48.






 ぼろ布を纏った少年が幌馬車に揺られて辿り着いたのは、曇天を背景に佇む寂れた教会だった。かじかんだ手足を小さく折り畳んで蹲っていると、建物の扉がそっと開かれる。目尻の垂れ下がった老人は幌馬車へ歩み寄り、馭者の男といくつか言葉を交わす。その結果、更に目尻を下げることになった老人は深く頷き、荷台にいた少年の元へやって来た。

『よく来たね。疲れたろう』

 そっと頭を撫でられたものの、冷え切った心は凝り固まったまま。引き結んだ青い唇が震え、瞳には怯えが混じる。老人はそんな少年の様子を哀れみ、緩慢な動きで両手を広げた。優しく抱き竦められた少年がじっとしていると、ここまで連れて来てくれた若い馭者が静かに口を開く。

『……じゃあ神父様、そいつは頼んだぜ』
『ああ。ありがとう、旅の方。“始祖”様のご加護があらんことを』
『あー……残念ながら俺は巨人も精霊も信仰してないんだがな……まぁ良いか。おい坊主』

 呼び掛けに視線のみで応じれば、若者は唇の端を吊り上げて笑った。

『まずは飯食って寝ることだ。そんで起きたらお日様を拝んで、また昼寝でもしとけ』

 何ともぐうたらな助言をした若者は、少年の頭を雑に撫でてから馭者台に上る。そのまま手綱を打ち付けようとした若者だったが、ふと思い出したように瞳を寄越した。目深に被った外套の奥から覗く、白目と黒目の区別があいまいな双眸。こちらが見えているのかも定かではないが、気さくな笑みはやはり少年を射抜いている。


『──大丈夫さ。だいぶ遠回りしたからな。“お前を脅かす奴ら”はもう遠くへ行ったよ』


 不思議な若者が操る幌馬車を見送り、少年は神父と共に教会の中へと足を踏み入れる。そこはとても静かで、誰の悲鳴も、怒号も、不愉快な音はひとつも聞こえなかった。恐る恐る周りを観察していた少年は、やがて美しい彫像の前に連れて来られる。この南イナムスで信仰される原初の巨人──“始祖”と呼ばれている創造神の一柱だ。

 少年は何の感慨もなく、無慈悲で、誰も助けてはくれない無能な神を見詰めたのだった。



 ◇◇◇



 リューベクが治めるノルドホルン領が目前に迫ったある日、急な雨によって行軍は中断を余儀なくされた。この付近は地盤が緩く土砂崩れが起きやすいとされ、それほど強い雨でなくとも用心しなければならないのだ。立ち寄った小さな町で馬を休める傍ら、リューベクは近辺の河川が万一にも氾濫しないよう少数ながら兵を割いた。そんな第一王子の心遣いに感謝しつつも畏れ多さの方が勝ったのか、若い男は我先にと土嚢の積み上げを手伝いに向かったのだった。

 雨脚が強まる前に作業は一段落し、微力ながら兵士らを手伝っていたエリクが宿屋へ戻ろうとしたときだ。路地の奥にひっそりと建つ、人気のない廃教会が目に留まったのは。気付けば彼はそちらへ爪先を向け、ざあざあと降る雨粒を後ろに、暫し物思いに耽っていた。この町に来たのは初めてだが、教会という建物には少々馴染みがある。

「おーい、エリク! どうした?」
「カイ」

 ばしゃばしゃと水溜まりを蹴りながら、カイが駆け寄ってくる。どうやら路地裏へ向かうエリクの後を追って来たようだ。傍までやって来た彼は廃れた教会を仰ぎ、中をぐるりと見回しつつ首を傾げる。

「何だ? 誰もいないな」
「小さな町だからね。前任の司祭が亡くなって……管理する人がいないのかも」
「はーん……それで今や野良猫の住処ってか」

 にゃー、と何処からともなく鳴き声が返ってきた。妙にタイミングが良いなとエリクが笑っていると、同様に一頻り笑ったカイは「で?」と大きく伸びをする。

「どうしてお前は教会なんぞ眺めてたんだ?」
「ん、ああ……昔、こんな感じの小さな教会でお世話になったことがあるんだ。一、二年ぐらいだけどね」

 カイは伸びをした姿勢のまま瞬きを繰り返し、合点が行ったように両手を下ろした。

「もしかしてお前がいた孤児院ってのが……」
「そうそう。先生が引き取ってくれるまでは、そこの神父様と一緒に暮らしてた」

 教会と孤児院を兼ねていた老齢の神父は、見た目通りとても優しい人だった。カイは少し驚くかもしれないが、当時三歳かそこらだったエリクは無愛想極まりなくて、最初は甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる神父が鬱陶しかった。けれど神父の懐は海のように広く、ささくれ立ったエリクの心をゆっくりと癒してくれた。先生が教会を訪れる頃、多少なりとも人と言葉を交わせるまでに至ったのも神父のおかげだろう。ついでに今、エリクが心優しい青年に成長しているのも、きっと。

