53.





『リーゼロッテ様、こちらをカサンドラ様にお返しいただけますか』

 そう言って給仕から手渡されたのは、華奢なネックレスだった。これは何かと視線で問いかけると、年若い娘が二人で顔を見合わせる。

『カサンドラ様のお召し物に紛れておりまして』
『何故その場でお返ししなかったのです?』
『気が立っておられたので』

 平然と悪びれる様子もなく答えた彼女らに、リーゼロッテは溜息をついた。それを了承と取った給仕はそそくさと頭を下げ、持ち場に戻っていく。大方、彼女らはあの少女と必要以上に関わりたくないだけだろう。少女はそもそも言葉が分からないのだから、黙々と仕事をしている限りは何もしないと言うのに。

 少女の部屋に新しく取り付けられた扉は、ひどく簡素だった。何でも数日前、少女が金属製の蝶番ごと破壊してしまったそうな。どれだけ雁字搦めにしても容易く突破されることを悟ってか、木製の扉には小さな鍵穴しか備え付けられていない。リーゼロッテはそのドアノブをそっと捻り、中を覗き込む。寝台の上で眠るワンピース姿の少女は、どこぞの令嬢と言われても不思議ではないほど可憐だった。

「……」

 リーゼロッテはなるべく物音を立てぬよう寝台に近付き、先ほど受け取ったネックレスを一瞥する。……蝶の羽を象った、控えめながら品のある装飾だ。姿を消していたひと月の間に、誰かから貰ったのだろうか。言葉を解せない少女に、自分で買い物が出来るとは到底思えない。

 サイドテーブルに首飾りを置くついでに、リーゼロッテは毛布から飛び出した少女の手をそっと中に戻そうとしたのだが。

「!」

 ぎゅっと手を握られてしまい、彼女は硬直する。寝つきが悪いのは昔からだが、手を掴まれることなど一度もなかった。強い力を込められるわけでもなく、ただ温もりを求めて縋るような……。

「……カサンドラ様?」
「ん……」

 呼び掛けてみれば、すぐに瞼が動く。やはり眠りは浅いのかと、リーゼロッテは少しばかり表情を曇らせた。このひと月余りで少女に何かしらの変化を期待したのだが、髪の長さ以外に際立った部分は見受けられない。いや、誰の指示も仰ぐことなく自ら獣を狩ったことについては、思うところがあったのかもしれないが。

「……リーゼ?」

 大きな瑠璃色の瞳が開かれる。リーゼロッテは小さく頷きつつ、寝台の傍に片膝をついた。無論、握られた手は解かずに。

「おはようございます」
「……お……」
「え?」
「オハヨ……」

 柄にもなく目を瞬かせ、今しがた聞こえた言葉を脳内で反芻する。もしかしなくとも、少女はリーゼロッテの言葉を真似したのだろうか。今まで一度たりとも現代語など口にしなかった少女が、意味をぼんやりと理解しているような様子で。リーゼロッテの動揺をよそに、少女はむくりと体を起こしてしまう。眠そうに目を擦りつつ、サイドテーブルに置かれたネックレスを見つけては手を伸ばす。じっと銀細工を見詰めた後、少女はすっきりとした首にそれを掛け、器用に金具を留めてみせた。

「……大事な物なのですか?」
「?」
「その」

 本来、リーゼロッテは少女にこうして声を掛けることは許されていない。そもそも彼女には「巨人族の言語」である古代語など学ぶ機会が無かった上、少女もこちらの言葉を理解する兆しが見えなかったのだ。顔を合わせることはあれど、ただ無言で傍にいるだけ。しかし今は──。

 考えた末、少女が身に着けているネックレスを指差す。瑠璃色の瞳が下へ向けられ、ほっそりとした指先が蝶に触れる。

「エリク」
「……エリク?」

 少女はこくりと頷いた。察するにネックレスを貰った人物の名前だろうが、少女が随分と大切そうにネックレスを弄る姿に、リーゼロッテは思わず唖然となる。これは一体誰だろうか、と。あの凶暴な獣を身一つで屠る少女などそう何人もいる筈はないのだが、どうしても我が目を疑ってしまう。以前に見た少女は唇を開くことすらせず、特定の物に執着することもなかったから。

