71.






 実験施設一階、貴賓室。バルドルとカイは口元を手拭いで押さえ、ちらりと顔を見合わせる。貴賓室の入り口付近には、ダエグ王国の鎧を身に纏った兵士が数名、ぐったりと倒れ伏している。扉の隙間から廊下を窺ってみると、そこにも同様にして見張りの者たちが眠っていた。

「──よし、寝たな」
「すげぇな親父さん。これマジで毒薬じゃん」
「毒じゃない」

 カイが手にしているのは、バルドルとエリクが調合した催眠剤だ。二人は瓶に入った粉末をこっそりと松明の炎に振りかけ、発生した気体を部屋中に充満させたのだ。「ちょっと咳がひどくて」などと白々しく口と鼻を覆った二人と違い、普通に呼吸を繰り返した兵士らは段々と重くなっていく瞼に耐え切れず、今しがた意識を失った。

「そろそろ合図も来る頃合いだろう、この近辺だけでも先に仕掛けていくぞ」
「そだな。エリクは大丈夫かねぇ」

 いそいそと魔法具を取り出しながらのカイの呟きに、バルドルは唸るような声で相槌を打つ。屋内で獣に襲われる可能性は低いにしても、教団の人間は十分に警戒すべき対象だ。それだけでなくエリクは今朝から様子がおかしかった。馬車の中で急に眠ったり、右腕の痛みに気を失ったり──彼がそうなったのは、この施設に近付いたからなのではないかと嫌でも勘ぐってしまう。

(──……それに、あの目)

 青い瞳の獣が馬車に飛びついたとき、エリクの表情ががらりと変わったことに、バルドルは気付いていた。周囲を拒絶するような暗い眼差しは、十数年前に初めて出会ったときのエリクとよく似ていたように思う。恐怖と、苛立ちと、憎しみを孕んだ目付きだ。“兵士”の子どもたちを見て気持ちが昂っていたのかもしれないが、それにしても冷たい表情だった。

 もう昔のような顔を見なくなったと安堵していたバルドルにとって、先程の出来事は不思議と胸中にこびりついたまま離れない。耿耿と渦巻く不安を解消するためにも、さっさと魔法具を仕掛けて彼と合流したいところだ。

「お、来た!」

 カイが魔法具に刻まれた紋様を見て声を上げる。それに倣ってバルドルも金属器を見遣れば、魔法陣がちりちりと火花を放っていた。魔法具を爆破する予備動作──リーゼロッテの合図だ。

「行こうぜ親父さん! このしけた城ぶっ壊してやらぁ!」
「声がでかいッ」

 こんな時でもお調子者な青年の後頭部を叩き、バルドルは大きく息を吐いたのだった。



 □□□



 ──通された部屋にいたのは、ここにいるはずのない人物だった。

 嫌な予感がして早々に合図を送ったが、どうやら間違いではなかったらしい。じとりと湿り気を帯びた手を握り、リーゼロッテは部屋の奥で悠然と佇む人影を睨む。

「……お越しになっていたとは存じ上げませんでした。──セヴェリ陛下」

 真珠の髪を靡かせて振り返ったセヴェリは、口元を微かに緩めて笑った。

 ダエグ王国は近日中に開かれる建国祭の準備で、国中が忙しない空気になっている。国王たるセヴェリも例外ではなく、寧ろ最も多忙であろう人物のはずだ。ゆえに暫くはこの施設を訪れないと聞いていたリーゼロッテにとって、今の状況は非常に芳しくない。

(何故ここにセヴェリが……私の動きに気付いたのだろうか)

 グギン教団の教祖と同じく、セヴェリも勘の鋭い男だ。リーゼロッテが無能な叔父の代わりにアンスル王国を奔走する裏で、祖国と教団を相手取る準備を進めていることに、全く気が付いていないということはないだろう。例え気付いてはおらずとも、リーゼロッテの反意は感じ取っているに違いないし、こちらも警戒されている自覚がある。しかし──施設を破壊する当日にやって来るとは、何とも間が悪い。

「随分と顔が強張っているな。愛しい婚約者ならもうすぐ来るぞ」
「……ええ。陛下は何故こちらに? 建国祭の関係で暫く訪問は出来そうにないとお伺いしましたが」

 計画に大きな弊害が出来てしまった事実はどうにも出来ない。さっさと王都に帰れと言ったところで、更に怪しまれるだけだ。不慮の事故で死んでもらうしかないだろうかと物騒な思考を進めながら、リーゼロッテは静かに足を踏み出した。

「時間が出来たのだよ。それと、ちょうどお前が施設に来ると言うから」
「私に何か御用でしょうか?」
「王族として言い忘れていたことがあってな」

 既に叔父のことは一国の君主と認めていないのか、セヴェリはいつも国家に関わる事柄を先んじてリーゼロッテに告げる。この施設で特別なもてなしも無く会えるのだから、単純に手間が省けて楽というのもあるだろうが。

