68.







 強く頭を打ち付けたときのような、気怠い痛みが後頭部を重たくする。手足は石のように動かず、瞳も満足に移動できない。何をしようにも億劫な身体を持て余し、眼前に広がる漆黒を見詰める。瞼を閉じているのか開けているのか、それすら分からないほどにそこは暗く、一寸の光さえ見付けることは叶わなかった。

 ここはどこだろう。自分はどうしてこんな場所にいるのだろう。誰もいない。何も聞こえない。せめて体が動けば、ここから逃げ出せるのに。光射す場所へ出て行けるのに。

 誰か──助けを求めても声は出ない。途方もない孤独が首を絞めつけ呼吸を邪魔する。いっそのこと、そのまま絞め殺してくれれば闇から解放されるだろうか。誰一人いないこの場所で、久遠の時を無為に過ごすよりは──。


「……!」


 そのとき、遥か遠くに光が現れる。目を凝らしているうちに、景色は黒一色から爽やかな青色へと変化していった。轟々と吹き荒れる風は前へ前へと背中を押し、やがて爪先が切り立った崖に差し掛かったところで慌てて抗う。真っ黒な谷を見遣れば、先ほど自身を包んでいた暗闇が大きな口を開けている。

「……あ……?」

 ふと、向こう岸に誰かが立っていることに気付いた。ぼやけた輪郭はゆっくりとこちらへ近付き、そのまま谷へと身を投じてしまう。ひゅっと喉が鳴るのを感じながら最後に見たのは、眼下から生じる真紅の光と──落ちゆく少女の手を掴み、共に闇へと飛び込んだ一人の少年の姿だった。



 ◇◇◇



「──……エリク、エリク! 起きろ!」

 肩をぐらぐらと揺すられ、意識が急浮上した。ゴンッと鈍い音を立てて額がぶつかり、眼前にある黒塗りの壁を見詰める。ひりひりと痛む額を摩りながら身を起こせば、ビロード張りの座席や窓を隠す分厚い仕切り、そしてこちらを注視する三人の姿があった。

 エリクは隣に座っているカイに視線を移し、少しばかり呆けた顔で尋ねる。

「……あれ……僕、もしかして寝て……?」
「寝てたっていうか、いきなり白目剥いて気絶したっていうか」
「ええっ」

 慌てて他の面々──先生とリーゼロッテを見遣れば、二人とも同様にして頷いたので嘘ではないようだ。木霊する痛みを抑えるように目を閉じ、エリクは小さく謝った。

「ご、ごめん、今どの辺りかな」
「そろそろ施設のある森に差し掛かるってよ」

 リーゼロッテが施設の破壊と“兵士”の解放を計画していることを知ってから数日後、エリクたちはすぐに行動へ移った。爆破魔法の援助を担う魔法具の取り扱い方、それから施設へ向かうための馬車の手配、侵入経路と脱出経路の確認。馬車に関しては信頼の置ける者──つまりは自警団の者たちが快く引き受けてくれたので、ここにはアンスル王宮に関わりのある人間はいない。つまり王女の計画が移動途中で覆されるような事態にはならないということだ。

 しかし、エリクにとって道具の使用方法やら見取り図の記憶などはさほど苦ではなかったはずだが、今しがた馬車の中で熟睡してしまったのを考えると意外にも疲れていたのかもしれない。聖都から大山脈を抜け、休む間もなくアンスル王国からダエグ王国へと向かったのだから、当然と言えば当然だが。

(……さっき、変な夢を見たような)

 雲の多い青空。見覚えのない渓谷。ふらふらと谷へ歩み寄っては落下する少女。エリクはただその光景を眺めることしか出来なかった。単なる夢だと思うのに不思議と焦りを覚えるのは、少女の姿がよく見えなかったからだろうか。

(ニコ……だったのかな)

