69.






 グギン教団の実験施設周辺には、巨人族が嫌う「精霊の鐘」というものが随所に吊り下げられている。これは太古の昔から、粗野な性格である巨人族を自分の領域に近づけさせぬよう、縄張り意識の強い精霊が用いていた結界のようなものらしい。

 ゆえに今でも、巨人族の力を有する青い瞳の獣にも精霊の鐘は有効で、施設から脱走する例を大幅に減らす役割を担っている──木々に吊るされた青白いランプを指差し、リーゼロッテは静かにそう語った。

「鐘……には見えないですね」

 口内にしつこく残る丸薬の苦味に顔を顰めながら、エリクはぽつりと感想をこぼす。精霊の鐘は青黒い鉄格子の中に白い炎を揺らめかせ、時折吹く風に身を任せている。よく見ればその下部に鈴のようなものが繋がれているが、もしやあちらが本体だろうか。

「あんなものがあったのか……だから獣も“兵士”も、簡単には外に出られないようになってるんだな?」
「ええ。子どもたちはそもそも外に出られないよう見張られていますが、獣は本能的に鐘を避けて……」

 先生の問いに答えたあと、リーゼロッテは言葉を途切れさせる。どうしたのかとエリクがまばたきを繰り返したのも束の間、王女は馬車の窓を開けては突然細剣を引き抜いた。三人がぎょっとしているのもお構いなしに、窓から細剣の切っ先を出したリーゼロッテが小さく何かを呟く。

「うわ!?」

 一陣の風が吹き荒れ、淡い緑色の光が精霊の鐘へと勢いよく飛んでいく。光はランプを吊り下げている金具をふわりと包み込み、激しい音を立てて砕いてしまった。落下した鐘はちょうど、馬車から伸ばしたリーゼロッテの手に納まる。ぴしゃりと窓を閉めた王女は、何事もなかったかのように鐘をエリクに突き出した。

「エリク殿、これを持っていたら獣が来ないかもしれません」
「ええっ、い、良いんですか勝手に撃ち落として!?」
「一つくらいバレません」

 不思議な魔法に驚く暇もなく、エリクは強引に手渡された冷たい鐘に目を落とす。仄かに温かい白い炎は弱まることなく、格子の中でぽつぽつと光球を吐き出しては空中に滲む。やはり普通の火ではないようだとたじろぎながら、ランプの下にある鈴を見遣った。恐る恐る揺らしてみても、想像していたような軽やかな音は出ず、からころと殻が鳴るだけだった。

「へぇー、精霊の鐘……リーゼロッテ様は、施設に行くときにこういうの持たせてくれないわけ?」

 カイが物珍しげに鐘を観察しながら問う。彼を一瞥したリーゼロッテは、平然と首を縦に振った。

「自衛してくれ、の一言ですね」
「ひでぇな」
「私一人ならともかく、お目付け役が毎回襲われて苦労しています」
「ちょっと清々しい顔で言うなよ」

 お目付け役、とは恐らくアンスル王国の城から付いてくる護衛のことだろう。リーゼロッテが施設で妙な真似をしないか、国王から監視が付けられるようだ。だが毎回この森を通過するときに彼らは獣を刺激し、痛い目を見て泣く泣く外に引き返すのだとか。リーゼロッテもそうならぬよう一応の忠告をしているが、残念ながら素直に聞き入れる者は少ない。

「人の助言は素直に聞くべきです。それを無視した者まで構っていられないでしょう」
「ひえ……そっちが本心だな、よく分かりま──」

 カイが半笑いで言いかけたときだった。馬車が向かう先から高い遠吠えが聞こえてきたことで、四人はサッと表情を引き締める。いよいよ実験施設の手前までやって来たのだ。リーゼロッテの話では、ちょうど今頃“兵士”の子どもたちが狩りに出る時間のはず。既に周辺には青い瞳の獣が放たれていることだろう。

