32.


 瑠璃色の瞳が大きく見開かれる。

 荒い呼吸を整える余裕もなく、少女は慌ただしく体を起こした。煩わしげに汗を拭い、誰もいない部屋を飛び出す。どこかに閉じ込められてしまったかのように、耳が音を捉えない。自分の息遣いも、足音も、うるさいはずの心音も。

 いくつも並ぶ同じ形の扉を見渡しているうちに、胸が苦しくなっていく。感覚が死んでゆく。どこからともなく黄金の蝶が迫る。嫌がるように首を振れば、蝶は一層羽を動かし、自由を奪うが如く纏わりついた。

 呻き喉を震わせたとき、少女の指先が胸を掻く。そこにある小さな感触を頼りに踏み出せば、一斉に世界が彩りを取り戻した。

 

──ニコ?」

 

 

 □□□

 

 

 まだ日も昇らぬ夜明け前。眠りの浅いエリクは例の如く目が覚めてしまった。樹海へ出発するにはまだまだ時間があることを知り、外の空気でも吸おうかと思い立つ。

 そうして廊下に出てみたら、何故かニコがいた。声を掛けるとすぐに振り返ったものの、彼女の顔色はすこぶる悪い。明確な恐怖を宿したその表情に、エリクはもしやと眉を顰める。

……また悪夢を?)

 最近は穏やかに眠っていたはずだが──獣と遭遇して、気が昂ったのだろうか? 何にせよ真っ青な顔をしているニコを放っておけず、エリクが歩み寄ろうとすると。

「うっ」

 走ってきたニコに勢いよく抱きつかれる。咄嗟に抱き止めては、階段脇にある長椅子にじりじりと横歩きで移動した。そっと彼女を座らせつつ、自身もその隣に腰を下ろす。

ヴィット・ヤーエ?

 何があったのかと尋ねてやると、ニコの顔がそろりと持ち上がった。心なしか尖った耳までもがしゅんと萎えているように見え、エリクは彼女の背中を摩る。そうして暫く静かな時間が流れれば、ずっと胸元で握り締めていた彼女の白い手が下ろされた。

「ナーァ・シュロウフ……ハイト・ネイバディ」

 

 ──眠りたくない。誰もいない場所は嫌い。

 

 告げられた言葉は、彼女に似つかわしくない弱弱しいもので、エリクはつい驚いてしまった。

 “誰もいない場所”……もしかして、彼女が今まで穏やかに眠ることが出来ていたのは、エリクやカイが近くにいたからなのだろうか。城郭都市に滞在した夜、寝台から這って出てまでエリクの元へ来たのも、いつもエリクを抱き枕にして眠る癖も、“誰もいない場所”を嫌うがゆえの行動だったのかもしれない。

 つまり“誰もいない場所”というのは──ニコが元いた場所のことなのではと思い至り、胸の内に苦いものが広がる。

 ニコはずっと一人だったのだろうか。その力ゆえか、はたまた容姿ゆえかは分からないが、他者と深い関わりを持つことが出来なかったのではないだろうか。いや、そもそも古代語しか話せないのなら、どちらであろうと結局は一人で過ごさざるを得なかったのかもしれない。

……ニコ、おいで」

「?」

 左手を差し出すと、ニコは繋ごうとして──珍しく躊躇した。どうしたのだろうと目を瞬かせていれば、瑠璃色の目がエリクの右袖を頻りに見ていることに気付く。

……ああ、もしかして)

 エリクは今更ながら彼女の“気遣い”を知ってしまった。思い返せばニコは常にエリクの右側に立ち、呼び掛けるときは決まって袖を掴んだり胴にしがみついたりする。その行動の真意は言わずもがな、彼の左腕を空けておくためなのだろう。

 その事実に気付いた途端、エリクは自分がちょっとばかし情けなくなる。もしも右腕があったら、悪夢を恐れるニコの手を繋いで安心させてやることが出来たのだろうかと。幼い頃に先生がしてくれたように、両手で抱き締めてやることが出来たのだろうか、と。腕が一本無いというだけで、どうにも心許ない印象を与えるこの体たらくを、今ほど恨めしく思ったことはなかった。

