40.


『獣を捜す!? お前さん正気か!?』

 八年前、まだ十歳になったばかりのエリクが、凶暴な獣に右腕を食い千切られた。ほんの少しだけ目を離した隙に起きた事件は、バルドルにとって非常に衝撃的な出来事だった。

『あの獣はエリクを狙っていた! 俺のことなんか目もくれずに、あの子の腕を噛み千切ったんだ。アレを放っておくわけにはいかない、いつまたエリクが襲われるか……!』

『だからってお前さんが躍起になる必要はないじゃろう。聖都にも知らせは届けたんだから、少しは落ち着け』

 エリクを助けてくれた老齢の医師は、そう言ってバルドルを懸命に宥めていた。

 だが何を言われてもバルドルの心は落ち着くどころか、焦りと不安ばかりが湧き起こる。無我夢中でエリクを獣の下から引きずり出し、千切れた右腕を餌にあの場を逃げ出したことを、今更ながら後悔した。あのときに無茶をしてでも獣を殺しておくべきだったのだ。でなければまたエリクが襲われるかもしれない、今度は腕だけじゃ済まないかもしれない──そう考えるだけで背筋が凍った。

『大体、捜すと言ったって手がかりが』

……。いいや、手がかりならある』

 ちらりと見えた猿のような脚はともかく、土台は狼で間違いない。加えて温暖な気候である南イナムスでは、滅多に見ない特徴的な体毛の色と生え方。恐らく北イナムスに棲息する野生の狼が、何らかの変化を遂げてあれほどまでに凶暴化しているのだろう。

 

 ──生憎と、“そういう例”は学者時代に確認済みなのだ。

 

 医師の止める言葉を無視し、バルドルはエリクが目覚めてから数か月後、学び舎を後にした。彼はティール聖王国領を北上し、獣の目撃情報を収集しつつ大山脈を超える。過酷な道のりと厳しい検問を何とか潜り抜け、彼は件の狼が棲息するという雪原に足を踏み入れたのだ。

……!』

 そこにいたのは、毛並みや大きさは全く同様でありながら、狂気じみた獰猛さなどは欠片も見られない狼の群れだった。暫く観察してみて分かったことは、あれらは青い瞳を持っておらず、脚も本来の種に倣った形をしていること。そして獲物を狩る時も、一撃で骨を噛み砕くような異常な力は持っていないことだ。

(だとしたら)

 バルドルがその雪原で観察を続けて更に幾年が経ち、ようやく彼は予想していた現場に鉢合わせる。

 雪原に現れたのは、弓や剣を携えた謎の武装集団だった。彼らは野生の狼を乱獲しては檻に詰め込み、早々に馬車でその場を立ち去る。バルドルは危険を承知でその集団の後を追い──奇妙な建物に辿り着いた。

『ここは……?』

 ティール聖王国に点在する神殿のようだと、バルドルは一目見て思った。しかしながら、かの荘厳な神殿とは異なり、外装は白亜でもなければ王家の象徴である青色も含まれていない。どんよりとくすんだ灰色は、白い雪を纏ってもなお暗かった。

『!!』

 林の陰から茫然とその廃墟を見上げていたときだ。

 あの青い瞳の獣が、バルドルの前に飛び出す。咄嗟に身を屈めたものの、積雪に足を取られた彼はあえなく倒れ込んだ。

『くそ、いきなり登場か……──ッ!?』

 バルドルがすぐに短剣を引き抜いた瞬間、襲い掛かろうとした獣の頭部が爆ぜる。獣は顎を切り飛ばされ、どす黒い血を飛び散らせながら藻掻いた。

 突然のことに頭が追い付かず硬直していれば、視界に美しい金髪が映る。こちらのことなど全く気付いていないのか、はたまた興味が湧かないのか、その少女は長い金髪が血で汚れることも厭わずに獣を掴み上げた。

……え……』

『?』

 少女が瑠璃色の瞳を瞬かせる。雪国の娘らしい真っ白な肌はともかく、金髪から覗く耳は不自然に尖って見えた。じっとこちらを見詰めた少女は、首を傾げては無言で歩き出す。

 廃墟へ向かうのだと気付いたバルドルは、咄嗟に彼女を呼び止めたのだった。

『ま、待ってくれ! お前は……まさか』

『ま?』

『ああいや、名前はっ? 親はどうした?』

『な……?』

 少女は振り返ってくれたものの、話しかけるたびに眉根が寄っていく。ただ不思議なことに、彼女はバルドルが何かを言うと一歩ずつ近づいてくるのだ。そして。

『ヴ・ハー・ヤーエ?』

(古代語……?)