 リーゼロッテが背後の小窓を開け、御者台に乗っているゴールズに声を掛ける。

「ゴールズ殿、私もそちらに移ります」
「え!? しかし姫様」
「あなたを失うわけには行きません。外にいた方が皆を守りやすい」
「姫様……!」

 何とも眩しげに目を細めたゴールズは、感動した面持ちで馬車の速度を緩めて停車した。リーゼロッテは外套を着込むと、馬車の外へ降りてからエリクたちを振り返る。

「少々荒くなるかもしれません。しっかり掴まっていてください」



 ▽▽▽



「──少々どころじゃねぇ!!」

 がったがったと揺れる馬車内で、カイが絶叫と共に抗議した。外からは閃光と爆音が絶え間なく続き、合間にはゴールズの「さすがです姫様!!」という笑い声が入る。もしやリーゼロッテは外の獣をあらかた始末してしまうつもりなのだろうか、いやそうに違いない。あの王女なら真面目な顔で「獣が襲って来たので」とか平然と言い訳をしそうである。

「お前に鐘渡す必要なかっただろこれ! 全部殺す気だあの人!」
「き、気休めに下さったのかな……」

 座席にしがみつきながら、エリクも引き攣った声で返す。あまりの爆走っぷりに先生が物憂げな顔で「若いな……」とか何とか言い始めてしまった頃、揺れるカーテンの隙間から外の景色が垣間見えた。身体を打ち付けながらも窓に顔を寄せてみると、木々の向こうに小さな人影を見付けてエリクは目を見開く。

「あ……っ」

 耳の尖った少年の後ろから、青い瞳の獣が飛び掛かる。思わず声を上げそうになった瞬間、馬車から鋭い雷が飛び、獣を一撃で焼き殺した。尻餅をついた少年が呆けた顔で馬車を振り返る姿を最後に、更なる閃光がエリクの視界を塞ぐ。

 微かに痛む右肩を押さえ、エリクは背中をぐっと背凭れに押し付けた。

「どうしたエリク、腕が痛むのか?」
「……いえ、ちょっとだけだから……大丈夫です」

 向かいから先生が心配そうに声を掛けてくる。それを控えめな笑みで躱した彼は、密かに息を吐いた。

(覚悟はしてたけど、心臓に悪いな)

 あらかじめ聞いていた通り、“兵士”は年若い少年少女ばかりだ。学び舎に通っている子どもたちとそう変わらない年頃の、それでいて活気の失せた表情は見るに堪えない。遠目でも分かるほど虚ろな眼差しは、寝ても覚めても悪夢の中を彷徨っているかのような絶望を窺わせる。親から引き離され、苦痛ばかりを強いられている彼らを間近で見てきたリーゼロッテの悔しさが、痛いほどに理解できた。

 右肩を掴む指が強く食い込んだ直後、馬車の後部ががたんと大きな衝撃を受ける。

「ぎゃあー!? 何だ何だ!?」
「エリクっ、伏せろ!」

 二人が慌ただしく前の座席に移動する様を後目に、エリクはおもむろに後ろを振り向く。小窓の外でばたばたと獣の後ろ脚が暴れている。天蓋の上によじ登った獣が小窓の方に頭部を持ってくると、その青い瞳がエリクを捉えた。


「──……」


 狂気に満ちた眼差しを、紅緋の瞳が静かに見返したときだ。

 唸っていた獣がぴたりと動きを止め、突如として藻掻き始める。見れば、獣の肉体に何か──青い結晶が纏わりついている。否、それは獣の内側から次々と生えてはあっという間に獣を覆い尽くし、やがて粉々に砕け散ってしまった。

「え……」

 カイと先生の戸惑うような声が、遠くに聞こえる。はっと我に返ったエリクは、同時にやって来た右腕の強烈な痛みに蹲った。

「お……おいおいおいエリク!? 大丈夫か!? ていうか今の何だよ気持ち悪い! 親父さん!」
「俺だって知らんぞ、あんな現象見たことない……エリク、ゆっくり息吐け」

 困惑気味な先生に背を摩られながら、エリクは荒い呼吸を繰り返す。何とか深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出したところで彼の意識はぷつりと途絶えたのだった。

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