39.


 聖都に到着したエリクたちを待っていたのは、意外な人物だった。

 エリクは宮殿の応接間に入るや否や、そこにいた二人を呆然と見詰める。逸早くソファから立ち上がったのは、幼馴染のセリアだ。彼女は心なしか青褪めた顔で駆け寄り、エリクの左手を掴む。

「エリク! 良かった、獣に襲われたって聞いて心配してたのよ」

……セリア。どうしてここに……それに、」

 戸惑いを露わに視線を前に向ければ、先生──バルドルの姿がそこにあった。エリクが学び舎を発った後も暫く寝たきりだったのか、その頬は痩せている。すぐに先生の身を案じる言葉が出てこないのは、後ろめたさと己の不甲斐なさのせいだろうか。

「先生……すみません、ニコを」

 隠せと言われたのに。こうなることが分かっていたから、先生はニコを匿おうとしたに違いない。エリクを信じて任せてくれたに違いない。そんな信頼を裏切ったような気がして、エリクはつい俯いた。

 

──まずは“先生と会えて嬉しいです”だろうが。エリク」

 

「うわっ」

 ぐいっと頭を引き寄せられたかと思えば、髪を乱暴に撫でられる。セリアや、後ろに付いて来ていたカイまでもがびっくりしている一方、先生はお構いなしにエリクの背中を力強く抱き締めた。

「何だ、随分でかくなったな」

……は……八年も経てば、そりゃあ」

……そうか。八年か」

 先生は自嘲気味に笑い、ゆっくりとエリクを解放する。紅緋の瞳を真っ直ぐに見詰めては、どこか悔やむような色を滲ませた。

「悪いな。俺の自己満足でお前を引き取ったってのに、長いこと一人にしちまった」

……一人じゃなかったよ。セリアも町長も、子どもたちもいたから」

 何て言いつつ、エリクは学び舎で微かな孤独を感じていたことを、故意に伏せる自分に笑ってしまう。素直に寂しいと言える歳でもなければ、そういう性格も持ち合わせていないのだ。先生が目を覚まさなかった時間も不安だらけで──いいや、あの時間は、ニコと接することで気が紛れていたのだろう。つきんと痛む胸を無視し、エリクは笑みを浮かべてみせた。

「おかえりなさい、先生」

……ああ、ただいま」

 先生は小さく目を見開いてから、苦笑交じりに応じたのだった。

 

 

 □□□

 

 

 エリクたちを応接間に送った後、アーネストは医務室へと向かっていた。養父と幼馴染が宮殿へ来ているということなら、その再会を邪魔するわけにも行かないだろう。その間に情報の整理も兼ねて、フランツやブラッドと今後の動きを話しておきたかった──のだが。

「ミラージュ殿、失礼する」

 聖都へ到着するなり気を失うように眠ってしまったミラージュは、エリクの言葉通り貧血を起こしていた。青白い頬を見詰めていると、やがて黄昏の瞳がうっすらと開かれる。

……あ……アーネスト、様」

「そのままで構わないよ。気分はマシになったかい?」

 柔らかな笑みを向けても、ミラージュは決まって視線を逸らす。掠れた声で「はい」と返事はしてくれるものの、やはり苦手意識を持たれているのだろうか。それとも──。

 アーネストは静かに息を吐くと、椅子を寝台の傍まで引っ張っては腰を下ろした。ゆるやかな風が窓から吹き込み、飾られた花をほんのわずかに揺らしていく。甘やかな香りが鼻腔を掠めた後、アーネストは声を抑えて呟いたのだった。

「ミラージュ殿。少し聞きたいことがある」

……何でしょうか」

 逸らされた黄昏の瞳が強張る。細い指先が毛布に食い込む様を眺めながら、皇太子は問いを口にした。

「貴女は今までに何度、未来を視てきたか覚えているのか?」

……正確な、数は……覚えていません」

「それほどまでに長い間、“この時間”を繰り返していると?」

……。分かりません」

 絞り出される答えは苦く、それはアーネストの言葉を肯定しているようなものだった。青褪めた顔に浮かぶ恐怖と後悔をそこに見た皇太子は、「少し話を変えよう」と声の調子を上げた。

「貴女がた一族は、過去の戦に於いても同様の術を行使していたのか?」

「はい。……ティール聖王国が……いえ、ミグスが危機に瀕した際に限り、私たちに組み込まれた“力”……“再生の術”は発動します」

──千年前も?」

 魔女は頷いた。

 千年前、旧ティール王国がグギン帝国によって滅ぼされた、その数年後。成人した魔女が“力”に目覚め、王家の生き残りと共に帝国へ戦争を仕掛けたという。歴史書には「たった数年」の戦争で華麗に勝利を収めたかのように書かれているが、その実情は魔女にとってひどく苦しいものだっただろうとミラージュは語る。

……多くの未来を経験し、記憶し、塗り替えるために戦う。それが魔女に与えられた権利であり義務です」

……一人で?」

「はい」

 訪れる沈黙。外を見詰める魔女の横顔は今にも消えてしまいそうで、とてもじゃないがそのような役目を負った女性には見えない。否、負わせてはならないだろうにと、アーネストは心苦しい思いを吐き出した。

