60.






 エーベルハルトは最初、熱心に現代語を教えようとしてくるリーゼロッテを拒絶した。これがただの幼い少女なら、疎まれていると思って落ち込んだことだろう。しかし突き飛ばしたり古代語で罵倒を口にしたりしない様子から、聡い王女には彼の懸念が手に取るように分かったものだ。

 ──下手な真似をすれば、リーゼロッテが真っ先に始末される。

 擬似巨人、すなわち皇帝であり神でもあるエーベルハルトは「選ばれた人間」としか言葉を交わしてはならない、という教団の傲慢にも似た方針は、勿論リーゼロッテにも適用される。未来の皇后と言えど、現代語を教えてエーベルハルトを掌握しようものなら容赦はしないだろう。

 ……だがそれはバレなければ良い話で、そんなヘマはしない自信が彼女にはあった。リーゼロッテの魔法使いとしての成長を疎む叔父に隠れて、秘密裏に講師の元へ通っている王女にとっては簡単なことだ。エーベルハルトと二人になった途端、リーゼロッテは誰の目もないことを確認して現代語で彼に話しかける。挨拶に始まり、ここ数日で起きた出来事、部屋にある調度品の名称など、手当たり次第に話を続けた。

「初めは少々呆れておられましたが、数か月ほどで相槌を打ってくださるようになりました。今は私の言葉も何となく理解してくださっています」
「い……意外と強引なんですね……」
「エリク殿も私と同じでしょう」
「え」

 窓越しに外の雪景色を見詰め、リーゼロッテは頬杖をつく。ちらりと翠玉色の双眸が向けられ、エリクは言葉を詰まらせた。

 彼女の言わんとしていることは分かる。彼女は──エーベルハルトに惹かれてしまったのだろう。それも十年も前から。だからこそ危険を冒してでも現代語を教え、彼との会話を求めたのだ。

 エリクにとってその行動原理は決して他人事ではなく、彼自身にも覚えのあるものだった。彼は言葉の通じないニコと目線を合わせるために、自ら古代語を勉強して毎日話しかけていた。最初は単なる親切心と、会話の有用性を考慮しての行動でしかなかったが、気付かぬうちにその範疇をとうに超えていたのだろう。

『オヤスミ、エリク』

 彼女がこちらの言葉を真似して、復唱して、手探りに会話をしてくれるから。彼女にも歩み寄る心があると知って、もっと言葉を交わしたくなったのだ。そんなエリクとリーゼロッテの間には、確かに違いなど見当たらない。

「……エリク殿、お願いがあります」

 静かな声に顔を上げれば、リーゼロッテが焼き菓子の入った籠を指先で押す。エリクの左手にそれを押し付けた彼女は、真剣な眼差しで告げた。

「ニコをもう一度、外に連れ出してあげてください」
「……!」
「立場上、エーベルハルト様と私はあの施設をそう簡単には離れられない。でもニコは違う。あの子はセヴェリの目さえ無ければ、どこへだって行けるはずです」


 ──そして、彼女の手を引く人間さえいれば。


 元からそのつもりで北イナムスまでやって来たとは言え、よもや施設の関係者であるリーゼロッテから頼まれるとは予想していなかった。少しの逡巡を経て、エリクはゆっくりと息を吐き出した。

「……僕は、ニコを連れ戻す気でここまで来たんです。畏れ多くも、貴女にその手伝いをお願いするつもりでした」
「ならば好都合でしたね。ついでにこの焼き菓子、ニコに届けてくれますか?」
「へ?」
「あの子の好物なのです」

 エリクは呆けた顔で手元を見遣る。……これも、リーゼロッテがこっそりとニコの好みを探った結果なのだろうか。いや、そういえば城郭都市でオドレイから焼き菓子を勧められたとき、ニコが食い入るように見つめていた気がするので、エリクの単なる観察不足かもしれないが。必ず届けてあげようと頷きつつ、エリクは今しがた聞いた不穏なことについて尋ねた。

「わ、分かりました。それとリーゼロッテ様、ダエグ王の目って……」
「セヴェリは南北関係なしに精霊を行使できますから、ニコを自分の元に手繰り寄せることなど造作もないのですよ。……アレは少々、ニコに妙な執着を見せていますから注意しておかなければ」