「……カサンドラ様」

 リーゼロッテは殆ど無意識のうちに部屋の奥へと向かい、衣装部屋へ続く扉を開いた。その種類の豊富さには度肝を抜かれたものの、これらを贈った人物を思い浮かべては顔を顰める。少しばかりの薄気味悪さを感じつつ衣服を漁り、ちょうど良さそうな青いワンピースを引っ張り出した。

「カサンドラ様、こちらを──!?」

 振り返ると、いつの間にか少女が背後まで付いて来ていた。ぎょっとしたリーゼロッテの翠玉色の瞳を凝視していた少女は、中途半端に差し出されているワンピースを手に取る。それは今着ているものよりも襟刳りが狭く、ボタンを上まで留めれば鎖骨の辺りまで隠れるだろう。

 リーゼロッテがそのワンピースを選んだ理由は言うまでもなく、そのネックレスを周囲の目から隠すためだった。ただの給仕や見張りの兵士なら問題はないが、少女の変化を目敏く見付ける輩が二名ほど彼女の頭に浮かんでいる。彼らはきっと少女からネックレスを奪うだろうし、何ならその場で千切ってしまうかもしれない。そんな非道な行いを黙って見ていられるほど、リーゼロッテは残酷な性格はしていなかった。

「……ん」

 少女が何の躊躇いもなくその場で着替え始めたので、リーゼロッテは慌てて扉に鍵を掛けたのだった。



 ▽▽▽



 結局リーゼロッテは無事に少女の着替えを見届け、そっと部屋を後にした。途中、何故か意味もなく抱き付かれたときは彫像の如く硬直してしまったが、それ以外は特に問題はなかった。

(変わったのは髪だけじゃなかったか)

 リーゼロッテの知る限り、以前より数十倍は人懐こくなっている。一体「エリク」とやらはどれだけ少女を甘やかしたのだろう。いや勿論、悪い意味ではなく良い意味で。しかしこちらも人と触れ合う機会は少なく、況してや抱擁をそつなく返せるほど愛情表現も豊かではない。背中くらいは摩ってやった方が良かっただろうかと、またしてもリーゼロッテは似合わぬ葛藤を抱えてしまう。

「…………たったひと月であれほど……」
「──おや、珍しい客だな」
「!!」

 ぞくりと背筋が凍る。元々ひんやりとした廊下の空気が更に冷え込んでいく。リーゼロッテは止まりかけた息をゆっくりと吐き出し、姿勢を正しつつ振り返った。

 そこに立っていたのは、真珠の髪を棚引かせる中性的な顔立ちの男。同色の瞳は柔らかく細められているが、宿る光はどこまでも冷たく不鮮明だ。ゆったりとした歩調で近付いてきた男に、リーゼロッテは静かに一礼した。

「お久しゅうございます、セヴェリ様」
「エーベルハルトに会いに来たのか。随分と時間が空いたな?」
「……従姉の婚約が決まりましたので、諸々の手伝いをしておりました」
「ああ、伯爵家の嫡男だったか? 祝辞を送らねばな」

 男──セヴェリはそこまで会話を進めてから、つと視線をこちらに移す。それだけでも心臓が圧迫されるような気分になると言うのに、彼は嗜虐的な色を乗せて笑うのだ。

「お前の従姉妹どもは何とも愚かだな。“生贄”は嫌だと駄々をこね、役目をお前に押し付け……自分はさっさと身を固めて」
「……」
「リーゼロッテ。何も臆することはない。お前は選ばれし強者だ、私と同様にな」

 意識を侵食する低い声は、廊下に木霊することなくリーゼロッテの耳にだけ囁かれる。含まれるは揺らぐことなき傲慢と確信。このような男と同列に立たされるなど、正直なところ願い下げだった。例えこの男が類稀なる力を有し、この北イナムスを掌握するほどの器量を持っていたとしてもだ。

「……。カサンドラが戻ったと聞いた。様子は?」
「先程お眠りになりました。獣を全て始末なさったそうで……」

 リーゼロッテの返答に、セヴェリは目を丸くしたかと思えば、声を上げて笑い出した。ようやく真珠の眼差しから解放され、リーゼロッテは彼の背中を見送る。心底愉快げな様子で肩を震わせていた彼は、少女の部屋へと爪先を向けながら告げたのだった。


「──健気なことだな」

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