59.



 
 
 
 
 リーゼロッテは雪深い森の中で十歳を迎えた。

 陽が沈み始めた頃に急遽、幼い王女はダエグ王国へ行くことになった。馬車に揺られながらそっとカーテンを持ち上げると、馭者の持つ松明が降りしきる雪を煌めかせていた。先導する馬車にはリーゼロッテが苦手な叔父がいたが、彼は言葉どころか一瞥もくれない。詰まるところ自分の娘しか可愛くないのだ。ひたすらに我儘でしかないあの姉妹もリーゼロッテは苦手で、離宮に移されたことを少しだけ幸運に思っていた矢先、何の説明もなく夜の雪山に連行されているのだから不安も湧いてくる。

(……ここで殺されるのかな)

 幼いながら、王女は自分の立場をよく理解していた。崩御した先王の血を継ぐ唯一の姫、それがリーゼロッテである。それを見事に横から掠め取った叔父は、リーゼロッテを王位から遠ざけようと必死なのだ。

 この話はごく限られた人間にしか伝わっていないが、叔父がそこまで王女を嫌う理由は一つ。彼には姉妹の他にもう一人、子どもがいたと聞いた。どうにもそれが男児だったようで、次代の国王として期待されていたらしい。しかし男児は生まれて間もなく死んでしまった。王家の血を確かに引いていたはずなのに、先王は何故か「王家に相応しくない血筋」としてその子を殺したのだ。

 つまりは、そう。リーゼロッテは叔父にとって、死んだ息子の仇も同然。これからきっと、叔父はリーゼロッテに死んだ息子と同じ苦しみを与えようとしているのだろう。例えばこんな誰もいない山奥に放り出して、寒さと飢えを味わせながら死なせるとか。

 ──そうして連れて来られた森の中で、リーゼロッテは夜明けと共に信じられない光景を目にした。

 そこにいたのは紺藍の髪を持つ十代半ばの少年と、彼の後ろをちょこちょこと付いて行く、こちらは十歳にも満たない小柄な金髪の少女。何故かどちらも裸足だったが、二人はこちらに興味を向けることなく黙々と森の奥へと向かってしまう。少女が付いて行けずに躓いても、前を行く少年が振り返ることはない。リーゼロッテを含む一行が少々の戸惑いを露わにした瞬間、それは起きた。

 木々の間から何かがこちらに走ってくる。青い瞳がぎらりと光り、残像をそこに置いて行く。狼だとリーゼロッテが怯えた直後、目の前に影が立ち塞がった。邪魔だと言わんばかりに肩を押されたところで、ようやく紺藍の髪を認める。いつの間にここまで戻って来たのだろうと驚く暇もなく、少年は襲ってきた獣の頭を片手で鷲掴み、あろうことかそのまま握り潰してしまった。ぶし、と黒い血が飛び散り、すっかり硬直してしまったリーゼロッテの頬を汚す。

 その後、また別の狼が陰から飛び出した。すると今度は覚束ない足取りだった少女が狼に駆け寄り、両手で首根っこを掴んだかと思えば勢いよく木にぶつける。見た目からは考えられないほどの力で何度も狼を振り回した少女は、そうっと獣の顔を確認しては少年を仰ぐ。

 紺藍の髪の少年はじっと少女の狩りを見届けた後、やはり何も言わずに踵を返した。どうやら彼の真似をしているのか、少女は獣をずるずると引き摺ってその後を追っていく。静かで、それでいて衝撃的な光景を目の当たりにしたリーゼロッテは、暫し放心したままだった。

 その少年──エーベルハルトが自身の婚約者として紹介されたのは、それから僅か数刻後のことだ。森の奥に佇む不気味な実験施設の一室で、急に婚約関係になってしまった二人は立ち尽くす。彼はやはり無表情でリーゼロッテを見下ろし、外から帰るなり眠ってしまった金髪の少女を片手で抱え直す。

(……兄妹なのだろうか)

 不思議と、リーゼロッテは落ち着いていた。王族の結婚相手に何故このような少年が選ばれたのか、とか、そういう驕った考えは元から持ち合わせていない。ただこの少年が何者で、この施設が何のためにあって、自分がどういう目的で連れて来られたのか──それらについて知りたかった。

