67.






 聖地跡の森を無事に西へ抜けた第二師団は、皆一様に焦りの表情を浮かべて後ろを振り返る。途中から第三師団の追手が消え、負傷者を抱えながらも何とか全員が生き延びた。しかし肝心の皇太子がいないのだから、呑気に安心している余裕はない。

 腕や脇腹に刺さった矢を乱暴に引き抜いたブラッドは、団員からの応急処置を受けるや否や、すぐさま森へ引き返そうとする。

「ふ、副長、その傷で戦うのは無理です! せめてジャクリーン様の祈りを受けてから……!」
「集落まで往復している暇はない。第四師団と合流したら先に聖都へ行け、急げ!!」
「副長!!」

 振り切るように走り出せば、すぐに部下の声は闇に紛れて聞こえなくなった。松明もなしに飛び込むのは無謀だと誰かに叱られそうだが、自分の位置を敵に知らせるような真似をせずに済む。

「くそ、ネイサン……!!」

 あまりにも無様な状況に、ついつい悪態が漏れる。

 ネイサンはリューベクの近衛騎士として抜擢された同年代の男だが、昔からどこか反りの合わない部分があった。あの柔和な笑みはフランツを彷彿とさせるというだけで苛つくが、それとは別に──さりげなくアーネストを避けるような行動が目立っていた。今思えば、彼はアーネストを皇太子と認めず、兄のリューベクを聖王として立てたがっていたのかもしれない。表立った動きはないにしても、未だ兄王子の即位を諦めていない一派は確かに存在するし、彼もそのうちの一人だったというのなら今の状況は説明がつく。

 問題は、この襲撃がリューベクの指示によるものなのか、だ。もしも本当に兄王子の指示だったのなら、アーネストは心に深い傷を負うことになる。ミグスを賜る以前から、ずっと慕っていた兄からこんな仕打ちを受けるなど。それもグギン教団という敵と手を組み、聖都を攻め落とす手伝いまでしているのだ。正気でないことは勿論、忠誠心の塊のようなリューベクが取る行動だとはブラッドも思いたくない。

 怒りと悔しさで呼吸が乱れ、湿った土で踵が滑る。体勢を崩し、転倒する寸でのところで剣を杖にして耐えた。しかし予想以上に血を流し過ぎたのか、ブラッドはそのままがくりと膝をつく。濁る視界に瞑目し、体の内側からミグスを引っ張り出す。動けないならミグスを動力に無理やり動かすまでだと、悲鳴を上げる肉体を無視して立ち上がろうとしたときだった。


「──……ッド、ブラッド!!」


 聞き捉えたのは馬の蹄。真っ直ぐにこちらへ向かってくる足音に気付き、ブラッドは険しい表情のまま後ろを振り返り、思わず唖然としてしまった。騎馬に跨っていたのは第二師団の騎士ではなく、紫水晶の髪の乙女だったのだ。

「ジャクリーン、様……!?」

 何故この場に、と尋ねる間もなく、ジャクリーンは慌ただしく鐙から足を外す。常にエスコートが付く公爵令嬢は、平素ならば一人で馬の乗り降りなど絶対にしない。それでも少々もたつきながら何とか鞍から降りた彼女は、その瞳に悲痛な色を滲ませて駆け寄ってきた。

「ブラッド、大丈夫っ? じっとしていて」
「……っ何故ここに、貴女は集落で待機していらしたはず」
「静かにしなさい!」

 震えた声で強く咎められ、ブラッドは閉口する。ジャクリーンは彼をゆっくりとその場に座らせると、不安を必死に押し殺したような顔で尋ねた。

「傷はどこ? 腕と背中だけ?」
「……はい」
「動いちゃ駄目よ」

 血の滲む腕に両手を翳し、彼女が瞑目する。するとそこから淡い──青い光がふわりと浮かぶ。ミグスの輝きと似た光は、やがてブラッドの腕へ滲むように消えていく。ひんやりとした感触が素肌に落ちたかと思えば、強張った痛みが抜けていることに気付く。同じように背中の傷にも祈りを捧げたジャクリーンは、ふと眉を寄せて瞼を持ち上げた。

「……こんな傷で走るなんて。私がちゃんと治してあげるからって、いつも言ってるのに」
「申し訳、ありません。ですが今は」
「殿下のことは皆様からお聞きしました。私も共に参ります」
「な……!? なりません、貴女はすぐに聖都へお戻りください!」
「嫌です! 私が来なければその辺りでおねんねしてた困ったさんのくせに!」

 何とも屈辱的な表現で詰られたが、怒る気になれないのは仕方がない。ジャクリーンから見て自分はそういう立場なのだし、と場違いな悟りを開きかけたブラッドは慌てて我に返る。衝撃を受けている間に、彼女はよたよたと鞍に跨ろうとしていた。

「ジャクリーン様──」
「急いで来いと仰っていたのです! あなたはきっと徒歩で飛び出すから、出来れば騎馬のまま、って」
「は……?」
「まあっ、ブラッド見て! 意外と一人でも乗れるものね!」

 途切れ途切れに話しながらも鞍にしっかりと跨ったジャクリーンは、一頻り感激してからブラッドを見下ろす。眉を下げて微笑んだ彼女は、こんな暗い森であっても美しかった。

 彼女はそっと細い手を差し伸べ、穏やかな声で告げる。

「ブラッド、お願い。私も殿下をお守りする騎士よ。仲間外れはよして」
「仲間外れなど……ジャクリーン様、先ほど仰ったのは……?」
「一緒に乗るなら教えてあげるわ」

 眼前にある華奢な手と、いつもと変わらぬ優しいまなざしを受け、ブラッドはついに観念した。今は時間が惜しい。それにジャクリーンがいれば、もしもアーネストが負傷していても治療が出来る。闇に潜む敵から襲撃を受けたとしても、そのときは自分が守ればいい。

「……分かりました。失礼いたします」

 小さく断りを入れつつ、ブラッドは彼女の手を取らずに自力で馬へ跨る。ジャクリーンの後ろへ腰を下ろすと、何故かちょっと不満げな顔がこちらを振り向いた。

「エスコートする側に回ってみたかったのに」
「……それは……またの機会に」

 詰まりながらも答えれば、ジャクリーンはくすくすと笑って頷く。しかし前に向き直った彼女の肩は、ほんの少しだけ震えたままだった。ブラッドは視線を逸らし、彼女から手綱をそっと奪う。

「──ありがとうございます」
「え?」

 彼女が来てくれたおかげで、泥濘に嵌まっていた思考は幾分か冴えた。先程まではアーネストの身を案じる余り、リューベクやネイサンに対する疑念が異常に膨れ上がっていたのだ。聖地跡の淀んだ空気に呑まれ、心身ともに疲弊していたところへやって来た──救いの光。

 さすがにもう追い返そうとは思わない。暗闇の中を一人で駆ける恐怖を、また味わえとは言えなかった。

「殿下を助けに向かいます。しっかり掴まっていてください」
「ええ」

 二人は気を引き締め、真っ暗な森の奥へと向かったのだった。

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