47.






 ぱちぱちと音を立てて燃える暖炉の火は、暗い室内にぼんやりと橙色を滲ませる。誰もいない談話室で一人、その揺らめく炎の先を追っていたバルドルは、安楽椅子に深く凭れ掛かった。

『ニコの夢見が悪い日は一緒にいただけで……!』

 エリクの言葉を頭の中で反芻しては、知らずのうちに溜息が出る。

 あの少女を実験施設から連れ出したのは、今から数か月ほど前。グギン教団の存在まではさすがに知らなかったものの、北方諸国連合があの施設に関わっていることならばおぼろげに把握していた。多くの罪なき子どもたちをまるでラットのように扱う、倫理観が抜け落ちたあの場所は至極気分が悪かった。そして自分の娘かもしれない──亡き妻とそっくりな少女も同じ扱いを受けていたのだと思うと、体裁も忘れて泣き喚いてしまいそうだ。

 だから迷いはなかった。何度も何度もニコと言葉を交わし、施設の外へ行こうと説得した。外とは何処か、そこに何があるのか、フィルフィリはいるかとか、少女の口から飛び出す疑問はてんで呑気なものばかりだった。薄々分かってはいたものの、少女は施設の敷地外に出たことが殆どなかったのだ。薄暗い部屋で目覚め、簡素な食事を取り、決められた時間に外へ出ては凶暴な獣を狩る。凡そ、年頃の少年少女に強いる生活ではない。しかしバルドルはその異常な暮らしを自覚させることは後回しに、とにかく少女の質問に答えたのだ。

『外は海も川も山もあって綺麗だし、何より暖かい陽射しがあるし──……フィルフィリってのは何だ?』

 うろ覚えな古代語で施設の外を語っていけば、ニコは段々と興味を持ち始めたようで、バルドルは必死に今まで見てきたものを片端から教えてやった。拾った枝を積雪に軽く突き刺し、歪な一対の羽を描いては「フィルフィリ」と指差した少女の横顔が、珍しく楽しそうな色を宿していたことを不思議に思いながら。

 そうして少女は、バルドルと共に施設を逃げ出した。下山途中、何度も落ち着きなく後ろを気にしていたニコだったが、麓へ近付けば次第にそれも落ち着いていく。木の上でひょろりと佇む大きな鳥に目を丸くしたり、凍った川を覗き込んでは恐る恐る触れてみたり。時には宿屋で居合わせた子どもたちと一緒に雪滑りをしたり、夜空の極光を飽くことなく眺めていたりと、とにかくニコは好奇心が強い子だった。言動に少々幼い面はあれど、平凡な娘と何ら変わらぬ反応を示すニコの様子に、バルドルは浅はかにも安心していた。

『……ニコ?』

 南北を隔てる大山脈に差し掛かった頃、静かな夜にそれは起きた。焚火の傍でぐっすりと眠っていたはずのニコが、突如として呻き声を漏らす。胸を喘がせ、苦しげに体を俯せにしては大きく咳き込む。そうして喉を掻きむしる少女の姿に驚愕し、バルドルは慌てて呼び掛けた。

『ニコっ、起きろ! ニコ……!!』

 ここまでの道中で何か深刻な病でも貰ってしまったのかと、最初は疑った。しかし思い当たる症状をいくつか挙げてみても、その兆候など一つも見当たらなかったことは勿論、身体にも痣や湿疹のような異変はない。一体何が、とバルドルが更なる焦りを浮かべたとき、少女が思わぬ行動に出た。

 ニコは呻きながら自身の長い金髪の先を掴み、両手で力任せに引っ張る。ぶちりと音を立てて千切れた毛束に戦慄したのも束の間、少女は追い立てられるように髪を払ったり抜こうとするのだ。バルドルは非常に躊躇ったものの、暴れる少女を押さえ込みながら髪をナイフで切り落とした。

『う……』

 まるで男児のように短くなってしまった髪にバルドルが眉を顰めた直後、ニコの瞼がうっすらと開く。すっかり青褪めた顔で辺りを確認した少女は、バルドルの悲痛な表情を認めてはゆっくりと息を吐いた。その姿はほっとしたような、何かから逃げ切った後のような──。

 その後バルドルは、呆けている少女に何度も謝った。昔、妻に言われたのだ。例え身分があろうがなかろうが、髪は女性の命なのだと。ニコが大きくなったら、うんと綺麗に伸ばして手入れしてやるのが夢なのだと。もはや叶わぬ過去のこと、それもニコのために取った行動とは言え、罪悪感と後悔が彼の胸を深く抉っていた。

 しかしニコはそれ以降も、数日おきに魘されるようになった。なかなか寝付けずに夜を明かすことが増え、日中は眠そうに目を擦りながらバルドルの後を付いてくる。無論、ニコを放っておけなかったバルドルも寝不足状態で何とか下山した。そして──そこで待ち構えていた施設の追手を見て、死を覚悟したものだ。あのときの記憶は曖昧で、致命傷を負いながらもニコを連れて必死に逃げ続けた。文字通り死に物狂いで南イナムスのノルドホルン領に入るや否や、追手はぱったりと途絶えたのだったか。

「……はぁ……」

 回想を終えたバルドルは、片手で目許を覆った。

 エリク曰く、ニコは学び舎を出発した数日後、苦しげな様子で魘されていたという。ただバルドルの知る事情と違うのは、エリクと一緒ならば少女は何処でも熟睡できるということ。つまり何度か悪夢を見て飛び起きる日はあったものの、初めて魘されたときのようなひどい状態にはなり得なかったらしい。その代わりと言わんばかりに襲来したのが、ダエグ王国の王が遣わしたという黄金の蝶だったわけだが。

 ──彼女が何をしたと言うのだ。

 先見の魔女によれば、ニコはそう遠くない未来で復活するグギン帝国の幹部となり、皇帝と共にティール聖王国を攻め落とす。そこでは何百何千もの命が奪い奪われ、少女の手は獣ではなく人の血で染まるのだろう。巨人族のミグスを身体に宿す人間は、正式な手順を踏んだ共鳴者であっても力に呑まれる恐れがある。大量の人を殺めることで共鳴者は理性を擦り減らし、果てには自我を失い手当たり次第に血を求めるようになっていく──二千年前、力の限り暴れ回った巨人族と同じように。先日アーネストが口にした、ミグスを直接食して力を得る“禁忌”を犯した者は、大半がその状態に陥って自ら破滅の道を辿ったそうだ。

 だが、バルドルの衝動的な行いによって、最悪の未来は変化の兆しを見せているとも魔女は言った。もしかしたらバルドルは幾度となく繰り返された「過去」でも、魔女の与り知らぬところで娘を助けるべく動いていたのかもしれない。それが成功したか否かは分からないが──少なくとも、エリクとニコが揃って魔女の元を訪ねたのは、この「未来」が初めてだ。

「……ニコ、待ってろ」

 例え彼女が自分の娘でなくとも、もはや決心は揺るがなかった。守るつもりだったエリクまで巻き込んでしまったのだから、今更引き返すことも出来ない。否、そんなことをしたらエリクに嫌われてしまいそうだ。“自分のために”ニコと会おうとしている、かけがえのない息子に。



『……だれ? おじさん』



 もう、あんな虚ろな紅緋の瞳は見たくないのだ。

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