51.





『……ああ、そう……』

 王宮の一室でとんでもなく気の抜けた返事をしたセリアに、フランツは大袈裟に肩を落とした。しかしそれも束の間、彼は笑顔を浮かべつつも何やら必死な様子で言い募る。

『待ってくださいセリア、もう少し寂しがってください。いえ寂しがらずとも“さっさと死んで来い”ぐらいの可愛い嫌味ぐらい言って欲しいです』
『相変わらず気持ち悪いわね。それ全く可愛くないでしょ』
『あ、その調子です!』

 ぺしっと頬を張ったところで、セリアは溜息をつく。ちょっと苛ついたから叩いてしまったが、一体どう反応すれば良いというのだ。聞けば、のっぴきならない事情で聖王国各地への派兵が決まり、何故か騎士ではないフランツが皇太子の軍に同行することになったという。派兵という物騒な単語に馴染みがないのは勿論、聖都に来てからずっと蚊帳の外であるセリアには、何が何やらさっぱり把握できていない。それを承知の上で「もっと寂しがって」と呑気な要求をしてくる婚約者を見れば、腹が立つのも仕方がないというか。

『……派兵って、戦でも始まるの?』
『いえいえ、そういうわけではないのですよ。ただ少々危険なことに変わりはないので、セリアは離宮の方へ避難してください』
『ミラージュさんも?』
『ええ。彼女のこと、よろしくお願いしますね』

 頬を赤く腫らしておきながらも笑顔を絶やさないフランツは、すらすらと説明しては有無を言わさぬ口調で締め括る。少しの沈黙を経て、セリアがいろいろと確認事項を述べようとしたときだった。

『あ、エリク殿なら心配いりませんよ』
『え?』
『バルドル殿もカイ殿もいらっしゃいますし、無茶はしないでしょう』
『ええ』

 再び沈黙。すると珍しくフランツの笑顔が弛み、「あれ?」といった様子で首を傾げた。セリアからしてみれば、何故いきなりそんなことを言ったのだろうという気分である。彼女が聞きたかったのは離宮での勝手な行動は控えた方が良いのか、派兵がどれくらいまで続くのか、そもそもお前は戦えるのかとか、そういうことだった。

『……エリク殿が心配ではないのですか?』
『心配よ。でも、ここであなたに聞いても意味ないじゃない』

 それに──エリクはもう、町にいた頃とは違う。彼は学び舎の子どもたちと戯れる教師ではなく、大切な家族のために奮闘する強い人だ。何かと理由をつけて現実から目を逸らしてばかりの自分とは、違う。少し前、エリクから北イナムスへ向かうと告げられたとき、まざまざとそれを感じたのだ。

 エリクは右腕を失っても、昔からそれに甘んじることを良しとしなかった。周りから過剰に気を遣われることに、少し寂しそうな顔すら浮かべていた。だと言うのにセリアはそれを見ないようにして、「厚意」と称して彼の傍に付きまとっていたに過ぎない。だって彼を手放したくなかった。いつだって自分に優しく微笑みかけてくれる彼を。

 ──目が覚めたような気分だ。自分は決してエリクの意思を尊重していなかったのだと。

 ニコの元へ行きたいと言った彼の瞳が、「邪魔をしないで欲しい」と言っていたから。勿論彼はそんなつもりは微塵もないだろうし、幼馴染の心配を無下にするような人ではない。だからこそセリアには堪えた。

『……。目は口ほどに、って言うでしょ』

 セリアの独り言に、目の前にいる婚約者はどこか間の抜けた表情をしている。いつもの似非紳士ぶりは何処へ行ったのだ。憎たらしい笑顔を見ていれば、少しは気が晴れるかもしれないのに。そんな人任せなことを考えては頭を振り、彼女は踵を返した。

『分かったわ。ミラージュさんと一緒に離宮で大人しくしてる』
『……セリア』
『ああ、オドレイさまからお茶会の誘いを頂いたんだった。後で返事』
『セリア、少し時間をいただきたい』

 手首を掴まれたかと思えば、そのまま後ろから抱き寄せられる。初めて受けた抱擁に驚き、セリアは思わず硬直した。振り返ろうとするも、視界を大きな手に塞がれて叶わない。耳元では静かな呼吸が聞こえ、やがて大きく吐き出される。

『すみません。まだ正面から抱き締めるわけにはいきませんので、このまま』
『は……?』

『──セリア。これから先、何が起きても私を信じて欲しい。私は必ずあなたの元に戻ります。私は決して、あなたを一人にはしない』

 それはまるで、神に捧げる誓いだった。急に何を言い出すのかと混乱する一方、抱き締める腕が切実さを込めて強められるのを知って羞恥を覚える。

『付け入るような真似はしたくない、と言いつつ隙を窺っていたのも事実ですので、この際言い訳はしませんが……』
『……な、何?』
『私は、貴女にそのようなお顔はさせないと誓います』

