56.






「ひどい目に遭った」

 部屋の片隅で崩れ落ちたカイは、ぜぇはぁと息を乱しつつ呟く。ゴールズたちに胴上げされ、更に揉みくちゃにされた彼は戦地を駆け抜けた後のような形相であった。苦笑混じりにその背を摩り、エリクは「まぁまぁ」と宥めておく。

「ところでカイ、もしかしてゴールズさんが雇い主……」
「違う違う、あの筋肉野郎どもは何ていうか、同僚みたいなやつだ」
「同僚?」

 当のゴールズたちは、カイが現れるなり大喜びして厨房へ向かってしまった。彼らが料理している姿は微笑ましくもあるが、出来ればあまり想像はしたくない。エリクと先生についても快く歓迎し、今日はこの家で泊まらせてくれるという。見た目は厳ついがとっても優しい人たちであることは承知済みなので、エリクは素直にその厚意に甘えることにしたのだった。

「俺の雇い主の……手先みたいなもんだと思ってる」
「て……手先」

 カイはようやく立ち直ったのか、大きく溜息をついてソファに腰を下ろした。かと思えば荷物を漁り、ごそごそと手を動かしては何かを引っ張り出す。現れたのは一本の小さなクレヨンだった。エリクの不思議がる視線を受けながら、彼はテーブルを押しのける。そうして床にクレヨンを押し付け、何かを描くのかと思いきや、急に彼は立ち上がった。

(……あれ、何か悪そうな顔してる)

 カイはにやつく頬を片手で押さえ込みながら、ソファの後ろにある壁にクレヨンを走らせる。勝手に落書きして大丈夫なのだろうかとエリクが心配する間にも、カイの手は迷いなく動いていく。

「カイ、それは……」

 やがて出来上がったのは、何重にも重なった大きな正円。古代語とは異なる不可解な文字の羅列──紛れもない魔法陣だった。まさかカイも魔法を扱えるのだろうか。エリクが驚きと期待を露わに立ち尽くしていると、陣を描き終えたカイが自慢げに胸を張った。

「ふふふ……驚いたかエリク、こう見えて俺も魔法使いの端くれでな。まあ南じゃカスほどにも使えないんだけど」
「へえ、じゃあお前の手首にあるそれも魔法陣だったのか」
「ぎゃー!? 親父さんいつ見たんだよ!?」
「さっき手袋外した時だな」

 温かいスープを啜りながら指摘した先生は、半笑いでカイの手首を指す。思わずエリクが興味津々にそこを凝視すると、カイは観念した様子で袖を捲った。露わになった彼の手首には、確かに小さな魔法陣がそれぞれ刻まれている。

「うわ……それ痛くないの?」
「使うとすげぇ痛い」

 物凄く落ち込んだ様子で答えたカイは、転じて手首をひらひらと振りながら続けた。

「ま、これも雇い主が施してくれたんだよ。南でも魔法が使えるようにってな」

 曰く、回数制限付きの護符のようなものだという。精霊のいない南イナムスで魔法を行使するときは、この特殊な護符を通じて無理やり精霊を呼び出すらしい。行使の際は激しい痛みを伴うため、使い時は慎重に見極めるようにと、厳しく言い含められたとカイは述べる。

「闘技場で牢にぶち込まれたときもこれに世話になってさ」
「あ……! だから一人で抜け出せたんだね」
「そういうこった」

 大きく肩を竦めて見せた彼は、「さて」と話を切り替えた。壁に描いた魔法陣に不備がないかどうか確かめた後、ソファを壁際にぐっと押し付ける。

「ということで今から雇い主の召喚を行います」
「え!?」
「いつでも呼べって言ってたし、まー大丈夫だろ!」

 何とも楽観的な発言に小さな不安を覚えたものの、カイは構うことなく魔法陣に右手を翳す。

 召喚──というのはもしかして、彼が以前に説明してくれた「転送魔法」とやらを使うのだろうか。対象を自分の元へ引き寄せたり、逆に魔法陣がある場所へ送ったりと便利な術だと聞いた。よもや間近でそんな魔法を見られるとは露にも思っていなかったエリクは、口を半開きにしたまま魔法陣を見詰める。

 突然、魔法陣が強く発光した。あまりの眩しさにエリクと先生が同時に顔を覆う傍ら、カイは右手を翳したまま瞬き一つせずに魔法陣を見据えている。翠玉色の瞳は軽く見開かれ、いつも饒舌な口が静かに呪文を唱え続ける。やがて一陣の風が吹き荒れた瞬間、部屋全体が白い閃光に包まれ──。


