52.





 □□□



 ──今日はひどい雪だ。

 数か月ぶりに踏み込んだ古の森は、相変わらず淀んだ空気を内包していた。突き刺すような冷たい風は、それを引き締めるどころかひたすらにかき乱し、背筋に悪寒を走らせる。何がそこまで人の不安を駆り立てるのかと言うと、まず真っ先に挙げられるのがその辺りをうろついている獣だろう。青く光る瞳は美しくも狂気を孕み、獲物の足を竦ませてしまう。

「……リーゼロッテ様。後方に遅れが……」
「……」
「リーゼロッテ様」

 震えた声。されど確かな苛立ちを含ませた騎士が、馬を隣につける。外套から目許だけを覗かせたリーゼロッテは、翠玉色の瞳をちらりと動かしては再び前を見据えた。

「ならば引き返しなさい。そもそも、今日は私一人でよいと伝えたはず」
「そうは行きませぬ! 貴女はご自分の立場をよく理解しておられないようだ。監視を外せば何をするか──」

 そのとき、騎士の姿が掻き消える。リーゼロッテは特に驚いた様子もなく隣を見遣り、誰も乗っていない鞍を一瞥した。森に入る前、大声は出すなと伝えたはずだが──溜息をつき、彼女はおもむろに手綱を引く。積雪に降り立つと同時に、坂の下から悲鳴が聞こえてきた。二頭の馬をその場に留まらせたリーゼロッテは、獣に襲われている騎士を見下ろす。

「ひ……っ!! やめ、やめろ、離れんか!! り、リーゼロッテ様!!」
「静かになさい」

 そう忠告してもなお騒ぎ立てる騎士の周りには、既に他の獣が集まってきていた。

(今日はやけに数が多い……)

 リーゼロッテは不審に思いながら、腰の細剣を引き抜いた。細やかな銀の装飾と真っ白な刃が煌めき、その切っ先を獣へと向ける。刹那、彼女の手首を中心に光が発せられ、水面を掻き回すようにして正円が描かれていく。非常にゆったりとして見えるその動きに反し、次の瞬間に放たれた雷は弩の如く獣へと降り注いだ。

「ひっ」

 雪の白と獣の赤が舞い上がり、後方からやって来た護衛団から悲鳴が漏れる。坂の下では放心状態の騎士がみっともなく震え、死に絶えた屍を見詰めていた。水を打ったように静まり返る空間で、リーゼロッテは細剣を鞘に納め、騎馬に跨っては彼らに告げる。

「あの者を引き上げなさい。それから先程も言ったが──騒がずに、森の外へ引き返すこと。怪我の手当てはそこで行うように」
「……」

 翠玉色の瞳が鋭く細められた瞬間、護衛団の者たちがごくりと唾を飲み込んで頷いた。こうなることが分かっていたから、この森には一人で行くと伝えたのに。何かが起きてからでないと、彼らはリーゼロッテの言うことを聞けないのだ。思わず漏れ出た溜息が聞こえぬよう、彼女はすぐに騎馬を走らせた。

 横殴りに降る雪の中、駆ける蹄の音が低く鳴る。ちらりと周囲を見渡せば、青い瞳を持つ凶暴な獣がそこらじゅうを歩いていた。やはり平素よりも数が多く、その全てが森を駆け抜けるリーゼロッテをじとりと目で追っている。──だが、この森にいる獣は「悲鳴を上げない者」には襲い掛からない。悲鳴を上げ、逃げ惑う者こそが彼らの獲物であり、確実に食らうことの出来る餌だから。

 ──この森では強者が生き残る。人も、獣も、区別などない。

 あの男はそう言っていた。あれは親切でも何でもなく、森に足を踏み入れるリーゼロッテに心得を告げただけだ。彼女がそう易々と獣の餌食にならないことなど承知の上だろうが、もしも食われるようなことになっても──あの男は少しも動じやしないだろう。転がる屍を一瞥した後、リーゼロッテの代わりを捜すだけだ。そうなれば誰が選ばれるのだろう? あの強情な従妹だろうか。多分、いや必ず泣いて嫌がることだろう。

