54.








「──エリクがちょっと大声上げりゃ、ニコはすっ飛んでくるわけよ。湧いて出た公子様にびっくりしただけだってのにな」
「まぁ確かにあの坊ちゃんは神出鬼没な節があるしな」
「ちなみに俺が大声上げたら『こいつ大丈夫か?』みたいな顔するんだけど、おたくの娘さんの教育どうなってんの?」
「正しい反応じゃねぇか」
「何でそうなる!!」

 ここが極寒の雪山だろうがお構いなしに元気な二人に苦笑いを浮かべ、エリクは開けた丘の上に立った。先程まではずっと一面の銀世界だったわけだが、眼下にはようやく町の景色が広がり始めている。これなら半日と経たずに北イナムス──アンスル王国へ到達できそうだ。

 ノルドホルンの三大要塞を出発して早数日。傭兵は上手く誤魔化してくれているようだし、エリクたちも初日は調査班らしくあちらこちらを迂回していたため、リューベク王子の配下が執拗に監視してくるような事態にはならずに済んだ。どこにも聖王国軍の姿が見えなくなったことを確認したエリクたちは、急いで大山脈を登った。と言っても頂上まで行く必要は全くないので、北イナムスへ通じる道をそそくさと抜けた次第である。

「カイ、あの町は?」
「アンスルの最南端にある田舎だ。あそこが合流地点だぜ」
「雇い主さんはもう来てるのかな」
「あー……どうかな、最近は何かと忙しそうだったから」

 カイはここに至るまで、自身を雇っている人物の詳細を一切口にしなかった。ただ彼の口ぶりから察するに、雇用主がそれなりの身分を持っていることは確かだ。ついでに言えば、カイが雇用主から気に入られており、頻繁に依頼を任されているということも。今は“呪具”の回収を命じられている彼だが、以前は南北を行き来する怪しげな行商隊の潜入調査をしていたこともあったとか。だから彼は見知らぬ人だろうが身分が高かろうが、誰とでも仲良くなれるのかとエリクは納得したものだ。

「ま、連絡はすぐ出来るしよ。さっさと下りよう──ぜ?」

 気を取り直してカイが丘を下ろうとしたときだった。彼の足元に積もっていた雪がぱっくりと割れ、緩やかな丘ではなく切り立った崖の方へと傾いたのだ。

「カイ!」
「ぬおぁっ!?」

 咄嗟にエリクは彼の手を掴んで引き寄せたが、その反動で二人の位置が入れ替わってしまう。勢いよく崖に放り出されたエリクが最後に見たのは、先生とカイの青褪めた顔だった。



 ▽▽▽



 身体の節々に走る鈍痛と、全身を覆う冷気に意識が引き戻される。瞬きを繰り返しながら瞼を押し開くと、澄み切った青空が視界に広がった。雲一つない晴天を白い木々がじぐざぐに縁取り、鳥の群れが優雅にそこを通過する。ぼんやりとその景色を眺めていたエリクは、重たい動きで体を起こした。

「ったた……生きてる……」

 何とも危機感のない第一声に、彼は自嘲気味に唇を歪める。左腕は動くし、脚も痛みはあるが問題なさそうだ。雪に埋もれた下半身に力を込め、エリクはその場に立ち上がった。後ろを振り返ると、彼が斜面を滑り落ちてきた跡が綺麗に残っている。幸運にも柔らかな雪が衝撃を抑えてくれたのか、エリクが身に着けている衣服や荷物は全て無事だった。

「……。麓に下りた方が良いかな」

 崖から視線を外して反対側を見てみると、町の景色が先程よりも随分と近くなっている。はぐれた二人と無理に合流するより、あの町で待機した方が安全だろう。冷静な先生ならその辺りの判断も汲み取ってくれると信じて、エリクは町に向けて歩き出した。転落したおかげで何だか内臓の位置がおかしいような、少しの気持ち悪さに腹部を摩りつつ。



 ──足場に気を付けながら黙々と山を下り、日が傾きかけた頃。エリクは何とか無事に大山脈の麓へと到達し、胸を撫で下ろす。建ち並ぶ家屋から漏れる暖かな光に、これほど安堵したことはないだろう。崖から落ちて気絶した後、休みなく歩き続けた彼の足は既に悲鳴を上げている。宿屋があれば、そこで少し休ませてもらいたいところだったのだが。

