35.


……も……申し訳、ありません。取り乱して、しまいました」

 震えた声で謝罪した魔女──ミラージュの唇は未だに青褪めたままだった。

 ニコを薔薇園の方に遠ざけた後、エリクが再び魔女の家へと戻ると、固く閉ざされていた扉が開いていた。どうやらアーネストの声に応じてくれたようで、先程まで全く頼りにならなかった皇太子がちゃんとミラージュを宥められていることに、エリクは失礼ながら感心した。

 アーネストは本来の調子を取り戻したのか、へたり込んでいるミラージュの傍に片膝をつき、穏やかな口調で語り掛ける。

「ミラージュ殿、少しは落ち着かれたか」

「は……い」

……彼女のことをご存じで?」

 ニコを指してそう問えば、ミラージュが躊躇いがちに頷いた。ただそれは恐怖ゆえの鈍さではなく、迷いを孕んだ曖昧な色を宿している。

 黒髪に隠れた双眸が、ちらりとエリクに向けられた。

「彼女について詳しくは、知りません。それに……あなたのことは、全く分からない」

「え……僕、ですか?」

 初対面なのだから当然では、と考えたところでエリクは気付く。目の前にいるのは普通の女性ではなく、未来を視ることが出来るという先見の魔女だ。対面云々は関係なしに、魔女は一方的に様々な人間を知っているのかもしれない。その中でも、エリクは全く魔女の視た未来に登場していない……のだろうか? あまりにもふわふわとした推測だが、そもそもエリクは未来視がどのようなものか分からないのだ。

 取り敢えずそう仮定しておこうと彼が一人で頷いていれば、すぐにミラージュから問いを投げ掛けられる。

「エリクさま、彼女とはどちらでお知り合いに……っ?」

「ええと……少し前になるんですけど」

 エリクは尋ねられるまま、ニコが故郷の町に現れた日のことを語った。養父である先生が八年越しに帰郷し、血塗れでニコを連れ帰って来たという旨を。ついでにそこで獣に襲われ、現在の状況に至ることまで添えれば、ミラージュは更に困惑した表情を浮かべてしまう。

……連れて……では彼女の意思で出てきたわけではないの……?」

「ミラージュ殿、出来れば知っていることを教えていただけないか? 彼女は獣とも関わりがありそうなんだ」

 アーネストがそっと促すと、ミラージュがぐっと唇を噛む。萌黄色の瞳を恐る恐る見返しては、逡巡と共に俯いた。先程から皇太子の顔を見ないようにしているのは、エリクの気のせいではないだろう。

「ミラージュさん、お願いします。僕の先生は“ニコを隠せ”と言いました。その意味が分からないままじゃ……彼女をまた危険に晒してしまいそうで」

「! また……とは?」

「妙な魔法で狙われているんです。蝶を操る不気味な……」

 その言葉がきっかけとなったのか、ミラージュの纏う空気が硬くなった。されど躊躇う様子は完全には拭えず、苦しげに深呼吸をしてから、ゆっくりと彼女は姿勢を正す。そして心臓を押さえつけるように、胸元で手を握り締めた。

 

「アーネスト様、これをお話しするのは……何度目になるか分かりません。どうかこの話を聞いても、心を乱さぬよう、お願いいたします」

 

……? どういう……」

 アーネストは問おうとして、何かに気付いては口を噤む。その視線を追ってみると、ミラージュの手はひどく震えていた。尋常でない震えを目にしたエリクも、つい心配になって彼女の様子を窺う。今から彼女が話そうとしている事柄は、彼女にとって非常に重く、その細腕では抱えきれないほどの内容なのだろうか、と。

……ミラージュ殿」

 不意に、アーネストが彼女の手を掴む。弾かれるように顔を上げたミラージュの前髪から、あの黄昏の瞳が覗いた。彼女を安心させるため、皇太子は唇の端を少しだけ持ち上げ、毅然とした笑みを浮かべたのだった。

 

「貴女の言葉通りに」

 