『エーベルハルト、カサンドラをこちらに』
『……』
『エーベルハルト』

 どこか厳しい声音で告げた施設の人間に、彼は緩慢な動きで少女を引き渡す。カサンドラという少女が部屋から連れ出される様を見送っていると、視界の端でエーベルハルトが壁に凭れ掛かった。リーゼロッテより幾つか年上というだけなのに、その仕草は随分と大人びて見える。

『さて、リーゼロッテ様。アンスルの姫である貴女様をこの者の妻とする理由を、ご説明いたしましょう』

 施設の人間がそう切り出したことで、リーゼロッテはようやく彼から視線を外すことが出来たのだった。



 ◇◇◇



「──……その後、私は叔父上に命じられて施設に通うようになりました。このイナムスの支配者となるエーベルハルト様の妻として、決して機嫌を損ねるような真似はするなと」

 十年ほど前の出来事を話し終えたリーゼロッテは、ランプに灯した火へ手を翳す。戯れに指先を動かせば、それに合わせて炎が揺らめく。千切れた火は部屋中を彷徨い、エリクの周囲をふわふわと漂う。まるで生きているようだとエリクが瞬きを繰り返していると、彼女は苦笑をこぼした。

「昔、こうしてカサンドラ様に……いえ、ニコに魔法を見せたときも驚いていました」
「……彼女とも親しかったんですか?」
「エーベルハルト様の傍にいると、自然と彼女にも接する機会が増えましたから。……本当は、話しかけてはいけないのですけどね」

 リーゼロッテは施設に通うにあたって、いくつかの禁止事項を言い渡された。一つは施設にいる子どもたちに関わらないこと。もしも彼らが獣に襲われていても助けてはならない、見過ごすようにと。もう一つは、よく婚約者のエーベルハルトにくっ付いている少女──ニコと関わり過ぎないことだ。

「ニコは元々、人懐こい性格の娘です。ずっと一人で施設に閉じ込められていたから、感情を抑えてしまってはいるけれど……」
「一人、で」

 エーベルハルトとニコは優れた“兵士”として、また擬似巨人として厳重に「管理」されていたとリーゼロッテは語る。二人は子どもたちとは別の一人部屋に入れられ、必要以上に他者と関わることを禁じられた。そればかりか言葉を覚える前に古代語を教え込まれ、教団の限られた人間としか会話が出来ないようにもなっていた。他の者たちも故意に少女を避けたり無視したり、怯えた目で逃げたりと──。

 そんな中で、ニコは子どもたちの中で誰よりも人懐こかったばかりに、寂しい思いをしていたことだろうと王女は語る。同じ境遇かつ誰からも害されることのないエーベルハルトだけが、少女にとって唯一関わってもいい人間だったのだ。リーゼロッテはそれを察していたから、人目を盗んでニコの部屋を訪れていたという。案の定ニコはそんな彼女に懐き、エーベルハルトと同じく「リーゼ」という愛称を口にする。

「その……エーベルハルトさんも、古代語しか話せないんですね」
「ええ。一応、聞き取ることは可能になったようですが」
「へ……?」

 リーゼロッテは店の一階で購入した焼き菓子を手に取り、どこか自嘲気味な笑みで告げた。

「……。私は施設を訪れるようになってから、“言いつけ”というものを尽く破るようになりまして。出会って早々、エーベルハルト様に現代語を教えました」

 思えば教団は無理な要求をしていたのだ。リーゼロッテを婚約者として宛がっておきながら、言葉を交わすことを禁じるとは。これでは不便極まりないとリーゼロッテは不満を覚え、またもやこっそりと彼に現代語を教えるようになったとか。真面目一辺倒な性格であるはずの自分が、どうしてこうも反抗心を燃やしていたのかは明白だと彼女は言う。


「──あの方と言葉を交わしたかったのです。……いつも暗いお顔をされている、あの方と」


 翠玉の瞳は呆れるような色を宿す一方、とても優しげな光を湛えていた。

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