 エリクは町に近付くと、何やら怒声が聞こえてくることに気が付いた。それだけでも物騒だというのに、加えて鞭を打つような不快な音まで聞き捉えてしまい、エリクは足早に町へ向かう。

 アーチ状の石橋を渡り、見えてきたのは不思議な街灯。民家の屋根よりも高くひょろりと伸びた柱の先端には、どうやって灯したのかは不明だが炎が燃え続けている。もしや魔法で灯しているのだろうかと首を傾げたところで、再び鞭を打つ音が響き渡った。慌てて視線と思考を引っ張り戻した先で、大柄な男が怒鳴り散らしている姿が見えた。

「この無礼者め! 私を誰だと思っている!?」

 分厚い毛皮を羽織った野性味あふれる男は、鞭を石畳に叩きつけて怒りを爆発させている。周囲にいる人々は恐怖に染まった顔で身を寄せ合い、その場で何をするわけでもなく固まっていた。彼らの異常な怯えっぷりを不審に思いながら、エリクは男の前に蹲っている二つの人影を見遣る。震えた声で何かを訴える若い女性が、恐らく息子であろう少年を庇うように抱き締めていた。

「も、申し訳ありません。どうか罰は私だけに……!」
「ふん、貴様もそのガキも同罪だ。躾のなっていない下民の教育も、私の役目だからなぁ?」


「──やめろ!!」


 男が鞭を振り上げた瞬間、エリクは思わず制止を叫んでいた。刹那、男が何か怯えたように体を震わせ、強張った顔でこちらを振り返る。男の妙な様子に気付くことなく、エリクは大股に近付いては気丈な態度で口を開いた。

「非武装の人間に鞭を振るうなんて、大の男がやることじゃないでしょう」
「……何者だ、貴様? 誰に口を聞いている……?」
「旅の者です。町に着いて早々、物騒な声が聞こえたので」

 「お前の身分など知らない」と暗に告げたエリクに、男はようやく思い出したかのように怒りを滲ませる。恐らくこの町を管理している人間だということぐらいは想像が付くが、それにしても横暴が過ぎるだろう。非力な母子が鞭で叩かれる様を黙って見ていることなど、エリクには出来なかった。

 領主とおぼしき男は鞭を両手で握り締め、凶悪な笑みを浮かべてエリクを見下ろした。

「そうかそうか、旅人殿。ならばここでの礼儀を教えてやろう──私の前ではまず跪け!」

 勢いよく振り上げられた鞭が蛇のようにしなり、エリク目掛けて襲い掛かる。反射的に左腕を持ち上げた直後、訪れる痛みを予期して身を強張らせた彼の耳に、場違いな大声が飛んできた。


「おおっと!! 凍った地面で足が滑ってしまったァ!!」


 わざとらしい説明口調で叫んだ人影は凄まじい速さで男へ衝突し、あろうことか弧を描いて吹っ飛ばしてしまった。その光景はさながら、闘牛にでも轢かれたのかと見まがうほどだ。エリクと傍にいた母子が唖然となる一方、特に滑った様子もなく仁王立ちをしている人物が豪快に笑う。

「いやーすまんすまん! 今のはちょうどお前が俺の進路に突っ立っていただけの事故だな! 大丈夫、俺はお前を咎めたり鞭打ったりしないぞ!」

 黒い眼帯を付けた筋骨隆々な彼は、領主の男よりも遥かに逞しく鍛えられた体を持っていた。背中は自分の二倍ほどあるのではなかろうかと、エリクが混乱した頭で考えていると、遠くまで吹っ飛ばされた男がぎこちない動きで起き上がる。骨でも折れてしまったのだろうか。

「く……ッわ、私に狼藉を働くなど」
「おうおう許してくれや兄さん、アイツ別に悪意があってぶつかったんじゃねぇんだよ」
「ひ!?」

 そこへいつの間にか集まって来たのは、眼帯の彼と同様に随分とガタイの良い集団だった。先程まで威勢の良かった領主の男はすっかり竦み上がり、傍目から見ると山賊に絡まれた一般市民と変わりない。何とも恐ろしい絵面にエリクが軽い同情すら覚えた頃、領主の男が捨て台詞を吐いて町の外へ逃げ出してしまう。

 一体何がどうなったのかとエリクが呆けていると、目の前にいた眼帯の男がこちらを振り返り、にかっと笑った。

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