 しかしそれでも、

「大丈夫だよ。ほら」

 ニコを放っておいて良い理由にはならない。否、助けてやりたいと思う心が陰る理由にはなり得ないのだ。

 手を握って微笑めば、ニコの瞳が次第に開いていく。ぎゅっと手が握り返されたことを確認し、エリクは長椅子から立ち上がった。

 

 

 ニコを連れて宿屋の外に出ると、ひんやりとした空気が足元から伝わる。空は紺碧よりも淡く、東に向かうにつれて明るさが増す。そろそろ日が昇る頃だろう。

 視線を下ろせば、護衛団の天幕が町外れに並ぶ。眠そうに見張りをしている騎士を見つけては、遠目ながらも会釈をしておいた。

「エリク」

「ん?」

ディ・ブロイクっ?

 ニコが指差したのは、今にも明けようとしている東の空。瑠璃色の瞳が光を湛えていく様と、家屋に隠れた地平線を見ようと飛び跳ねる姿から、どうやら日昇の瞬間を拝むのが初めてのようだ。……確かに彼女は非常に健康的な生活を送っていて、いつも日が昇り切ってから目を覚ます。一方のエリクはカイが言うところの寝不足業界に所属する人間なので、よく夜明けの景色を見て心を落ち着かせているわけだが。

「ニコ」

 エリクは宿場町の端へ向かい、視野が開けたところで再び東を見遣る。聖都周辺に聳える山々から、白い太陽がちらりと頭を覗かせていた。強い光によって夜空を彩る星々がゆっくりと隠されていく様は、いつ見ても神秘的である。

 途端、隣から「わぁ」と声が上がり、エリクは目を丸くして振り向いた。ニコは口を開けたまま暁光を見詰め、おもむろに腰を下ろしてしまう。手を繋いだままのエリクも草むらに座ることになり、しばらく二人で夜明けを見守った。

……って、あれ?」

 やがて視線を感じてニコを見れば、いつの間にか彼女の瞳がこちらに注がれている。そこに、先程まで宿っていた悪夢に対する恐怖や疲労の色は見えなかった。

「もう大丈夫?」

「ん……だいじょぶ」

「そっか」

 エリクにも分かるようにと、ニコは覚えた現代語をなるべく使おうとしてくれる。その心意気は非常に微笑ましくもあり、歩み寄ろうとする姿勢もエリクとしては嬉しいものだ。惜しむらくはカイの名前が未だ覚えられないことだけだろうか。一度しっかり教えてあげないととは思っているのだが、如何せん「キタナイ」で呼び慣れてしまっているようで、残念ながら修正は難しそうだった。

 澄んだ空気と薄らぼんやりとした草原のおかげか、ふとニコが目を擦る。眠くなってきたのだろう。

「ニコ、シュロウフ・ラトロ」

……」

 出発の時間まで寝てはどうかと提案してみたが、彼女の反応は鈍い。手を握る力が強まり、睡魔に抗うようにまばたきが増える。悪夢が再来するのではないかという彼女の不安が、その仕草から色濃く伝わってきた。

「うーん、じゃあ……ヴィコ・ヤーエ

「ロィルっ?」

 弾かれるように顔を上げたニコに、エリクは思わず仰け反った。「後で起こすよ」とだけ告げてみたのだが、予想以上に効果があったらしい。エリクが笑いながら頷けば、彼女は早速とばかりに肩を寄せ、いそいそと寝る体勢に入る。

「おやすみ、ニコ」

……オヤスミ?

「ヌーゥツ、だったかな?」

 古代語に直してやると、ニコは何となく理解したようだった。口を何度か開閉させてから、夜風に浚われそうなほど小さな声を紡ぐ。

「オヤスミ、エリク」

 そうしてすぐに眠ってしまった彼女の寝顔は、どこまでも穏やかだった。

 

 

>>

back

inserted by FC2 system