36.


 新生グギン帝国は北イナムスと手を組み、蒼穹の騎士団を壊滅させる。皇太子アーネストが命を落としたが最期、その後まもなくティール聖王国は成す術もなく滅亡するだろう。

 先見の魔女が告げたのは、そんな絶望の未来だった。しかしエリクはその衝撃をも上回る未来──否、ある少女の素性を知って愕然となる。

「ニコが……帝国の人間……?」

 ミラージュ曰く、ニコは聖王国が陥落する際、皇帝の傍に控えていた人物だというのだ。その詳しい立場は分からないが、彼女が身に纏っていた服も装飾も、全て帝国に縁あるもので統一されていたとミラージュは言う。

 そこでエリクはようやく思い出した。

 ニコが決まって食後に行う、あの不思議な手の組み方。エリクは指を二本ずつ交差させて生まれるシルエットに既視感を覚えていたのだが、それが何なのかは分からずにいた。だが思い出せないのも当然だ──あれは、千年前に滅亡したグギン帝国の紋章を模しているのではないだろうか。

 ずっと引っ掛かっていた事柄が今になって明らかになるとは。それも全くすっきりしないどころか、分からなければ良かったとさえ思ってしまう。いや、それでもいずれは知ることになっていたのだろう。魔女の視た未来がやって来ると同時に、今のニコとの関係も終わりを告げるのだ。

「エリク様、どうか落ち着いてください」

「だ……だって、ニコが、そんな」

 多大な動揺と共にたじろぐエリクを、ミラージュは芯のある声で刺し留める。

 

 

──あなたがたのことは、私も分からないのです。お二人が私の元へ訪ねてくること自体、私が“見てきた”未来では有り得なかった」

 

 

 一体どういうことかと閉口すると同時に、彼女の不思議な言い回しにも疑問を抱く。

 重たい黒髪が彼女の瞼を掠め、青白い頬が小さく震えた。黄昏の瞳は困惑を宿し、恐怖しているようにも見える。

……私は、己が目で視たこと──“過去”の出来事を伝え、あなたがたが救われる未来を手繰り寄せる役目を担っています」

「え……“過去”?」

 “先見”の魔女は未来を視るのではないのかと、エリクは言外に尋ねた。実際、ミラージュが今しがた語ったのは確かに未来の出来事のはず。

 そのとき、ついさっき彼女が告げた言葉がエリクの脳裏に蘇った。

 

『アーネスト様、これをお話しするのは……何度目になるか分かりません。どうかこの話を聞いても、心を乱さぬよう、お願いいたします』

 

 彼女自身が言ったではないか。「何度目になるか分からない」と。それはつまり、ミラージュが皇太子とこの場で顔を合わせ、何度も同じ話をしていることを示すのではないだろうか。

 それすなわち、ミラージュは単純に未来を視ているわけではなく、「ティール聖王国が滅ぶ運命を何度も繰り返し経験している」ことを指す。予知夢でもお告げでもない、彼女自身が実際に歴史を歩み、滅びの運命の改変を試みている最中ということだ。

 とんでもない仮説を打ち立てたエリクは、咄嗟に否定しようとした。何故ならそれは、“始祖”から授けられた力が起こす奇跡と言えど、あまりにも突飛で、到底信じられない話なのだ。

 しかしながらそんな御伽噺同然の話を裏付けるかのように、ミラージュは淡々と語る。

「私はただ、アーネスト様が暗殺者に殺される未来を“知っていた”から、注意を促すことが出来ただけ。……まだ見ぬ未来を予測することは、叶いません」

……」

「あなたが命を落とされる光景を幾度となく見ました。ブラッド様も、ジャクリーン様も、フランツ様も皆、帝国の手によって亡くなってしまわれる」

……!!」

 アーネストが目を見開く気配を察してか、彼女の声は震え、しかし次第に大きくなっていく。腿の上で握られた手は白く染まり、悔恨を滲ませていた。

「あなたがたを救えず、国の滅亡も止められず、私は今もこうして“切り取った時間”の中を生きている」

 それは懺悔のように。至らぬ自分を責め、神へ赦しを乞うように。

 だがミラージュは二人を真っ直ぐに見上げては、「でも」と呟いた。

 

「でも、エリク様が現れた。敵であるはずのニコ様を連れて……! 私の知らぬ未来が、今ここで起きているのです」

 

