66.







 ──目の前に浮かぶ青い巨石を仰ぎながら、幼い王子は呆然と立ち尽くした。

 湧き起こる拍手と歓声。口々に祝いの言葉を掛けられても、王子はそれに応えることが出来ない。微かな眩暈と吐き気を抑え込み、騎士の腕を借りつつ広間を出る。そこでもまた騒々しい声に迎えられ、息苦しさから逃れたい一心で足を動かした。めでたい日にも関わらず王子がひどく青褪めた顔をしていたことなど、興奮に包まれた人々には分からなかっただろう。

 他人の笑顔が鬱陶しいと感じたのは初めてのことだった。自室へ転がり込んだ王子の顔を見て、今日ばかりは饒舌な友人も口を閉ざす。彼は騎士見習いの少年を引き連れて、静かに部屋を出て行った。廊下にいた大勢の大臣たちまで説得してくれたのか、次第に声と足音が遠ざかっていく。

 やがて訪れた静寂の中、王子は暫し放心した。崩れ落ちては両手を開き、息を震わせる。滲み出るはほんの僅かな喜びと、それを掻き消すほどの動揺と恐怖だった。

 どれほどの間そうしていたのか。王子はいつの間にか蹲り、萌黄色の瞳からぬるい涙を溢れさせる。小さな体に宿った青き力は、ただひたすら後悔ばかりを王子へ植え付けた。

『アーネスト』

 背後で扉が開き、上擦った声が掛けられる。びくりと肩を震わせた王子が更に縮こまれば、慌ただしい足音が近付く。背中にそっと添えられた手は優しく、覗き込む瞳もやはり、王子の身を案じるものだった。

『どうしたんだ。どこか痛むのか』

 ゆっくりと体を起こされ、王子は泣き腫らした瞳を伏せる。控えめに頭を振っても、よく似た顔の兄は何も納得していない様子で眉を顰めた。

『……フランツから呼ばれたんだが、何があった? お前らしくもない』
『兄上、僕はどうすればいいんですか』
『え……』

 耐え切れずに口を開けば、兄が目を丸くする。王子は引きつった呼吸を繰り返しながら、嗚咽と共に吐き出した。

『どうして僕なんだ。僕は、兄上を守る騎士になりたいんです。僕なんかがミグスに選ばれても意味がない、兄上じゃなければこの国は立ち行かない! どうして僕なんかが選ばれたんだ!!』
『アーネスト』
『お願いです兄上、僕は聖王になんてなれません。兄上がなるべきだ、あなたこそが王なのに』
『アーネスト!』

 兄は肩を強く掴むと、珍しく声を張り上げた。続けようとした言葉は霧散し、王子は力なく項垂れる。

 きっと軽蔑したに違いない。王族に生まれ、青き力に選ばれておきながら、玉座を欲さない無欲さは返って聞こえが悪い。この国を守る役目を放棄しているのと同義だ。もしもこんな醜態が国中に知れれば、王家の恥を晒すことになる。だが今はどうしても納得がいかなかった。

 ミグスは何故、優れた王子である兄を選ばなかったのか。兄が共鳴の儀式に臨む日、国の誰もが期待していた。勿論、兄を尊敬して止まない王子も、きっと兄はミグスに選ばれると信じていた。聖王の器に相応しい兄ならば、神も必ず報いを与えてくれるに違いないと、根拠もなく確信していたのだ。

 しかしミグスは兄を選ばず、その数年後、兄よりも何もかもが劣った王子を選んだ。

 こんなことは望んでいなかった。聖王となる兄を支えることが夢であり、たった一つの願いだったのに。

『……アーネスト、顔を上げろ』

 先程よりも幾分か抑えた声で、兄は呼び掛けた。のろのろと視線を持ち上げると、いつもの生真面目な表情がそこにある。祖国を第一に考える、紛れもない統治者の顔つき。やはり自分とは違うのだと更なる劣等感と嫌悪感に苛まれたとき、兄はそれを見抜いたように首を振った。

『“始祖”がお前を選んだことに、私は何の疑問も持っていない。……お前は優しい。この国のためではなく、人のために動くことが出来る。そういう人間こそが真の王だから』
『……嘘だ』
『嘘じゃない。良いか、アーネスト。人々の声を無視し、国益だけを優先することは簡単だ。私がいつも講師と話している内容は、そういった声を無視した上での空論に過ぎないんだ。お前はそれを凄い凄いと言うがな、あんなものは現実離れした理想でしかない。──私は、頭が固いのさ。だから大臣たちから気に入られてる』

