70.






 目を覚ます頃には、右腕の痛みも周囲の騒々しさも消え去っていた。馬車の後部座席に横たえられていたエリクは、弾かれるように身を起こす。

「うおっ! 起きた!」

 ちょうど抱え起こそうとしていたのか、カイがぎょっとして飛び上がる。エリクはそんな彼をまじまじと見上げてから、呆けた表情で開け放たれた扉を見遣った。そこにはホッとした様子の先生とリーゼロッテ、それから馭者台にいたゴールズの姿もある。──どうやら無事に森を抜けたようだ。

「エリク、良かった。気分はどうだ?」
「……え……少し……頭が重い……ですかね」

 正直に告げたとき、リーゼロッテの後ろから黒い人影がぬっと顔を出す。音もなく現れたその人物に驚いていると、ローブの下から静かな声が掛けられた。

「リーゼロッテ様、この方々が王宮からのお連れ様ですか」
「ええ。彼が気を失ってしまったので急いでおりました。狩りの時間を邪魔して申し訳ありません」
「ああ……いえ、そういうことでしたら……獣はまだおりますので」
「……」

 にこり、と貼り付けたような笑みで鷹揚に頷く。たったそれだけの仕草でも不気味なのは、全身を覆う黒いローブのせいか、はたまた病的な青白い肌のせいか。エリクが思わずそっと視線を外せば、少しの間を置いて男が言葉を続けた。

「馬車は損傷いたしませんでしたか?」
「どこも。それよりもエーベルハルト様に謁見する間に、彼を休ませてやりたいのですが。お部屋をお借りしても?」
「構いませんよ。すぐに準備いたしましょう。どうぞお入りください」

 踵を返した男に続き、リーゼロッテもその後を追う。途中、こちらを振り返って顎をくいと動かしたのを見て、エリクもすぐに馬車から降りた。足元が少々ぐらついたが、目の前に聳え立つ黒々とした城を見上げれば眩暈も吹き飛ぶ。

 この中にニコがいるのだ。ここ数日ずっと不安定な思考を切り替えるべく、エリクは大きく息を吐いた。

「お前が気絶したおかげで、何か良い感じの言い訳ができたな」
「カイ。……ごめんね、また心配かけた」
「本当だぞお前っ、あのあと親父さん大パニックだったんだからな」

 狼狽える先生をどうにか宥めてくれたのだろう。大袈裟に疲労を露わにするカイに、エリクは苦笑交じりに礼を述べる。彼のこういう態度はいつだって変わらず気分をほぐしてくれるので、言葉にはせずとも大変助かっているのだ。幾分か気持ちが軽くなったところで、二人は実験施設の扉をくぐった。

 ゴールズには厩の方で待機してもらい、エリクたち三人は魔法具を置き次第、各自でそちらに合流することになっている。一方のリーゼロッテはこのままエーベルハルトに会いに行き、二人きりになったところで施設を爆破することを告げ、聖王国に亡命してくれと直談判するそうだ。もしも都合が悪ければ、アンスル王国の辺境に用意した魔法陣へ、先んじてエーベルハルトを転送する場合もあるだろうと王女は言っていた。いずれにせよ皇帝と話をしてから、仕掛けた魔法具を爆破させることになっている。

 その作戦を実行しながら、エリクはニコを迎えに行かなければならない。見取り図で確認した限り、ニコは三階──最上階の西にある小部屋にいる。ひと月ほど失踪していたために暫く謹慎させられていると聞いたが、向かう先がはっきりとしている点では好都合だろう。当初の予定では先生が彼女の元へ向かう手筈だったが──。

「仮眠室がございますので、そちらに案内しましょう。他のお客様は一階の貴賓室に」

 ローブの男の言葉に礼を述べつつ、エリクは即座に脳内の見取り図と照らし合わせる。仮眠室は二階の北側、三階へ続く階段に近い。これなら仮眠室に魔法具を置く手間も省けるし、エリクが先生の代理を務めた方が時間も掛からない。ちらりと先生を横目で見遣れば、了承したとばかりに軽く頷かれた。





 ──二人と別れ、エリクは黒いローブの男に付いて歩く。男は特にエリクを急かすわけでもなく、こちらを気遣うようなゆったりとした歩調で進む。こちらを全く怪しんでいない、なんてことはないだろうに。返って不安になったエリクは、手持ち無沙汰にも視線を他所へ投げた。

