45.







 全身が張り裂けそうな痛みに襲われたのは、空腹に耐えかねてソレを飲み込んだ後だった。目が焼けるように熱い。喉は砂を食べたように渇き、ざらつき。恐ろしいほどの怒りと憎しみが腹から湧いてくる。己が何に怒り、何を憎んだのかも分からぬまま、次第に激昂は過ぎ去っていく。

 誰かの呼ぶ声が聞こえた。温かな腕が力強く包み込み、暴れる手足ごと抱き竦める。その力はあまりに強く、抗えないほどに優しかった。痛みをやり過ごし、熱に魘されながら微睡に落ちた意識は、どこまでも濁ったまま。

『──起きたか』

 目を覚ましたとき、男は一言だけ呟いて立ち去った。重い扉が閉ざされれば、そこがいつもの部屋であることに気が付く。薄暗い、簡素な松明だけで照らされた牢獄のような部屋。誰もいない空間はどうしても苦手だった。落ち着かない気分で冷たい毛布に潜り、ぼさぼさの髪を手のひらで押しのけたとき。

『このような場所に置いているのか。まるで囚人だな』
『せ、セヴェリ様っ、勝手に入ってはいけませんよ……!』

 知らない声が部屋に入ってきた。しかし毛布から顔を覗かせる元気もなく、再び訪れた空腹を紛らわせようと目を瞑る。じっと蹲っていると、近くに人の気配を感じた。誰かに見られている。居心地の悪さと共に手足を引っ込めようとすると、その足首を掴まれて外へと引っ張り出された。

『!』
『これか? 例の娘は』
『んー……?』

 髪を無造作に払われたかと思えば、白い手に顎を掴まれる。その指先が耳に触れた途端、ぞっと肌が粟立つ。唸り声と共に手を叩き落としてしまうと、「お前!」と離れたところから怒声が飛んできた。

『セヴェリ様に無礼を働くとは……!』
『黙れ。……大人しいと聞いたが、どうやら気が立っているようだな』

 今度は伸ばし放しの金髪を掬われ、そこでようやく彼の顔を見た。光沢のある真珠色の長髪、同色の瞳は穏やかながらも底冷えする光を湛えていた。唇を吊り上げただけの笑みは、ひとつも表情を変えないあの男よりも冷酷に思える。


『また会おう。私の“つがい”よ』



 ▽▽▽



 鏡面に映る尖った耳。昔と比べて随分と伸びた髪。寝ぼけ眼に袖を通した衣服は、いつもの簡素なものと違って生地が硬い。動きづらさに頭を振っていれば、部屋の扉が開かれた。

 甲冑を身に纏った兵士の後に続き、訳も分からず雪を踏みしめる。遠くから子どもらの悲鳴が聞こえた。今日は獣を狩らないのだろうかと、億劫な動きで白い森に視線を巡らせる。

『スターフ』

 兵士の言葉に足を止めれば、心なしか引き攣った顔がそこにあった。兵士は持っている剣で前方の扉を指す。この建物に入れということだろうか。首を傾げながら扉を押し開けると、暗い廊下が真っ直ぐに伸びる。──いや、部屋よりは明るいかと、松明の灯を頼りに歩を進めた。

 長い長い廊下をひたすらに歩き続け、ようやく見えてきたのは白い光。目を眇めつつ踏み入れば、視界がゆっくりと色彩を思い出していく。幾重もの柱が聳え立つ荘厳な広間。細長い七色の硝子戸の向こうでは、ちらちらと雪が降り注ぐ。初めて見る空間と硝子細工に興味を惹かれ、じっとその場に立ち尽くした。

『気に入ったか』
『?』

 低く艶めいた声が響く。しかし周囲には誰も見つからず、不思議に思って顔を上向けた。裾広がりな階段の上、外の光を背に立つその男は、どこかで見た覚えがあった。悠然とした足取りで段差を下りてきた彼の、さまざまな輝きを放つ真珠色の眼差しに、おぼろげな記憶が呼び起こされる。

『……ほう、驚いた』

 彼は意外そうな色を宿し、あの時と同じように髪を掬い上げた。金糸がさらりと指の隙間を滑れば、彼は暗い笑みを浮かべて頬を撫ぜる。

『久しぶりだな──』

 囁かれた名は、幾度耳にしようとも、決して馴染むことはなく。



 ◇◇◇



 凍て付く寒さとは全く別の、虚しさを覚える冷たい感触。ちっとも安らぐことのない空虚な温もりを宿す毛布を、少女はぐるぐると丸めて部屋の隅に放り投げた。ぼふ、と音を立てて落ちたそれを見下ろし、瑠璃色の瞳は退屈そうに瞬く。

 うろうろと部屋の中を彷徨い歩き、やがて厳重に施錠された扉の前に立つ。少女は首を傾げ、何気なく扉を蹴りつけた。激しい音を立てて扉の表面が凹み、何度か蹴り続けると蝶番の弾け飛ぶ音が聞こえた。呆気なく拉げて打ち捨てられた扉を難なく飛び越え、少女は外へと繋がる階段を下りていった。

 真っ白な雪が段差を覆い始めた頃、少女はおもむろに腰を下ろす。紺碧の夜空には無数の星々が浮かび、物寂しい城を気持ち程度に照らしている。少女が自身の瞳にその輝きを映していると、背後にゆらりと気配が現れた。

「……。ガット・イープ」
「!」

 振り返れば、暗闇の中に立つ人影がある。少女はその言葉に頷き、早々に顔の向きを戻した。その直後、背中に何かをぶつけられる。少女が驚きつつも確認すれば、それは厚手の外套だった。今の今まで誰かが着ていたような、しっかりとした温もりが残っている。

「オスカー」

 少女が呼び掛けた頃には、既に人影は遠ざかってしまっていた。足音が聞こえなくなった頃、ようやく少女は外套を頭から被る。ぎゅうっと体に巻きつけてみると、ほんの少しだけ寒さが和らいだ。

 暫しの間そうして暖を取っていたのだが、ふと思い出したように胸元を探る。ごそごそと引っ張り出したのは、蝶の羽を模した銀細工のネックレスだった。白い息で曇ってしまった表面を擦り、月光の下に翳す。青と赤の硝子玉が細やかに煌めき、少女の頬に淡く反射した。


「……エリク」


 呼べば必ず応じてくれた優しい声は、今ここにない。

 ひたすらの沈黙と夜風の音に耳を澄ませ、少女は再びネックレスを胸元に仕舞い込む。立ち上がると同時に段差を蹴り、階段の下に積もる雪の上へと飛び降りた。深い積雪をざくざくと踏み固め、やがて見上げるほど高い城壁の前に辿り着く。傍らに立て掛けられた雪かき用の大きなスコップを手に取った少女は、軽い助走と共に城壁に飛びついた。

 縁に手を掛け、易々と壁の外へと出た少女の耳に、無数の荒い呼気が届く。月光を遮る木々の隙間、にじり寄る青い瞳が点々と現れたかと思えば、すぐさまそれは四方を囲むように闇を埋め尽くした。


 ──おやすみ、ニコ。


 月が陰った瞬間、少女はスコップで背後の壁を思い切り殴りつける。それを合図に、青い瞳の獣が一斉に飛び掛かり──滴る赤は雪をも溶かしていった。

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