64.






 聖地跡。そこは魔女の住む樹海と同じく、密集した背の高い木々が視界を覆い尽くす。かつて存在した巨大で奇怪な城は、この分厚い森に囲まれるようにして立っていたと言われている。東に面しているピレー渓谷には、この不気味な森を抜け出そうと必死になる余り、誤って身を投じてしまった者も多くいるとか。それほど聖地跡という場所は、その名にそぐわぬ淀んだ空気と不安を掻き立てる匂いがするのだ。

「……噂以上だな」

 頬に纏わりつく湿気を拭いつつ、アーネストは周囲の暗い景色を見回す。魔女の森と決定的に違うのは、昼間だと言うのに一切の光が射し込まない点だろうか。かの森はもう少し見通しが良かったはずだが、ここはまるで頭上を屋根で塞がれているかのようだ。

「松明を絶やすな。それから無暗に行動範囲を広げないように。どこに教団の者が潜んでいるか分からない」
「はっ」

 教団にはニコや暗殺者の娘のような強力な“兵士”がいる。もしも彼らが聖地跡にも潜んでいれば、共鳴者ではない騎士には分が悪い。日頃からブラッドに扱かれている団員が簡単にやられるとはアーネストも思ってはいないが、相手は手加減などしてくれない。これは正真正銘の実戦なのだ。被害は最小限に抑えなければならない。

「フランツ。聖地の城跡には身を隠せるような建造物が残っているのか?」
「確か城壁と、四阿が二、三ですね。数十人ぐらいなら余裕で収容できるそうですよ」

 たったそれだけでも、元は巨人族が造った城。彼らよりも遥かに小さな体を持つ人間なら、主屋がなくとも十分に隠れ家として機能するだろう。そんな歴史書でしか知らない場所に初めて踏み入るわけだが、もう少し落ち着いた状況が良かったなとアーネストは自嘲気味に口元を歪めた。

「……エリクたちは無事に北へ抜けただろうか」

 そうして思い浮かんだのは、教団の実験施設へ自ら打って出た隻腕の青年。見た目通り温厚で優しい性格の、失った右腕を除けば至って普通の人物──と、思っていたのだが。


『──闘技場で彼の声を聞いた瞬間、身体が動かなくなりました』


 以前にそのような証言をしたブラッドを盗み見る。騎士団副長を務めるほどの実力者である彼は、幼い頃から騎士としての教育を受けてきた根っからの武人だ。格上の相手にも怯まぬ精神と度胸を持ち合わせ、剣の師匠であるトールマンからもお墨付きを貰っている。

 そんな彼が、だ。闘技場の雰囲気に呑まれたわけでも、“兵士”のニコに臆したわけでもなく、たった一人の青年の声によって動きを完全に封じられたという。そもそもあの騒々しい空間で、エリクの声だけが突き出て聞こえてくること自体がおかしいだろうとアーネストは首を傾げたが、どうやらニコにも彼の声が聞こえていたようなのだ。「やめてくれ」と。ブラッドとニコは縛り付けられたように停止し、一足先に解放された少女は安心した様子で眠り──。

 その話を聞いたとき、エリクに直接尋ねてみるべきかとも思ったのだが、如何せん機会を見つけられなかった。ブラッドの話が単なる気のせいではないのだとしたら、エリクは「共鳴者の動きを声一つで封じる」というとんでもない存在になり得る。もしや彼が青い瞳の獣に狙われていることにも関連があるのではと考えたのは、残念ながら既に派兵が決まった頃だった。

「北方をうろつく怪しい人物の報告も来ていませんし、上手くすり抜けたと思いますよ」
「ああ……そうだと良いんだが」

 フランツの言葉に生返事をしながら、アーネストはふと息をつく。エリクがバルドルやカイと共に施設から無事帰還したら、すぐに安全を確保した方が良いかもしれない。ニコの傍にいたおかげで、教団がエリクの存在に気付いている可能性は十分にあるのだから。

「殿下」

 思考が一通り終わったとき、ブラッドの抑えた声が耳朶を打つ。見れば、彼は剣に手を掛けた状態で周囲を警戒している。近くで守りを固めている騎士も、アーネストとフランツを囲うように配置につく。どうやら何者かが付近に潜んでいるようだ。自身も剣を引き抜きつつ、松明が仄かに照らすだけの暗闇を注意深く見渡す。

 じとりと汗が顎を伝った瞬間、アーネストは鋭く瞳を右へ動かした。

「右だ、来るぞ!!」

 木々が大きく揺れ、闇の奥から複数の影が迫る。松明の火がそこに潜む銀を反射して煌めけば、瞬時に数を把握したブラッドが隊列から外れて飛び出した。決して深追いはせず、彼は灯が届く範囲で次々と襲い掛かる刃を受け流し、危なげない戦いを繰り広げる。