 いや、彼女の金髪は遠目であっても目立つ。きっと違う人だと頭を振るも、それならあれは誰だったのかと再び唸ることになった。身近にいる女性で最も容姿が近いような気がしたのはセリアだが、やはり彼女ともどこか雰囲気が違う。内容がひどく抽象的だったおかげで、エリクの思考は靄が掛かったように釈然としなかった。

「エリク、大丈夫なのか? 体調が悪いなら……」
「あっ、へ、平気です」

 額を押さえたままじっと俯いていたせいで、先生に心配を掛けてしまったようだ。たかが夢だと割り切ることにして、思考を中断したエリクは取り繕うように笑みを浮かべる。先生は気遣わしげな表情を引き摺りつつも、妙に静かな外を窺っては口元を引き締めていた。

「姫君、俺はここに何度か近付いたことがあるんだが……あの獣は放し飼いにでもされてるのか?」
「いえ、狩りの時間になると外へ出されるようです。それ以外は施設内に……ですがニコが姿を消してからは、捜索用に少しばかり駆り出されたと聞きました」
「す、少しばかりって数じゃなかったぞ……」

 リーゼロッテの言葉に、魔女の森付近での襲撃を思い出したのか、カイがげんなりと顎を出す。確かにその通りだと苦笑を湛えつつ、エリクはふと自身の右肩を摩って尋ねた。

「あの、じゃあ獣が脱走したとか、そういう話も……?」
「稀ですがあったはずです。ただでさえ凶暴な生物ですし、狩りの時間に誤って逃がしたこともあるでしょうね」

 食い千切られた右腕を一瞥し、王女は痛ましい面持ちを浮かべると同時に、やや腑に落ちないと言った顔になる。恐らくまだ、エリクが獣に狙われているということが不思議なのだろう。

「……まぁ、獣については施設内に入ってしまえば問題ありません。それまでは私があなたがたを守るとして──エリク殿」
「は、はい」

 頼もしい発言の後、リーゼロッテはおもむろに外套の内側を探る。差し出された小さな麻袋を受け取ったエリクは、目だけで王女に確認しつつ紐を解いた。中を覗いてみると、そこには何やら小指の先程度の丸薬がいくつか入っている。薬草独特のツンとした匂いが鼻をついた他、見た目も少々粉っぽい。

「これは……?」
「先日完成した“解呪”に用いる魔法薬、というより気付けのようなものですが。ニコに飲ませて欲しいのです」
「ニコに?」
「ええ。今日はセヴェリが施設に来訪する予定はありませんが……何か仕掛けていてもおかしくはない」
「な、何をだ!?」

 がばりと身を乗り出した先生を、どうどうとカイが宥める。正直エリクもつい口が歪んでしまったが、何とか堪えてリーゼロッテの話を促した。

「セヴェリが得意とするのは“喪神の蝶”……相手の理性を失わせ、己の思うがままに動かす術です。それが、教団があの男を欲しがった最大の理由と言ってもいいでしょう」
「……!」

 魔法で他人の自我を消し、意のままに操る。その力は、いつミグスに呑まれてもおかしくない“兵士”を保有しているグギン教団にとって、非常に魅力的に映ったことだろう。ゆえにセヴェリはこれまでにも、ミグスの共鳴に失敗した子どもらの暴走を“喪神の蝶”で宥めるように頼まれてきたのだ。

 そんなセヴェリから身を守るべく、王女の特注で作られたこの丸薬は、人に仕掛けられた魔法を強制的に解除するほか、効果が続く限りは他者からの魔法を多少だが弾くようにもなるという。魔法への耐性や免疫を高める、いわば風邪薬のようなものだとリーゼロッテは簡潔に説明した。

「これを飲んでいても万全とは行かないかもしれませんが……無いよりはマシです。あなたがたも一粒ずつ飲んでください」

 そう言って王女はひょいと丸薬を口に放り込み、がりがりと噛み砕いては飲み下す。エリクは先生とカイにも丸薬を分けつつ、恐る恐るそれを口にし──そのとんでもない苦味に三人揃って悶絶したのだった。

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