「ミラージュ殿、貴女は過去の私とも同じ会話をしたのか」

「!」

「その度に私は命を救われておきながら、貴女を忘れ……何も掴むことは叶わなかったのだろう。だから今もこうして貴女の前にいる」 

「違います、アーネスト様っ」

「何がだろうか?」

 身を起こしたミラージュは、その眦に涙を浮かべていた。ようやく目を合わせてくれたと思えば、その表情は痛々しいものだった。アーネストがそっと彼女の頬を指先で拭うと、彼女が震えた唇を噛み締める。

「私が、私がやらねばならないのです。あなたを死なせないように、未来を変えなければいけないのに」

 どうしても上手く行かない、と彼女は両手で顔を覆ってしまった。

 ミラージュの瞼の裏には、一体どれだけの屍が映っているのだろう。アーネストも、フランツも、ブラッドも、ジャクリーンも、彼女が視た「未来」では尽く命を落としたという。そして彼女はその光景を幾度となく見せられ──まごうことなき悪夢の中を、半ば永遠に彷徨い続けているのだ。

「それに私……あ、あなたを見捨てようとしたのです……っ」

「見捨て……?」

「も、もう何をやっても変わらないのだと、あなたが死ぬところを見たくなくて、あ……会おうとしなかった、の」

 泣きじゃくりながら告げられた言葉に、アーネストは思わず──噴き出した。ミラージュが呆けていることを知りながら、皇太子は肩を揺らして「すまない」と謝る。

「いや、見捨てられてなどいないよ、ミラージュ殿。私は貴女のおかげで伯爵の動きを予期できたんだ」

「で、ですが……な、何がおかしいのです……!」

「私はてっきり、貴女に嫌われているのかと思っていてね。つい安心してしまった」

 初めてミラージュの元を訪ねたとき、顔も見せずに追い返された理由をアーネストはずっと考えていた。当初は節操のない皇太子の噂でも聞いたのかと不安がり、魔女の事情を聞いたら聞いたで、今度は何をしても死ぬ皇太子に「いい加減にしろ」と愛想を尽かしたのかと不安がり、不安がってばかりだがそんな気持ちでいたのだ。

 だがミラージュは、己の力不足を嘆いたがゆえにアーネストと顔を合わせなかった。それを責める気は毛頭ないし、よく今まで投げ出さずにいたものだと逆に感心すらしてしまう。

「き……嫌うなど……」

 困ったように首を振ったミラージュを見詰め、アーネストは言い聞かせるように告げた。

「私だって労力に見合わぬ仕事は嫌いさ。何をしても成果が出ないのなら、投げ出したくもなる。私はそのことで貴女を責めたりしない」

……」

「それに──その結果、未来は異なる姿を見せ始めているのだろう? 貴女が私を追い返したことで」

「そ、そんなことで」

「分からないぞ、未来は案外ちょっとしたことで変わるのかもしれない」

 アーネストが唇の端を持ち上げれば、不意に硬直したミラージュが目を逸らす。目許が黒髪に覆われてしまい、表情が窺えなくなった。しかしながら、アーネストは無意識のうちに彼女の顎を掬い上げ、その髪を払ってしまった。

「あっ」

……。そうだな、ミラージュ殿。もう一つ尋ねても?」

 仄かに紅潮した頬は火照り、露わになった黄昏の瞳が慌ただしく泳ぐ。アーネストはやんわりと身を引こうとするミラージュの手を掴み、彼女の背を支えつつ横たえた。

「過去の私は貴女を何と呼んでいたかな」

「!」

……ひたむきに私を助けようとしてくれている貴女に、惹かれない理由が見当たらなくてね」

 長くたおやかな黒髪を梳きながら、アーネストは先程から胸中に湧き上がって仕方がない熱を囁く。

 もしも過去に死んでいった自分の記憶が、その残滓が少しでも残っているとしたら、未来のために奔走する魔女のことを覚えているのなら──どうか思い出させてほしい。彼女一人で背負うには重すぎる宿命を、肩代わりとまでは行かずとも、同じ分だけ背負わせてほしい。

 

 ──知り合ったばかりのこの人が、他の誰よりも強い絆で繋がれた相手であることは確かなのだから。

 

 萌黄色に捕らわれたミラージュが、真っ赤な顔で口を開閉させる。その初々しい反応にアーネストが微笑めば、彼女の首が小刻みに左右に振られた。

「っい……いえ、わ、私は別に、特別な関係では……」

「ミラージュ殿、私の嫌いなものを知っているかい」

「え……? ええと、お、お母さまが作られた苺パイ……」

「正解だ」

「!?」

 彼女の額に口付け、アーネストは悪戯に笑う。黒髪を撫でつけながら体を起こし、寝台から降りては硬直しているミラージュを振り返った。

「妃殿下の手料理にケチを付けるなどしてはならないからな。誰にも言っていないんだ、それ」

「え、な……っ!?」

「まあ、そういうことだ。ではミラージュ殿、ゆっくり休むように」

 去り際、大変困った様子で枕に顔を埋めるミラージュを認め、アーネストは少々浮ついた面持ちで医務室の扉を閉めた。

 

……病人に迫るとは、卑劣ですね殿下」

 

 そこにいたフランツから生温い笑みを向けられたことで、皇太子は頬を引き攣らせたのだった。

 

 

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