「うっ!?」


 どさっ、とソファの上に誰かが落ちる。光はぴたりと止み、エリクは突如として現れた見知らぬ人物に硬直した。外套を身に纏ったその人は腰を摩りながら、混乱した様子で壁の魔法陣を見上げ、勢いよくこちらを振り返る。

「カイ!!」
「うひゃあ」

 拍子にフードが外れ、露わになったのは明るい真朱の髪。華やかながら神聖な雰囲気すら感じさせる金の髪飾り、そして見覚えのある翠玉色の眼差し。眦を吊り上げていても気品を損なわない美しい女性の登場に、エリクはついつい先生と顔を見合わせる。

「転送の魔法陣を壁に描くなど……!」
「慌てたお顔が見たかったんで。お久しぶりっすね、リーゼロッテ様」

 エリクは絶句した。聞き間違いでなければカイは今、アンスル王国の王女の名前を出さなかっただろうか。ちらり、カイの横顔を窺ってみるが、そこに一国の姫に対する恭しさなどは欠片も見当たらない。寧ろ友達や家族と久々の再会を果たしたかのような──。

(……家族?)



 ▽▽▽



 カイの悪戯で空中に召喚されてしまったリーゼロッテは、彼をひと睨みしたものの、それ以上は取り乱すことなく外套を脱いだ。彼女が身に着けている衣服は勿論、仕草一つ一つが上品で洗練されており、ジャクリーンやオドレイとはまた違った高貴さを漂わせる。

 しかしエリクが一番驚いているのは、リーゼロッテがあの暑苦しさ満点の自警団諸君を目の当たりにしても動じないところだ。

「うおおお!? 姫様、いつこちらへ!?」
「つい今しがた。お久しぶりですね、皆さん。元気そうで何よりです」
「姫様もご健勝で……!!」

 ソファの周りはさぞ熱気に満ちているだろうに、中央で囲まれているリーゼロッテだけは涼しげに見える。穏やかな笑みなどは浮かべていないはずだが、自警団の者たちは恍惚とした表情で彼女を見上げていた。中には眩しそうに目を眇めている者までいる。

「姫様がいらっしゃるなら晩飯をもっと豪華にしねぇと!! お前ら、もう一回買い出し行くぞ!!」
「おう!!」

 ゴールズの掛け声によって、彼らはぞろぞろと外へと出て行ってしまった。勿論その間際、リーゼロッテに薄手の毛布と紅茶を献上することは忘れずに。

 騒々しさと共に熱気もいくらか収まった頃、しんと静まり返った部屋でリーゼロッテが溜息をつく。おもむろに髪飾りを外しては、ソファに少しだけ深く腰掛ける。淡く発光しているようにも見える翠玉色の双眸が、不意にエリクと先生に向けられた。

「カイ。そちらのお二人は」
「俺の友人とその親父さん。リーゼロッテ様、最近ダエグに行ってますよね。ちょっと付いて行かせてもらえないかなーって」

 カイの何とも軽いお願いの仕方に、エリクはぎょっとする。彼の言う「伝手」がリーゼロッテのことを指していたのだと気付き、冷や汗まで出てきてしまった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ、カイ。さすがに王女様に頼み事なんて」
「楽に国境超えるにはリーゼロッテ様に付いて行くのが手っ取り早いぜ? まあ目的地までは行けないかもしれないけど」
「──目的地とは?」

 こそこそと二人で話していると、見かねた王女が静かに尋ねてくる。意志の強さを感じさせる瞳に射抜かれ、エリクはしどろもどろになりながらも彼女に向き直った。

「……ダエグ王国の管轄下にある、実験施設です。そこにいる先生の、彼の娘を助けに行きたくて……どうかお力を貸していただけないでしょうか」

 先生を手で示し、正直に告げる。下手に隠し事をすれば訝しく思われるどころか、すぐに見抜かれて話の場自体がなくなるだろう。あまりに急すぎたとは言え、せっかくカイが設けてくれた機会をふいにするわけにはいくまいと、エリクは固唾を飲んで王女の反応を待った。

 リーゼロッテは表情一つ変えないまま、真っ直ぐにエリクを見据える。やがて翠玉の瞳が何かを探るように細められたかと思えば、その唇がようやく動いた。

「エリク」
「えっ」
「それはそちらの御仁の名ですか? それとも……あなたでしょうか」
「……ぼ、僕の名前です、ね」

 思えば名乗りもしないで不躾にも頼みごとを告げてしまっていたが、何故リーゼロッテがこちらの名を知っているのだろう。動揺と困惑を露わに硬直していれば、リーゼロッテはどこか納得した様子で頷き──。


「……話を聞きましょう。エリク殿」

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