 またアンスルで小規模の暴動でも起きたのだろうか、と半ばうんざりとした気持ちを押し殺しつつ話を促したリーゼロッテは、もたらされた言葉に暫し絶句してしまった。


「──ティールの皇太子が死亡したそうだ」


 ティール聖王国の皇太子。名は確かアーネスト。現在の聖王であるコーネリアス十三世を差し置いて、グギン教団が一際目の敵にしている人物だ。聞けばティール王家唯一の共鳴者であることが、教団にとって面白くないそうな。巨人族に選ばれし人間は教団に属する者だけであって、あの国にいてはならない──と。

 しかし以前から刺客を送り込んでは失敗を繰り返していたはずで、リーゼロッテはこれからも成功することはないだろうと考えていたくらいだ。何せ数か月前、教団がティール国内の貴族を唆し、刺客を蒼天宮の寝所まで忍び込ませたにも関わらず、あえなく撃退されたというではないか。あの件で既に暗殺計画は諦めたと思っていたのに、だ。

「皇太子が……ご病気で?」
「いや? 教団が暗殺に成功したのだよ。蒼穹の騎士団とやらも派兵で各地に分散している。リーゼロッテ、貴国も出撃の準備を進めておけ」
「……!」

 ──時間がない。

 今日ここで施設を破壊しなければ、グギン教団は北方諸国連合と共に聖王国へ攻め込む。そうなってしまえばイナムスは終わりだ。罪なき人々の命が教団の手によって奪われ、ミグスという強大かつ未知数の力が奴らの手に渡る。彼らはきっと巨人族へ近付くために、ミグスを己の中に宿さんと今まで以上の実験を繰り返すのだろう──他でもない、聖王国の民の命を使って。

 無論、この北方諸国連合も無事では済まない。巨人族を至高とする教団にとって、精霊の力である魔法を扱う我々は邪魔者でしかない。帝国として復活を果たした後、北イナムスさえも支配下に置く可能性は十分考えられた。

(それを分かっているはずなのに。どうしてこの男は……!)

 セヴェリは何も考えず教団に与した叔父とは違う。グギン教団がもたらす大陸全土への危機を、前もって予測できる王であるはずなのだ。だというのに彼は教団の“聖戦”に賛同した。リーゼロッテはずっとそれが理解できずにいたから、彼がとても不気味に見えていた。勿論、今この時も。

「……陛下」
「何だ」

 震えかけた声を何とか抑える。雪景色を退屈そうに眺める横顔を見据え、リーゼロッテは今まで問えずにいたことを口にした。

「陛下は、教団をどう思われているのですか」
「……」
「私は幼き頃より、この施設を見てまいりました。……ここは異常です。とっくの昔に追放した巨人族を妄信するばかりか、この地に呼び戻すなど……二千年前の悲劇を繰り返そうとしているとしか思えません。陛下は何も、恐ろしくはないのですか」

 段々と強まる語気に、セヴェリがゆっくりと振り返る。真珠の瞳はどこか遠くを見るように逸らされたが、やがて苦笑と共に頭を振った。

「──私はずっと退屈していてね。適当に遊んでいるだけだ」
「……は……?」
「大陸の端で降り積もる雪を眺め、変りばえのない星空を仰ぐ。ここは何とも刺激がない。そこへ奴らが『聖王国を打倒したい』とやって来たものだから、つい乗じてしまったな」

 つらつらと語られた心境に、何も言葉が出てこない。遊びで民を危険に晒すなど、一国の王のやることではないだろう。知らぬ間に握り締めた拳が白く染まり、怒りに顔が歪む。リーゼロッテの気持ちを察しているのか、それでもセヴェリは笑みを崩さぬまま続けるのだ。

「くくっ、お前は真面目過ぎるな、リーゼロッテ。我らが与り知らぬところで気色の悪い実験を行われるより、手元で転がしておく方がまだ安心できるというものだろう」
「……っですが、いつ寝首を掻かれるか分かったものではない。あなたの判断はあまりに危険すぎます」
「私をお前の叔父と重ねてくれるなよ。私は私の国を守るだけさ、生憎だが他は──知らぬよ」

 まるでこちらがダエグ王国に助けを求めているかのような言い方に、かっと顔が熱くなる。同時に、愚かな王を立てたアンスル王国を哀れんでいるのだろう。恐らくセヴェリが今語ったことは全て本音なのだから。大昔から北イナムスに巣食っていた教団をいち早く手元に置き、彼は自国の安全を約束させた。その後で慌てて人材提供を申し出たアンスルは、残念ながらセヴェリに遅れを取ったとしか言い様がない。

 元より教団も、ティールも、連合も、セヴェリにとってはどうなろうが構わなかったのだ。ダエグという国さえ守れれば、他が争おうと滅びようと。それがセヴェリという国王の姿だと、リーゼロッテは今更ながら気が付いた。

「さて、王族同士の会話はこれで終わりだ。次は、余計な真似をしようとしているお前に釘を刺さねばな」
「!?」

 その言葉にハッと息を呑んだときには、体は動かなくなっていた。瞳だけを動かして確認すれば、右肩に一羽の蝶が止まっている。黄金色の鱗粉を纏う幻の蝶が羽を動かすたび、リーゼロッテの身体が重くなっていく。


「──何をしようとしているかは知らんが、下手に動かん方が良い。お前の命は私に委ねられているのだよ」

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