37.


──もうっ、無茶しないって言ったじゃない!」

 怒りと心配をないまぜにした高い声が、キンと頭に響く。まるで二日酔いの朝のようだ。いやしかし最後に酒を飲んだのはいつだったか、自棄酒はロクなことにならないからと自制し、早数年が経って……。それは違う。周囲から何十回と言われてようやく、渋々と、酒から距離を置くようになったのだった。

「馬車で行くって言ったのに馬を爆速で走らせるわ、熱が出てるのに雨に濡れるわ──ちょっと、話聞いてる?」

「んあ、聞いてるよ」

……」

「おっかない顔するようになったな」

 上の空で適当な返事をしたことなど、完全に見抜かれているらしい。後ろを振り向けば、据わった琥珀の瞳がこちらを射抜いた。にへらと笑ってみせれば、更に眉間の皺まで増えてしまう。余計なおふざけは控えておこうと頭を振り、そっと顔を前に戻した。

「そう怒るな、俺なら大丈夫だ。それよかお前の方が顔色が悪いぞ? 例の男とはそんなにも反りが合わないか」

「う……」

 疑るのとはまた別の、今度は露骨な嫌悪感が声に宿る。彼女がこれほどまでに嫌がるとは、とんだ小物を引いたか、一筋縄じゃ行かない曲者を引いたかのどちらかだろう。それは聖都まで同行されるのが嫌だからと、迎えを真っ向から拒否するくらい。昔からの肝っ玉の大きさは変わらないようだと、嬉しいのか悲しいのやらで溜息が出た。

 

「そ、その話はもういいでしょっ! 今は──エリクの元に行かなきゃ、先生」

 

 セリアの言葉に、バルドルは短く応じた。

 そうだ。危うく命を落としかけるほどの深い傷を押し遣り、聖都へやって来た理由は他でもない。ニコと共に聖都へ召喚されたという、養子のエリクの後を追うためである。

 バルドルが目を覚ましたのは、エリクが町を発ってから三日ほど過ぎた後だった。看病をしてくれていたセリアに事情を聞けば、オースターロの夜にあの獣が現れ、エリクを襲ったという。それを聞いただけでもバルドルの心臓はいくらか縮んだと言うのに、ニコが介入したことでややこしい事態に陥っているようなのだ。セリアは詳しい事情は知らない様子だが、巷で流れていた“暗殺未遂事件”についてはバルドルも聞き及んでいる。それがニコと同じ特徴を持つ者によって行われたことも。居ても立ってもいられなくなった彼は、慌てて町を飛び出そうとして──貧血でぶっ倒れた。

 そこから再び数日間の療養を経て、八年前から変わらず世話焼きなセリアが同行するという条件の下、ようやく聖都へ向かえる状態にまで漕ぎつけたのだった。

「ねぇ先生、本当に大丈夫なの? 傷、まだ塞がってないんでしょ」

「心配性だな、セリアの嬢ちゃんは。男は多少無理しても大丈夫なんだよ」

「無理してるんじゃないの」

 げんなりとした彼女の声に笑い、バルドルは初夏の太陽に照らされながら、額に滲む汗を拭い落とす。

 

 

 

──バルドル?』

 脳裏に浮かぶは、名を反芻しては不思議そうに首を傾げる少女。背中まで自由に伸びた長い金髪、深い瑠璃色の瞳、不自然に尖った両の耳。獣の頭部を片手で握り潰した少女は、硬直しているバルドルの目の前までやって来た。

『バルドル──ニコ?』

 そして、彼と自分を交互に指差しては確認する。恐る恐る頷けば、少女は思案げに指先を顎に当てた。

 やがて少女は何度もその名を繰り返し呟き、結局は踵を返してしまう。バルドルは息を呑み、無意識のうちに少女の手首を掴んでいた。

 

『ニコ、ウィム・ヤーエル・フィゾル』

 

 その言葉を聞いた少女は、理解が及ばない表情で振り返ったのだった。

 

 

 

──先生っ、ほら着いたわよ!」

 背中を摩られ、バルドルは過去に飛びかけた意識を引っ張り戻す。目の前には随分と懐かしい白亜の宮殿が聳え立ち、城壁の内側では兵士や学者が忙しなく行き交う。非常に落ち着きがないようにも窺えるが……何か騒ぎでも起きたのだろうか。

「セリア、未来の夫くんとは何処で落ち合えって?」

「その言い方やめて。えっと、確かお城の門番さんに手紙を見せるようにって……」

 セリアが背負い鞄の中から手紙を引き抜こうとしたとき、後方から車輪と石畳のぶつかる音が聞こえてきた。振り返れば、そこには数台の立派な馬車が宮殿へと向かっている。通行人が揃って道を開けては歓声を上げているのを見ると、中に乗っているのは恐らく王族だろう。

「リューベク殿下ー!

