姿を見ていると、あれを平然とがりがり咀嚼してみせたリーゼロッテの味覚が心配になるのは仕方のないことだ。

「ニコ、ぺト・サス」

 衣裳部屋の中はまるで迷宮だったが、捜索の果てに何とか厚手の外套を見つけ出した。ついでにワンピースの上に羽織れそうなガウンも近くにあったので、一緒にニコへ渡しておく。焼き菓子を綺麗に平らげた彼女がそれらに袖を通していく傍ら、エリクは部屋の外で転がっている男二人の様子を窺った。

 互いの額に大きなこぶを拵え、未だ気絶したままの二人を見下ろし、知らずのうちに溜息が漏れる。一体彼らは何故あれほどまでにエリクに興味を示したのだろうか、と。そういえば施設の入り口で出迎えた男も、右腕について尋ねてきた。グギン教団の教徒は、隻腕の青年に何か特別な思い入れでもあるのだろうか。宗教的な象徴とか……?

「エリク、ウィ・ぺト!」

 弾んだ声に振り返ると、ガウンと外套をちゃんと着込み、ブーツも履いて身支度を済ませたニコがいた。エリクが「お疲れ様」と微笑めば、彼女がどこか満足げに頷く。それにしても──再会したときからそうだったが、心なしか彼女の機嫌が良いような気がする。もしかしたら、久しぶりに人と会話ができて嬉しいのかもしれない。リーゼロッテもニコは謹慎させられていると言っていたし、きっとそうなのだろう。

「よし、行こうか」
「ん」

 ぎゅっと右袖を掴まれ、エリクは苦笑しつつ足早に部屋を出たのだった。

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