 リーゼロッテの不穏な忠告に、エリクは恐怖というよりは不快感を露わにしてしまった。もしやセヴェリはこのひと月の間、ずっとニコを監視していたのだろうか。あの厄介な黄金の蝶を遣わし、時には彼女を誘き寄せ、襲わせて──わざと連れ戻さずに。リーゼロッテの言う通り、セヴェリが少々どころかかなりの曲者であることは容易に想像がついた。

「けど、注意と言ってもどうすれば……ダエグ王は強力な魔法使いなんですよね──あ」

 言葉を途切れさせ、ふと向かいを見詰める。そういえばここには、北イナムスで有名な魔法使いがいたのだった。何処か挑戦的な笑みを浮かべた彼女が、頬杖をついていた手で指先を鳴らせば、辺りに浮かせていた火が急速に集結する。渦を巻くようにして集まった火の粉は、ほっそりとした人差し指の上で一つとなり、勢いを増した様子で揺らめいた。


「──私はニコを解放し、あの施設を破壊する予定ですから。エリク殿もその心積もりでよろしくお願いしますね」


 じゅ、と炎を握り潰したリーゼロッテに、エリクは思わず逃げ腰になりそうになりながら頷く。この王女はエリクがニコを助けると言った時点で、実験施設そのものを破棄することを決めてしまったのだろう。翠玉色の瞳は冷静に見えて、これまでの鬱憤やら何やらで溢れていたのかもしれない。

「……ええと、リーゼロッテ様は大丈夫なんですか? 施設は連合にとっても重要な場所でしょう。アンスルの姫である貴女がそこを壊そうものなら」
「ええ、危険ですからそのままティール聖王国に亡命いたします。施設の存在と実験をしていた証拠をあちらに示せば、ティールも動く口実が出来る。“呪具”関係でカイには南を飛び回っていただきましたから、ちゃんと伝手はありますよ」
「えっ。……え? まさか」

 カイの言い分では「南に密輸された“呪具”を回収する」ということだったが、どうやら事情は少し違ったようだ。あちらこちらに撒かれた“呪具”をカイに回収させることで、リーゼロッテは南イナムスの人間との繋がりを作っていたのだ。例えば、そう。城郭都市でカイが助けた伯爵令嬢のオドレイとか。つまり人々に害を及ぼす“呪具”を回収することでティールの有力貴族に恩を売り、リーゼロッテが行動を起こす際に必要な人脈を確保していたということだ。

「叔父上が治めるアンスルを落とすのは易い。ソーンは沈黙を保つでしょうし、相手取るべきは実質ダエグ王国と教団のみです。ティールの戦力があれば十分に戦える」

 この王女は何も、叔父を恐れて隠れていたのではない。寧ろ叔父を玉座から引きずり落とすために、静かに準備を整えていたのだろう。

 自分と然して年齢は変わらないはずだが、エリクはこれが王族の意地と義務なのかと呆気にとられる。王位にしがみつき贅沢な暮らしをする叔父によって、アンスル王国は荒れていく一方だ。女王となるはずだったリーゼロッテには、自国の状況を改善する責任があるのかもしれない。そしてそこにもう一つ、教団の施設に縛られているエーベルハルトやニコ、罪なき子どもたちを救うという大きな目的もあるのだろう。それら全てを実行し達成するために、彼女は少ない味方と共に──。


(──でも、リーゼロッテ様の計画も「過去」では失敗したんだ)


 ミラージュが未だに「未来」を繰り返しているということは、そんなリーゼロッテの計画も無に帰したことを示す。教団は帝国として復活を果たし、連合と共にティール聖王国を滅ぼした。魔女はそこで、リーゼロッテの姿も見たのだろうか──?

 そのときエリクの頭に、魔女の言葉が浮かび上がった。

『──あなたがたのことは、私も分からないのです。お二人が私の元へ訪ねてくること自体、私が“見てきた”未来では有り得なかった』

 「過去」に一度も現れなかったエリク。そしてグギン教団に属していたニコが、この計画の行く末を変えられるかもしれない、と。

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