38.


 ニコが魔法陣によって忽然と姿を消した後、エリクは大きな喪失感に見舞われながら聖都へと戻った。馬車に乗ったのは彼とカイ、皇太子アーネストと──魔女のミラージュだ。たったひと月程度の短い期間だと言うのに、エリクは隣に少女がいないという違和感に慣れずにいた。

 気もそぞろに窓の外を見詰めていると、横からカイの難しげな唸り声が漏れる。

──じゃあ、何だ……ニコがそのグギン帝国? とやらの幹部ってことか?」

……は、はい。あの暗殺者も同じ組織に与しているはずです」

 アーネストの隣に腰掛けたミラージュは、限界まで端に寄った状態で小さく応えた。

 皇太子の最初の訪問から聖王国の滅亡に至るまで、その破滅の運命を幾度となく繰り返し経験してきたというミラージュ。俄かには信じがたい話だったが、暗殺事件が起きることやブラッドたちの名を知っていたことから、彼女が確かに時間を繰り返していることが窺える。だがエリクにとって、彼女がもたらす未来の話はやはり飲み込みきれないものばかりであることに違いはない。

「ていうか皇太子様」

「何だい?」

「俺に魔女様の……事情っつーか、そういうの話しちゃって大丈夫なわけ?」

「君は口外しないだろう?」

……逃げ道をなくしていく感じか……」

 アーネストにしろフランツにしろ、どんどん外堀を埋められてしまったカイは、やがて諦めたように項垂れる。が、翠玉色の瞳は少々困った様子で皇太子を見詰めた。

「でも俺、役に立たなかったじゃんか」

「ああ……あの魔法のことは気にしないでいい。それより君から見て、あれはどういったものなのかな?」

 ニコを一瞬で捕えては連れ去ってしまった、黄金の蝶。城郭都市で見た魔法とは異なり、魔法陣はどこかに刻まれていたわけではなく、光の粒子で構成されていたように思う。ゆえにカイが教えてくれたような、魔法陣の中央を大きく削るという対処法を取ることは叶わなかった。そのことについてカイは厄介だと言わんばかりに、頬杖を突きながら言及する。

「あー……転送魔法って言ってな。対象を自分のところに引き寄せたり、逆に遠方の魔法陣に向けて飛ばしたりと便利なもんさ。ニコは誰かのところに引っ張られたと見て間違いない」

……お、お詳しいのですね」

「よせやい、照れるだろ」

 大袈裟に胸を張る彼の向かいで、ミラージュはどこか感心したような表情をしている。恐らくエリクと同様、カイも「過去」に会ったことがない人物なのかもしれない。ミラージュが知っているのは皇太子と、彼に従う複数の臣下、それからグギン帝国の者たちが中心だ。つまりは城郭都市でエリクと出逢ったことで、カイもまた異なる「未来」を歩んでいる、ということになるのだろうか。

「で、厄介なのは転送魔法そのものじゃなくてさ」

「うん?」

「前から薄々と思ってはいたんだけどよ。あの黄金の蝶、ちょっと心当たりがあるような、ないような」

 カイの言葉で、ずっとぼんやりとしていたエリクの思考が僅かに冴える。隣を見遣れば、カイがいつになく疲労感を露わにして眉間を揉んでいた。

「なあ魔女様、グギン帝国とやらは北イナムスと手を組んで復活するんだったか?」

「はい……」

「そりゃつまり、北方諸国連合に入ってる国ぜーんぶ?」

「そう、だと思うのですが」

 北方諸国連合を構成する国は三つ。南イナムスの半分ほどの面積しか持たない北イナムスは、その三か国が平等に各地を治めている。

 まず聖竜の大山脈に面しているアンスル王国。北西のソーン王国。そして北東のダエグ王国だ。いずれの土地も雪深く、生活するにはやや不向きであるように見えるが、魔法──精霊術が普及したかの国々では暖を取るのも易いと聞く。

 元は独立した国家がばらばらに治めていた北イナムスは、奇しくも南イナムスを占拠するティール聖王国を打破するという共通目的の下、千五百年以上も昔から手を組む場面が多かったという。しかしその後、北に点在した小国は三つの大国に尽く吸収され、今や北方諸国連合とはアンスル・ソーン・ダエグの代名詞となっているのだ。

 カイはそんな北イナムスの事情を踏まえた上で、神妙な面持ちで口を開く。

 