 それが吉と出るか凶と出るか、ミラージュには分からない。彼女は未来を予め知っているわけではなく、自らが体験する「枝分かれした過去」しか知らないのだから。

「エリク様の養父にはお会いできませんかっ? 何故ニコ様を連れて来たのか、理由を──」

 

──キャアーーーー!?」

 

「!?」

 甲高い、それでいて中途半端な悲鳴が庭園から響いた。三人が固まったのも束の間、続いて聞こえてきたのは怒声と剣戟の音。

「今の……カイの声?」

「エリク、ミラージュ殿の傍にいてくれ」

「あ、アーネスト様!?」

 剣を手に立ち上がったアーネストの顔色は、やはり芳しくなかった。自身や臣下が尽く命を落とす未来を知らされたのだから当然だろう。そのまま庭園へ駆け出して行った皇太子の背を見詰め、エリクは逡巡の末にミラージュに声を掛けた。

「ミラージュさん、僕らも行きましょう」

「え……」

“今”があなたの知らない状況なら、これから何が起きるか分かりません。アーネスト様を守らなければ」

「! は……はい」

 慌ただしく立ち上がったミラージュを支えつつ、共に屋外へと飛び出す。眩しい光に目を眇め、エリクは物々しい雰囲気を纏う薔薇園へと向かった。

 護衛団の者たちが固唾を飲んで見守る先では、ブラッドと見慣れぬ少女が激しい斬り合いを繰り広げている。その身のこなしはニコのそれと似ているようで、彼女よりも少しばかり強張っているようにも見えた。そして、紫の髪から覗く特徴的な耳に気付いたエリクはハッと瞠目する。

……尖った耳……! まさか」

「エリク様、彼女、伯爵が差し向けた暗殺者です……!! どうして今ここに……!?」

 ミラージュの困惑した声から察するに、この状況はやはり過去にはなかったようだ。ジョルジュ伯爵が捕縛された今、暗殺者の少女が独断で樹海へやって来た目的は何なのか。懲りずに皇太子の命を狙っているのか、はたまた別の──?

 

「ニコ、後ろだ!!」

 

 そのとき、カイの切羽詰まった声がエリクの耳を劈く。

 紅緋の瞳を移動させた先で、ニコが声に従って後ろを振り返った。そこにいたのは、いつか見た黄金の蝶。ニコの表情に鮮明な恐怖が宿った瞬間、彼女の足元に巨大な魔法陣が出現した。

「!? あ……?」

 魔法陣が強く発光した途端、ニコの両脚に無数の蝶が這い上がる。黄金の光が瞬く間に彼女の全身を飲み込んでゆく光景に、エリクは血の気が引く思いで駆け出した。

「ニコ!!」

「エリク」

 ニコはばたばたと両手を動かしては藻掻くものの、やはり蝶は離れる兆しがない。それどころか以前の魔法とは異なり、黄金の蝶は実体すら曖昧なのではないだろうか。とにかく彼女を魔法陣の外へ引っ張らなければと手を伸ばすと、蝶が一斉にエリクの邪魔をするかのように視界を塞ぐ。

「うっ!?」

「ぎゃー!? 邪魔すんな!」

 それは近付いてきたカイも同様だったらしく、彼の喧しい悲鳴がすぐそこで上がった。垣間見えたのは、エリクよりも多くの蝶が彼に群がる光景。その動きはまるで、カイが魔法を阻止できることを知っているようにも見えてしまい、エリクの焦りが更に増大する。

……っニコ、こっちだ! おいで!」

 手は伸ばしたまま声を張り上げれば、指先を微かな感触が掠めた。黄金に染まった視界の中がむしゃらに宙を掻き、ようやくニコの手を掴んだ時だった。

「エリク!」

「え」

 ニコが突如として名を叫び、掴んだはずの手が振り払われる。エリクが魔法陣から弾かれるや否や、眼前を銀の煌めきが一閃した。

「退けよ片腕。あんたはお呼びじゃない」

 紫髪の少女はぼそりと呟き、自らも魔法陣の中へと飛び込む。二人の少女を飲み込んだ黄金の蝶は、やがて竜巻の如く青空へと舞い上がり、跡形もなく消えてしまった。

 荒れた庭園に残されたのは、無残にも散った薔薇の花弁。そして、茫然と立ち尽くす人々だけだった。

 

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