「リーゼロッテ様、ようこそお越しくださいました」

 その薄暗い城は、いつ来ても不気味極まりない。迎えの者──と言っても城の前で待っていただけだが──を見つけ、リーゼロッテは馬を減速させる。鞍から飛び降り、一礼しようとしたところで、ふと小さな音を聞き捉えた。翠玉色の瞳が他所へ向いたことを悟ってか、真っ黒なローブを着た男が苦笑をこぼす。

「……申し訳ありません。少々騒がしくて」
「何かあったのですか」

 男は何も答えなかった。リーゼロッテの問いが聞こえなかったかのように、「ご案内いたします」と踵を返す。全く腑に落ちないが、ここの人間は決しては優しい部類ではない。世間話すら許されない窮屈な場所なのだ。リーゼロッテは騎馬を預け、静かに城の中へと踏み入った。

 屋内に入れば、ようやく寒さが和らぐ。外套のフードを外したリーゼロッテは、短く切り揃えた真朱の髪を軽く整える。陶器のような白い肌に触れる金の髪飾りは、羽や宝石で彩られた豪華な仕上がりでありながら、それは決して彼女の気分を明るくさせる要因にはなり得ない。ここに来る時は外してしまいたいほどだが、そういった軽率な行動は嫌でも周囲に悪く取られる。護衛団が傍にいなくとも、例えばこの黒づくめの男が彼らにぽろっと告げ口をするなんてことも有り得るだろう。

「こちらでございます」
「……? 入ってもよろしいのですか?」
「ええ。今はこのお部屋しかご用意できず……申し訳ありません」

 通されたのは見慣れぬ部屋だった。急いであつらえたのか、真新しいビロード張りのソファが中央には置かれ、同様に新品のテーブルが茶菓子と共に用意されている。出窓には魔法で保護したであろう花々が生けられ、薄暗い部屋に申し訳程度の華やかさを添えていた。

「それでは暫しお待ちを。すぐに閣下をお呼び──」

 そのとき、外から大きな剣戟の音が響き渡る。男が言葉をなくしたのと同時に、リーゼロッテは出窓の外を窺い──踵を返した。大股に部屋から出て行っても、男は引き留めることなく彼女を見送る。

 城の外へやってきたリーゼロッテの目に飛び込んだのは、雪深い景色に浮かぶ二人の人影だった。一人は小柄な、短い金髪の少女。彼女の持つ、あれは……雪かき用のスコップだろうか。持ち手が大きく曲がり、真っ赤に染まった鈍器を剣で軽々と受け止めているのは、リーゼロッテのよく知る長身の男だった。


「──エーベルハルト様」


 呼び掛けると、男が振り返る。背中まで伸びた紺藍の髪、褐色には届かぬ薄黒い肌、不自然に尖った耳。静寂を湛えた灰青の瞳と引き結ばれた唇は、相変わらず他を圧倒するような雰囲気を纏っていた。かと言って、リーゼロッテが彼に畏怖を覚えていたのは昔のことだ。躊躇いなく傍へ歩み寄った彼女は、いつの間にかその腕でぐったりとしている少女を見て目を丸くした。

「……まさか……」

 最後に見たときより随分と短くなってしまった金髪のせいで、リーゼロッテは最初それが誰なのか分からなかった。だが、その雪のように白く瑞々しい肌や、少々あどけない顔立ちを間近で見てようやく合点が行く。


「──……お戻りになってしまったのですか。カサンドラ様」


 ひと月ほど前、忽然とこの城から姿を消した少女が帰って来た。いや、連れ戻されたと言うべきなのだろうか。リーゼロッテは少女を抱き止めている男を、そっと窺い見る。彼は言葉を返すことも、溜息をつくこともなく、手慣れた仕草で少女を肩に担いだ。そのまま城の方へと歩き出した彼の背を一瞥し、地面に落ちた真っ赤なスコップを見遣る。

(もしやカサンドラ様は獣を狩って……?)

 だから城の者たちは、慌てて新しい獣を調達したのだろうか。あの少女が、獣を皆殺しにしてしまったから──。

「リーゼ」
「!」

 弾かれるように顔を上げると、扉の前で彼がこちらを振り返っていた。肩に担がれた少女は、眠ったままその衣服にしがみつく。二度と見ることはないと期待していたその姿に、リーゼロッテは複雑な思いと共に歩を進めたのだった。

>>

back

inserted by FC2 system