……っ」

「ティールの青き力を背負う者として、先見の魔女が視た未来が如何なるものでも、真摯に受け止めると約束しよう」

 さながら、それは騎士の誓いだった。次期聖王としての器を初めて垣間見たような気がしたエリクは、その真剣な横顔を見ては息を呑む。そして圧倒されたのは彼だけではなく、真正面から告げられたミラージュも同様だったらしい。

 暫しの沈黙を経て、やがて魔女はゆっくりと息を吐く。深く頷いては、皇太子の手を力強く握り締めた。

 

 

──……よいですか、アーネスト様。私は、このティール聖王国が“滅びの運命を辿る”という未来を知っています」

 

 

 空気が凍り付く。皇太子を前に告げられた魔女の予言は、あまりにも残酷だった。エリクが絶句してしまった一方、先程約束した通り、アーネストは眉ひとつ動かすことなく耳を傾けている。

 そんな二人を一瞥したミラージュは再び深呼吸を挟み、予言の続きを語った。

「この先、アーネスト様率いる蒼穹の騎士団は壊滅し、守りを失った聖王国は北方より来る“グギン帝国”に敗れます」

……グギン帝国!?」

 エリクは思わず驚愕の声を上げる。

 ミラージュが虚言を告げるはずがないとは言え、その帝国の名だけは信じがたかった。何せ「グギン帝国」とは、千年も前に旧ティール王国を攻め落として建国された大帝国だ。程なくしてティールの勇者たちによって打倒され、跡形もなく帝国は滅亡したわけだが……今や南北イナムスの何処にも面影を残さぬことから、学者の間では「幻の帝国」とも呼ばれている。

 そんな国が何故、北方から攻めてくると言うのだろうか。それも蒼穹の騎士団をも下す勢力を擁して。俄かには飲み込むことが出来ない予言にエリクが困惑していれば、それを悟ったミラージュが小さく頷く。

「厳密には……新生グギン帝国と言いましょうか。あの国が……ティール聖王国を再び攻め落とすため、未来で復活を果たします」

……北方諸国連合を隠れ蓑にして、か」

「!!」

 それまで黙っていたアーネストの鋭い指摘に、ミラージュは再度頷いた。

 旧ティール王国を三日にして陥落させたと言われているグギン帝国は、数年も経たぬうちに崩壊したという。南イナムスの覇権を取り戻したティールは「聖王国」という名を冠し、今もなおこの大地を治めている。当時の戦は凄まじいものだったそうだが、肝心の皇帝については生死がはっきりとしていない。ミラージュの話を汲むのならば、皇帝は戦を生き延び、千年もの間ティール聖王国を滅ぼさんと血を繋いでいたことになる。

 ──北方諸国連合という、聖王国を敵とみなす者を味方にして。

 残念ながら辻褄は合う。しかしグギン帝国は何故そこまでしてティールを憎むのだろうか。それとも南イナムスに何か、欲しているものがあるのだろうか。

 その問いの答えは、すぐに導き出された。

「帝国は、ミグスを狙って……?」

……はい。グギン帝国は元々……巨人族を信仰する教団によって組織された国。“始祖”を孤島へ追放しておきながら、ミグスの力を擁するティール聖王国を、彼らは仇敵と見なしているのです」

 彼女の返答に、エリクは暫し放心してしまう。グギン帝国に関する資料が殆ど現存していないがゆえに、ミラージュの話は下手をすれば壮大な妄想だと嗤われるくらいには紙一重である。しかしながら、彼女の言葉に一切の迷いや誤魔化しは見当たらない。その声と瞳には不思議と、人を信じさせる力が宿っていた。

……我らに訪う未来は分かった。ニコと、凶暴な獣についてはどうだい。彼らもグギン帝国に関係が?」

 しかと予言を受け止めたアーネストが、次の質問を口にする。するとミラージュは表情を僅かに強張らせ、エリクに窺うような視線を寄越した。

 そして。

 

──彼女は聖都陥落時、グギン皇帝の傍にいた人物のはずです。立場は不明ですが……恐らく、非常に重要な地位に就いている者かと」

 

 告げられた予言に、エリクは耳を疑ったのだった。

 

 

>>

back

inserted by FC2 system