「お帰りなさーい!」

 リューベク──確か、皇太子アーネストの兄にあたる人物の名だ。

 彼もかつては蒼穹の騎士団に身を置いていた優秀な王子だが、残念ながらミグスの共鳴には失敗したらしい。ゆえに第一王子でありながら、共鳴者である弟に太子の座を譲ったと聞く。現在は王子の身分から下りノルドホルン公爵位を賜っているはずだが、王位継承権は皇太子を除いて未だ一位のままで人気も高く、こうして民たちから「殿下」と親しまれ温かく迎えられていることが何よりの証だろう。

……先生、リューベク様っていつもはお城にいないの? “お帰りなさい”って……」

「ん……ああ。聖竜の大山脈手前に、三つの砦が敷かれてることは……昔教えたよな?」

「ええ、もちろん覚えてるわ」

「リューベク殿下はそこを任されている御方でな。北方の動きを監視するために、陛下のご命令で要衝を取り仕切っていらっしゃるそうだ」

 聖都から遠く離れ、かつ敵対関係にある北イナムスとの境目に位置する領地を任されるということ、それはすなわちリューベク第一王子が聖王の厚い信頼を得ている証拠。生半可な輩にあの土地を任せてしまえば、北方諸国連合に付け入られる可能性が跳ね上がる他、南に密偵を侵入させる契機となり得るからだ。その点、リューベクは若年ながらも冷静な王子として知られ、六年前に北へ配属されて以降、国境の守りを完璧にこなしていると言える。

 噂では当時まだ十五歳だったと聞くが、今まで一度たりとも連合との間で問題を起こしていない。その手腕は誰もが一目を置いていることだろう。

「へー……凄いのね」

──私の妻になればリューベク殿下とお会いする機会もあると思いますよ、セリア」

「!!」

 セリアが勢いよくその場から飛び退く。一拍遅れて振り返れば、そこには一見して爽やかな好青年が立っていた。その瞳が蕩けるように甘くセリアを見詰めたのも束の間、逃げようとした彼女の手を掬い上げては唇を落とす。

「ああ、まさか貴女が私に会いに来てくれるとは」

「違うわよ!! 手紙にも書いたでしょ、エリクに用事があるって」

 手を引き抜いたセリアは、バルドルの背中にそそくさと隠れてしまう。強気な彼女が誰かの背に隠れるなど珍しい。ともあれ、どうやらこの若者が──エンフィールド公爵家の嫡男フランツのようだ。

「さて、失礼いたしました。あなたがバルドル殿ですね。エリク殿の養父であるとか」

「ああ、急に訪ねて申し訳ない公子殿。俺のせいでいろいろと面倒を掛けたようだ。早速で悪いがエリクと……ニコに会わせてもらえないか?」

「もちろん、とお答えしたいのですが……生憎、彼らは今、聖都を離れていまして」

 バルドルとセリアが同様に顔を顰めれば、フランツはにこりと笑う。

「少し前に、皇太子殿下のご提案で南西の樹海へと向かわれました」

「樹海? ──魔女の森か?」

「ええ。ニコ嬢のことを尋ねてみると」

 どこか驚いたようにフランツは目を丸くしつつ肯定した。背後でセリアが首を傾げていることを知りながらも、さすがにこの件については大っぴらに説明するわけにはいかない。魔女の存在そのものは良いとしても、その力は聖王国の重要機密に触れる事項なのだから。

 しかし、先見の魔女──確かに彼女に聞けばニコの素性は割れるだろうが、果たしてどこまで視ているのか。

……分かった。ならばこのまま俺も樹海手前まで行こう、ニコのことで少々弁解をしなければ」

「!? ちょ、ちょっと先生! また馬を飛ばす気!? 傷口が開くから少し休んで……!」

「大丈夫だ。公子殿、樹海に足を踏み入れることはないから安心してくれ。それとセリアを預けても構わないか?」

「それは願ったり叶ったりですが……」

 しれっと本音を垂れ流すフランツに、身の危険を感じたセリアが鋭い視線を浴びせたときだった。

──フランツ様!」

 鎧に身を包んだ騎士が現れ、フランツの傍に来るや否や馬から降りる。洗練された動作で一礼する姿は勿論、胸元にある青い紋章を見るに、どうやら蒼穹の騎士団に属する者のようだ。

「どうされましたか」

「は、アーネスト皇太子殿下より、先触れの書簡をお届けに参りました」

「書簡? 数日前に現れた獣の件でしょうか」

「いえ……」

 フランツが書簡を広げながら尋ねると、騎士は少し困惑した様子で首を振る。バルドルとセリアが近くにいることを気にしてか、彼はフランツに小声で耳打ちをした。

 すると、フランツの表情がにわかに強張る。

 

……ニコ嬢が?」

 

 

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