「うぐ……っ」

 そのうち一際激しい剣戟の音が響き、勢いよく隊列へと弾き飛ばされてきたのは、黒いローブを身に纏った少年だった。すぐさま騎士団が少年の身柄を取り押さえ、強引にフードを外す。露わになったのは案の定、ニコと同じ不自然に尖った耳だ。

「相手は共鳴者だ、注意して当たれ」
「はっ」

 アーネストは手短に告げ、皆が交戦状態に入ると同時に近衛から受け取った弓を引き絞る。今しがた襲ってきた敵とは反対側の闇へと矢を放てば、奥から呻き声が上がった。間を置かずに矢をつがえ、皇太子は姿の見えない敵を正確に射抜いていく。

「殿下、もしや見えていらっしゃるのですか?」
「いや」

 フランツが驚いたように目を眇める傍ら、アーネスト自身も少々困惑しつつ弓を構えた。気配を探ること自体はそう難しくないのだが、不思議と向こうの動きが捉えやすい。複数の共鳴者が集まっているのが原因かは分からないが、まるで自身に宿るミグスが敵の位置を知らせてくれているような感覚がする。

 だがこれはミグスの好反応というよりは──過剰に引き攣っているがゆえの異常な反応と表現した方が良いだろう。弓を握る手が意に反して震える様を見詰め、アーネストは背後にいるブラッドと数名の共鳴者に告げた。

「決して深追いはするな、ミグスに呑まれるぞ」

 その言葉に彼らはハッとしたような表情を浮かべ、神妙に頷く。共鳴者はミグスに秘められた巨人族の凶暴性を目覚めさせぬよう、日頃から落ち着いた態度を求められている。人の血を目にしても狼狽えず、また刃を手にしても我を失わず、完全に力を制御するよう訓練を受けるのだ。ちょっとやそっと賊を斬り伏せた程度で動揺していては、まず力の行使は認められないし、そのような人間は長いこと見習いのままだ。

 しかし、この聖地跡はティールの共鳴者の強靭な精神を蝕む何かがあると、アーネストは直感していた。敵を傷付けるごとに増していくおぞましい興奮は、感じたことのない恐怖を闇の奥から運んでくる。

「ふむ、殿下、奴らを森の外へ誘き寄せましょう。このままだとオールゼン卿辺りが狂気に呑まれて腹踊りでも始めそうです」
「誰がするか!!」

 フランツの進言を聞き捉えていたブラッドが、また一人捻じ伏せながら大声で返す。しかしその提案自体には賛成だったのか、注意を払いつつアーネストの近くへと足早に戻ってきた。

「殿下、予想以上に敵の数が多い。そいつの言う通り、一旦引き返すのが賢明かと」
「そうだな……負傷者は?」
「数名程度です。動くなら今──」

 ブラッドが不意に言葉を途切れさせ、素早く振り返る。背筋に走った悪寒に目を見開き、同時にアーネストも剣を構えた。

「殿下?」
「フランツ、皆を連れて外へ向かえ!」

 何かが凄まじい速さで近付いてくる。今までの年若い“兵士”にはなかった明確な殺気と、重く冷たい威圧感。狙われていることは分かるのに、向こうは決して位置を悟らせない。

 おかしい、とアーネストは顔を強張らせた。いくら教団の下でミグスと適合したからといって、ここまで訓練された者がいるとは思えない。先程までの素人と比べて気配を殺すのが巧すぎる。一体どこから──。

「くッ……!!」
「ブラッド!!」

 刹那、眼前でけたたましい剣戟の音が響いた。アーネストを咄嗟に庇ったのはブラッドだ。すぐさま彼が剣を弾き返せば、影はひらりと後退する。闇から現れた刺客を見据え、ブラッドが即座に斬りかかろうとしたとき、アーネストは大きく目を見開いて彼を引き止めた。

「待て、ブラッド!」
「殿下!?」

 彼の肩をぐっと掴んだまま、ゆっくりと前に出る。松明の火は既にないが、今の身のこなしは随分と見覚えのあるものだった。音もなく相手の懐に滑り込み、重い一撃で呆気なく勝負を決めてしまう手並み。攻撃を受けたのがブラッドでなければ、容易く討ち取られていたことだろう。

 そんな物騒かつ殺意の高い戦術とは裏腹に、「彼」はいつも人の良い笑顔を浮かべていた。


「ネイサン……っ?」


 そこにいたのは、兄王子リューベクの近衛騎士──ネイサンだったのだ。

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