 自嘲気味に語られた兄の話は、王子から言葉を奪い取っていく。今まで一度も聞いたことがなかった兄の胸中を知って、そして王子が抱いていた憧れをも打ち砕くような言葉を聞かせられて、どうしようもない焦りを覚えた。それは違うと言いたいのに、自分よりずっと冷静な兄の眼差しは、いつだって公平な立場を維持していて、自分の発言がどれだけ偏っているのかを思い知らされる。

『恐れるな、アーネスト。どちらが王か騎士かなど大した差ではない。この国を守る者として、私はこれからも己に出来ることをするつもりだ。……それに、誰も兄を頼るななど言っていないだろう? 大丈夫だ、お前は一人じゃない』

 ふと浮かんだ微笑は、とうとう王子の涙腺を崩壊させた。

 王子は聖王になることを恐れていたのではない。ミグスに選ばれたことで、兄が離れていくのではないかと心の奥底で怯えていたのだ。ようやく今そのことに気が付いたというのに、兄は既に分かっていて──兄弟で共に国を守っていくと誓ってくれた。

 そんな共鳴の儀式から数年の後、幼かった王子は見違えるように成長し、立太子の儀に臨んだのだった。



 ◇◇◇



(……何だこれは。走馬灯か?)

 アーネストは自嘲の笑みを浮かべ、飛んでいた意識を引っ張り戻すように剣を振り払う。槍を弾いた瞬間、空いた腹部を容赦なく蹴りつけた。第三師団の騎士は勢いよく吹っ飛び、身体を強く打ちながら茂みの中へ転がった。

 ようやく静かになった森を見渡し、立ち込める血の匂いに眉を寄せる。腕には不覚にも避け切れなかった傷が疼き、どくどくと脈打つ。……もしや刃に何か薬が塗られていたのかもしれない。指先が痺れ、思うように動かなくなってきた。それに身体の異変はそれだけではない。先程から何度か意識が薄れ、気付けば動けない相手に剣を振り下ろそうとしていたときは肝が冷えた。

(第二師団とは別方向から外に出るべきか。このままだと完全に呑まれる)

 大樹の裏に身を隠し、アーネストは呼吸を整える。目を閉じれば、心なしか動悸も治まったような気がした。とにかく冷静にならなければ。自我を失って暴れ回るような事態だけは何としても避けたい。

 それに第二師団と別れた後、一度もネイサンと遭遇していないことが気にかかる。彼を一度でも見失うと、次に何処から襲ってくるかさっぱり分からないのだ。初めに仕留めておくべきだったと顔を歪めたところで、アーネストは慎重に体を起こす。

 痺れが全身に回る前に、聖地跡の……どちらへ向かうべきか。第二師団が西の集落を目指して出て行ったのなら、東寄りに敵を引き付けておくのも良いが、間違えてピレー渓谷に出てしまえば逃げ場がなくなる。第三師団の他にも教団の手先が潜んでいる可能性は無きにしも非ず、迂闊な行動が命取りになることを肝に銘じておかなければ。

 くらりと揺れた頭を押さえ、アーネストはきつく歯を食い縛った。ここで無様にくたばる気は毛頭ない。兄の真意を確かめるまでは、いや、そもそも自分が死んでしまってはならないのだ。彼女に、孤独な魔女に言われたではないか。皇太子が死ねば聖王国は潰え、グギン帝国が南イナムスを支配する、と。

(……その後は、どうなるのだろう)

 ミラージュは皇太子の死と同時に「過去」へと返る。つまり魔女もグギン帝国が復活した後のことは知らないのだ。しかし──大体の予想はつく。グギン教団の狙いは聖都にあるミグスを手中に収めた上で、二千年前に追放された巨人族をイナムスに呼び戻すことだろう。実在するかどうかも分からない古の種族とは言え、もしも大陸に巨人族が現れれば大きな混乱が引き起こされることは必至だ。“始祖”は恐らく聖王国の滅亡よりも、巨人族の再来を回避するために「未来」のやり直しを魔女に求めているのかもしれない。


『私はあなたを見捨てようとしたのです』


 ──ああ、駄目だ。彼女に「未来」を繰り返させてはいけない。もう二度と。


 アーネストが再び足を踏み出した瞬間、軽い衝撃が背中に当たる。萌黄色の瞳を見開き、腹部に強く押し込まれた手を見下ろす。硬く握り締めた短剣と、流れ落ちる真紅が衣服を汚していく。掠れた息を吐いたアーネストがゆっくりと後ろを振り返ると、そこで見慣れた笑顔が待ち構えていた。

「……魔女殿への遺言はどうされますか、殿下」

 ずるりと崩れ落ちたアーネストは、信じられない面持ちで彼を見上げたのだった。



「…………フランツ」

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