「連合のシンボルが“蝶”ってのは知ってるな? そこから更に、アンスルは触角を、ソーンは羽を国章に持ってんだが──黄金の蝶を国章に持つ国があるんだよ」

 

 二か国が蝶の部位を掲げるのに対し、一か国のみが完成された蝶を掲げる。それすなわち、一見して平等な力関係に見える連合の中で、確かな順位付けが為されていることを示すのだ。

……ダエグ王国か」

 アーネストの言葉に、カイは鷹揚に頷いた。

「そ。北東のダエグ王国は三つの中でもボスみたいなもんさ。何でも大昔に“大精霊”の加護を戴いた王がいて、今もその末裔が君臨してるからな」

 ミグスの加護を受けた皇太子様みたいに、と彼は付け足す。

 そこで彼はこんな話も口にした。南イナムスで魔法が普及しないのは、大精霊の力が北イナムスの大地にしか与えられていないから、ということを。その下に従う精霊たちも南には寄り付かぬため、こちらで魔法を使用する際は多大な労力を要するどころか全く扱えないということも。

……! カイ、まさか」

 そこまで聞いたエリクは、ようやくカイの言いたいことを悟った。翠玉色の瞳がちらりとこちらを一瞥し、嫌そうに歪む。

 

「ニコは今までずっと──大精霊の加護を貰った魔法使い、つまりダエグ王に付け狙われてたってことだな」

 

 気味が悪そうに肩を摩ったカイの手前、エリクは閉口した。ニコがグギン帝国の人間で、帝国の復活には北方諸国連合が手を貸していて、更にはその盟主であるダエグ王国の王はニコを執拗に追っていて──その辺りの繋がりが、カイの話によって明確になってしまったから。

『ナーァ・シュロウフ……ハイト・ネイバディ』

 人のいない場所が嫌いだと言った彼女は……先生に連れて来られるまで、一体どんな暮らしを送っていたのだろうか。誰か、彼女が安心できる人が傍にいるだろうか。今はティール聖王国の行く末を案じなければならないと言うのに、不思議とそんな心配ばかりしてしまう。

 エリクがふと瞼を伏せれば、向かいでアーネストがゆっくりと息を吐く。

「ミラージュ殿の予言を信じていなかったわけではないが……なるほど。帝国の人間であるニコと連合のダエグ王に繋がりがあるのなら、彼らが手を組んでいる何よりの証拠だ」

……はい……私もダエグ王までは、知りませんでしたが……」

 ミラージュは気遣わしげにこちらを窺っていたのだが、やがてエリクを見ているうちに何かを思い出したようだった。

「アーネスト、様」

「何だい?」

「青い瞳の獣について、まだ何もお話ししていませんでした。あれも少し、過去とは違う動きをしているようなのです……」

 彼女の話では、過去に青い瞳の獣が出現したのは──オースターロの夜に現れた一匹のみだったという。先日のように大勢で群れを成し、馬車を追い回すなどという行動は一度もなかったそうだ。そもそも獣が複数存在していること自体、驚きを隠せないと彼女は語る。

「ですから、その……やはり獣については、エリク様に反応して未来が変化しているとしか思えなくて」

……不気味だな。エリクを狙う、と言っても加減があるだろうに」

「どれだけの数がいるのかも分かりません。北の動きと併せて、獣にも警戒をしなければ……──あ」

「!?」

 そのとき、ミラージュの体がかくんと傾く。皆がぎょっとしたのも束の間、座席にゆったりと腰掛けていたアーネストが、咄嗟に彼女の肩を抱き寄せた。

「ミラージュ殿!? どうされた?」

「す……すみ、ませ……な、何でも……」

「いやいや、めちゃくちゃ顔色悪いぞ魔女様」

 カイの言う通り、ミラージュの顔色は蒼白と言っても過言ではない。額を押さえる手は震え、脂汗も出ているようだ。どう見ても体調不良を起こしている彼女を見て、エリクはそっと口を開く。

「アーネスト様、もしかしたら貧血かもしれません。一度、どこか横になれる場所で休んだ方が……」

「い、いいえっ、大丈夫ですから……!」

 それを遮ったのは、他でもないミラージュだ。皇太子の腕をやんわりと剥がした彼女は、深呼吸を繰り返してから再び告げたのだった。

「大丈夫です……聖都に、急ぎましょう」

 

 

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