 バルドルは面食らった。もしや少女は現代語を解さず、古代語で普段から過ごしているのだろうか? だとしたら相当に不便な生活を送っているに違いないが──と、既に獣のことが頭から抜けていたバルドルは、少女の興味が失せぬうちに口を開いた。

『ウィム・バルドル』

『バルドル』

 少女はこちらを指差し、名を復唱する。その変化に乏しい表情が、どことなく嬉しそうに見えたのは気のせいだろうか。

『ヤーエ……』

 そうして、バルドルは躊躇いがちに尋ねたのだった。

 

……“ニコ”?』

 

 

 ◇◇◇

 

 

 それ以降、バルドルは折を見てニコと接触するようになったという。古代語が通じる存在が珍しかったのか、少女は外に出る時間帯になると、必ず同じ場所に来てくれた。そこでニコから根気よく聞き出した廃墟の内部状況に、バルドルは不気味な驚きを覚えた。

「あの廃墟はダエグ王国と、グギン教団の残党が管理してる“実験施設”だ」

「実験……?」

「そういや未来じゃ帝国が復活するそうだな、殿下。妙に納得したよ」

 アーネストにそんな言葉を告げて、バルドルは心底参ったように額を覆う。

 

──あれは、蒼穹の騎士団に対抗する“兵士”を造るための場所だ」

 

 蒼天宮の一室に緊張が走った。先生の向かいに腰掛けているアーネストは、険しい表情のままちらりと瞳をずらす。そこに立っているのは、皇太子と同じ共鳴者であるブラッドだ。

 ミグスとの共鳴を成功させた人間は、非常に高い戦闘能力を誇る。二人の他にも、聖王コーネリアス十三世の近衛を務めるトールマン騎士団長、北方の守りを任されたリューベク第一王子の騎士ネイサンなどが共鳴者として挙げられる。蒼穹の騎士団は、そんな共鳴者を擁した聖王国随一の騎士団と言えよう。

 ──ミラージュの予言を聞いたとき、エリクも少しだけ不思議に思ったものだ。蒼穹の騎士団が壊滅する未来など、本当に来るのだろうかと。

 しかしそれは、先生が見てきたという実験施設に秘密があったようだ。

「奴らはイナムス全域から孤児を集めて、何らかの方法で“ミグス”を適合させているみたいだな」

「!? ミグスですって? 我が国の秘宝が教団の手に渡っていると?」

 フランツが珍しくその表情に焦り、否、怒りを浮かべた。それもそのはず、バルドルの話が真実ならば、大神殿で厳重に保管されているはずのミグスが「何者かの手によって持ち出された」ことになるのだから。

「俺も伊達に聖都で学者をやってたわけじゃないさ。ニコの力は共鳴者と同等と見ていいだろう。となれば、あの子に殿下と同じミグスが宿っていても不思議じゃない」

「それは、そうかもしれませんがね……」

 眉間を揉み解しながら、フランツは相槌を打った。元よりニコの力に懐疑的な目を向けていたとは言え、門外不出のミグスが敵側に渡っているなどという非常事態は、彼も予測していなかったことだろう。

 しかしバルドルは追い討ちを掛けるが如く、不穏な推測を立てるのだ。

「その奪ったミグス、もしかすると獣に使われてる可能性もあってな」

……獣? 青い目のっ?」

 エリクが驚愕して尋ねれば、平然と肯定が返って来た。先生曰く、“ミグスとの不完全な共鳴をした者”に限り、自我が希薄になり凶暴性が増すという症例が見られるという。言うなればミグスの力に体が耐え切れず、自制が利かない危険な状態に陥る場合があるのだ。幸い、現在の蒼穹の騎士団にはそのような者は出ていないが、過去には悲惨な事件も起きたとか。

「自我のある人間でもそのザマだ。元々、野生の本能に従って生きてる狼にミグスを入れれば、無差別に人を食い荒らす化物の完成ってわけさ。……あの猿みたいな脚も、もしかしたらミグスの影響かもしれん」

「な……教団はそれを量産しているというのか? 何のために」

 

「もちろん、“兵士”の訓練相手にするために」

 

 先生は忌々しげに、そう答えた。

 

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