 実験施設とは名ばかりに、ここは一見して立派な城である。灯が少ないせいで不気味な雰囲気が強調されてはいるものの、壁に刻まれた緻密な彫刻や意匠を凝らした柱などは一貫性があり、美的感覚に乏しいエリクでさえも息を呑む出来栄えだった。

(もしかして、ダエグ王国の離宮だったりするのかな)

 グギン教団の兵力提供を受ける代わりに、ダエグ王国はミグスの実験を行う環境を与えたと聞く。この城も大昔のダエグ王が教団に譲ったか、わざわざ造ったのかもしれない。これを今から爆破するのかと思うと少し気が引けたが──多くの罪なき子どもたちが命を落とした、忌まわしい建物であることに変わりはないのだ。加えて、ニコを一人で閉じ込めていた場所でもあるのだから。

「エリク様でしたか」
「え」
「お名前」

 慌てて前に視線を戻すと、男が顔だけをこちらに向けていた。

「は、はい。すみません、じろじろ見て」
「いえいえ。素晴らしいでしょう? ダエグ王国の伝統ある建築技術が採用されているとか……。体調はいかがです?」

 男はぐるりと天井を見渡してから、再びエリクを見据えて問う。エリクはしどろもどろになりながらも、控えめな笑みを浮かべた。

「少し横になればすぐ治ると思います。その……ご迷惑を掛けて申し訳ありません」
「お気になさらず。ところで」
「はい?」
「そちらの腕はどうされたのです?」

 そちら、と男が視線を投げたのは、言わずもがなエリクの右腕だ。彼は一瞬だけ返答に窮する。こうも直球で尋ねられること自体が少ない上、獣に食い千切られたと正直に話してはいけないような気がした。何せ獣はこの実験施設で造られているのだし──。

「ええと……ちょっと、事故で。ずっとこうなんですよ」

 出来るだけ自然に、エリクは当たり障りのない返答をする。男はゆるやかな笑みを携えたまま、じっとこちらを見詰めていた。一体何なのだろう。リーゼロッテにはこのような態度を取っていなかったはずだが、やはり訝しく思われているのだろうか。背中に嫌な汗が落ちたところで、男が立ち止まる。

「仮眠室はこちらになります」
「へ……」

 見れば、男は何事もなかったかのように扉を開けた。「どうぞ」とにこやかに促され、エリクは戸惑いを隠すことも出来ずに頷く。しかし恐る恐る仮眠室へ足を踏み入れた彼は、はたと目を丸くして立ち尽くした。

 そこは仮眠室と呼ぶには随分と豪華な部屋で、高貴な人間の私室と言われても不思議ではない。もっと狭くて、簡素な寝台がいくつか置いてあるような部屋を想像していたエリクは、部屋の内装を指差して男を振り返る。

「あの、ここ本当に仮眠室ですか? す、すごく立派なお部屋ですけど」
「ええ。そちらの寝台をお使いになってください。私は一階へ続く階段前で待機しておりますので……それでは」

 男は恭しく頭を垂れ、扉を静かに閉めてしまった。

「……どういうことだ?」

 エリクはぽつりと困惑した呟きを漏らし、再び部屋を見渡す。この部屋が二階の北回廊にあることは確かだが、明らかに仮眠室ではないだろう。王女であるリーゼロッテならともかく、そのお付きとして初めて訪問した人間にここまで良い部屋を用意するだろうか。

 些かの憂慮はあれど、エリクは取り敢えず怪しまれぬよう暫く部屋で大人しくしておく。扉の外に誰もいないことを確認しつつ、鞄から魔法具を取り出したのだった。



 □□□



 ──客人を送り届けた後、男は唇が釣り上がるのを止められなかった。

 その瞳に多大なる高揚を宿し、次第に広がる歩幅は踵の音を大きくする。一目散に向かった先は、他の階よりも一層の暗さを保つ通路だった。点々と灯る松明の光を縫いながら、やがて辿り着いた部屋の戸を叩く。

「教祖様、教祖様。急ぎお伝えしたいことがございます」

 扉を開けることはせず、男はその場で深く腰を折った。返ってきた沈黙の後、突き動かされるように開いた口で、男は告げる。


「──紅き瞳の若者が、教祖様の元に」

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