 セリアはその言葉で、ようやく自分が泣く寸前のような顔をしていることに気付いた。だからフランツが妙な顔でこちらを見詰めていたのかと、今更ながら落ち着かない気分になる。と同時に、今まで故意に見ないようにしてきた彼が、自分の“結婚相手”であることを初めて認識した。

『……セリア、私の可愛い人。暫しの間、どうか健やかに』

 囁かれた別れの挨拶に、セリアは唇を噛むばかりで応じることが出来なかった。ただ彼の腕にそっと触れて、無事を祈ることしか。それだけでも嬉しそうに笑った彼の表情を、こちらから窺い知ることはなく。



 ▽▽▽



 皇太子アーネストは蒼穹の騎士団の一部を率い、リボー伯爵領へと出発した。皇太子の軍には近衛騎士のブラッドや、同騎士団所属の“聖女”ジャクリーン、そして次期聖王の右腕と噂されるフランツなどが同行することとなった。人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、邪教徒がイナムス大陸に湧き出ているという噂は既に聖都に蔓延しており、此度の派兵がその鎮圧であることは民も容易に想像がついたのだろう。溢れんばかりの歓声と共に皇太子を見送る人々の中で、セリアは浮かない顔のまま溜息をつく。

 しかしながら隣で外套を目深に被り、自分以上に青褪めた表情で騎士団を見送るミラージュを見ては、いろいろと憂鬱な気分が薄らいだ。

「ミラージュさん、大丈夫ですか? 顔色が」
「え……あ、ご、ごめんなさい。こんなに賑やかな場所、慣れてなくて……」

 苦笑いを浮かべたミラージュの、黄昏時の景色を閉じ込めたかのような瞳が細められる。見るからに病弱そうな真っ白な肌と、それを際立たせるような黒髪。数日前に医務室で初めて顔を合わせたときよりはマシだが、彼女の顔色は常に悪いのだろうか。

「あの、セリア様」
「はい?」
「フランツ様は、何か仰っていましたか……?」
「え?」

 思わぬ質問に呆けてしまうと、ミラージュが慌てたように首を振る。両手まで一緒に動かすものだから、何とも騒がしい仕草になっていた。

「ごめんなさい、な、何でもありません。お二人はその、こ、婚約者だそうですね」
「……ええ、まあ……」

 やはり魔女は世間話に慣れていないのか、それっきり困ったように「えっと」と冷や汗を流している。その姿は何となく、気まずそうにしている幼馴染と重なってしまい、セリアはからかうように笑った。

「ミラージュさんは皇太子さまを袖にしたって聞きましたよ。凄いですね」
「へ!? そ、それは誤解ですっ、あのときはアーネスト様とお話しするのが嫌だっただけで」
「フォローになってないですよ」
「あぅ……っ」

 大いに反省はしているようで、ミラージュは心底困った様子で顔を覆ってしまった。──正直に言うと、彼女が医務室で皇太子に迫られているところは意図せず目撃していたのだが、どこまで突っ込んで良いのかは分からない。どうやらこの手の話は苦手そうなので、早めに切り上げるに越したことはないけれど。

 賑やかな観衆を一瞥し、セリアは背後に聳え立つ白亜の宮殿を振り返った。

「……。ミラージュさんって、魔女……なんですよね?」
「え、は、はい」
「何か、占いとかするんですか」
「占い……ええと……それに近いことなら……」

 魔女の歯切れの悪い答えを聞きながら、彼女は「例えば」と口にする。

「未来のことが分かったり?」
「っえ」
「例えばです。……未来が分かってたら、ちょっとは辛い気持ちも減ったのかなって」

 ミラージュが恐る恐る顔を上げ、遠慮がちな眼差しを注ぐ。どこか気遣うような表情を浮かべた後、魔女は頭を振った。

「いえ……未来など知らない方が良い」
「!」
「知ればそれを変えたいと願うのが人です。望む結末を得られなかったときの辛さと虚しさは、耐えがたいほどに大きいから」

 苦笑をこぼした魔女を、セリアは暫し茫然と見つめ返していた。魔女の言葉はひどく重たくて、逆剥けた心に不思議と滲んでいく。こちらの事情など話していないのは勿論、今の言葉はセリアに向けたというよりは──ミラージュ自身に向けた言葉に聞こえた。

「──ですから私も、“今”を生きようとしているところです」

 陰るばかりだった黄昏の瞳に、陽の光が射し込む。今にも崩れそうな笑顔だと言うのに、彼女はどんな花よりも美しかった。

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