「……。僕が生まれたのは、聖都から南東に……どれくらいかな。海に面した町で、今はもう無いんだけど」
「無い?」
「賊に焼かれてしまった。生き残ったのは僕一人だけだ」

 カイが息を呑む。弾かれるように顔をこちらへ向けた彼に、エリクは苦笑を滲ませた。

 既に心の傷は癒えたものの、やはり当時の記憶は生々しく残ったままだ。おぼろげな両親の顔が醜く歪み、見慣れた家が焼け落ちていく。賊は各々の携えた武器を存分に振るい、ただ黙々と皆を殺して回った。引っ切り無しに上がる悲鳴と断末魔から耳を塞ぎ、少年は両親の言いつけ通り狭い物置に身を隠す。やがて途方もない恐怖に耐えかね気を失い、次に目を覚ました頃には全てが終わっていた。

 そう、全てが。

 屍で溢れた町を彷徨い歩きながら、知っている名前を小さく呼び続ける。そうして町の出口へ辿り着いたときには、涙も声も枯れてしまっていた。あの日の孤独と恐怖こそが、絶望というものだったのだろう。しかし、萎れた人形のように崩れ落ちた少年は、意外にもすぐに抱き起こされる。

『──坊主。しっかりしな』

 不可解な双眸を持つ若者は、少年を幌馬車に乗せては一人で町へ向かった。若者は暫くして再び戻って来ると、溜息交じりに頭を振る。

『待たせて悪かったな。一応確認してみたが、お前以外は誰も生きてないみたいだ』

 現実をまざまざと知らしめる言葉に、少年は思わず眦を吊り上げそうになった。だが不思議と怒りは膨れ上がることなく、それどころか急激に萎んでいく。ひたすらに息を殺し、自分一人だけ助かってしまったことが妙に情けなくて、悲しくて。もしも両親と共に物置に隠れていたら。近所に暮らしていた子どもたちを、一人でも匿ってやることが出来ていたら。結果はほんの少しでも変わっていただろうか──でも、今更そんなことを考えても仕方がないと分かっていた。皆、死んだのだから。

 エリクは暗い廃教会の内部を眺めながら、短く息をついた。

「……その人が僕を教会まで連れて行ってくれたんだ。カイみたいによく喋る人だったよ」
「お前それ褒めてないな?」
「どうだろう」

 肩を揺らして笑うエリクを、カイは胡乱な目付きで一瞥する。しかしエリクがそこまで思い詰めていないことを知ってか、少しだけ安堵した様子で扉に凭れ掛かった。

「しかしお前、ほんと散々だな。教会で親父さんに引き取られた後、あの獣に右腕食われて……って」

 ふと、カイは眉根を寄せて虚空を見詰める。何かを計算するように指を折っては、顰め面のまま口を開いた。

「親父さん、もしかして家族を捜して教会まで行き着いたのか……?」
「……多分、そうだと思うよ」

 先生は妻子の行方を捜すために、故郷の町から川を下り、近辺の人里を訪ねて回っていたのだろう。残念ながら海沿いまで行っても有益な情報は得られず、失意の中でふらりと教会へ立ち寄った。そこで神父からエリクの境遇を聞き、引き取ることを決めてくれたのだ。

「確かに散々だった。先生の家に行っても暫くは無愛想で、打ち解けたら右腕を失くして、また少しぎくしゃくして」

 でも、とエリクは口元に笑みを刻んだまま目を伏せる。

「……多分、きっと。僕が歩む道はこれからも、こんな感じなんだと思う。今も決して穏やかとは言えないだろ?」
「まあな。でもまさかそこで開き直るとは思わなかったけどな」

 幼い頃から続く不幸に、自らを疫病神のような目で見ていた時期も勿論あった。けれど──それらが重なったからこそ「今」があるのだろうと思う。「過去」を繰り返しているミラージュと言葉を交わしたことで、一層その考えが強まったのは事実だった。つまり。


「──あの男の人や神父様、先生にカイ……それにニコと出逢えたのも、散々な過去がもたらした結果なんだろうなって」


 そう考えるだけで過去に感じた恐怖が薄れ、陰鬱とした気分も綺麗に流されていく。自分は意外にも能天気なのかもしれないと、エリクは自嘲した。

「……。なるほどな? 取り敢えず下手な同情も心配もいらねーぞって言いたいんだな?」
「はは、そうだね。辛気臭い話してごめんよ」
「ま、聞いたのは俺だし」

 言いつつ片手を差し出され、エリクはきょとんとしてしまう。見れば、カイがにやりと笑みを浮かべていた。

「正直に白状すると、お前はもっと女々しい奴だと思ってた」
「う……っ」
「けどやっぱ、俺より肝が据わってるのは確かだ。──さっさとあの寝坊娘、助けに行こうぜ」

 一瞬だけ呆けてしまったエリクは、噴き出すようにして笑い、友人の手を力強く握ったのだった。

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