31.


 初めて先生に叱られたのは、右腕を失って数か月が過ぎた頃だった。当時、エリクは何が先生の怒りに触れたのかが分からず、ただ茫然と先生の言葉を聞いていたように思う。

『エリク、分かったのか?』

『え……せ、先生、どうして怒っているんですか……? 僕はあの子の代わりに、人形を』

 エリクは人助けをした。意地悪な子どもたちに大切な人形を取り上げられ、泣き喚く少女を見付けたから。返す返さないの言い合いの末、──彼らはきっと、エリクが少女の味方に付いたのが面白くなかったのだろう──子どもたちはあろうことか、人形を水路に投げ捨ててしまった。

 更に激しく泣いてしまった少女を置いて、いじめっ子たちはさっさと退散する。だから仕方なしにエリクは水路へと降り、少々深さはあったものの人形を拾いに向かったのだ。そうして何とか人形を掴んだところで、エリクの爪先が不意に浮く。溝にでも入ったかと慌てていれば、勢いよく腕を掴まれた。

 その引き揚げてくれた人物が、恐ろしい形相でこちらを見下ろす先生だったというわけだ。

『一人で拾いに行ったんだろう。溺れていたかもしれないんだぞ』

『それは……でもあの子が拾いに行ったら、それこそ大変なことになってたと思うし』

『誰か大人を頼れ。大人でなくとも、お前より背の高い奴なんていくらでもいるだろう! その腕じゃ何が起きるか分からん!』

『近くに誰もいなかったら人形が流されちゃうじゃないですか! 先生は目の前に困ってる人がいるのに放っておくんですか!? 僕はそのまま立ち去ることなんて出来ませんでした!』

 右腕のことを持ち出されたせいだろうか。柄にもなく強めに言い返したところで、大きなくしゃみが出る。先生は非常に苦い顔を浮かべ、やりきれないように溜息をついた。

 暫しの沈黙の後、暖炉の薪が折れる。炎がゆらりと歪んだところで、先生はゆっくりとエリクの前に屈んだ。

『エリク。すまん。ただお前のことが心配なんだ』

……腕がなくなったから?』

『それだけじゃない。お前は優しい子だから、今日みたいな無茶をしがちだろう。……少しで良いんだ。動く前に、他人よりも自分のことをしっかりと考えてくれ』

 そこでエリクはようやく気付いた。自分が溺れかけている姿を見て、先生がとても動揺したことに。そして──恐怖したことに。

 

 ──何でも一人でやろうと意地になるな。腕が揃っていたって、人ひとりに出来ることなんて限られているのだから。

 

 先生の言葉は優しく、知らぬ間に気張っていたエリクの心をも見透かしているようだった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

──とにかくだ。私が皇太子の身であるからと言って、危険回避のためと躊躇なく死のうとするその無駄に据わった根性はどうにかしておくように」

「は、はい、すみませんでした」

 幼き頃の先生とのやり取りと同様、今日の言動をアーネストから厳しく咎められたエリクは苦笑いを浮かべた。やはり自分は少々、右腕のことを差し引いても他人を優先しがちなのだろう。危機的状況で咄嗟に下した判断とはいえ、自らを囮にしつつ馬車を逃がそうとするなど、我ながら死に急ぎすぎだ。

 獣の襲来を凌いだ一行は、樹海手前の宿場町で夜を明かすこととなった。護衛団が警備のために忙しなく動き回る傍ら、エリクはアーネストから注意を受けている最中であった。

 宿屋のロビーに置かれたソファには眠そうに舟を漕ぐニコと、今の話をうんうんと肯きながら聞いていたカイが座っている。

「ほんとだぞお前、あんな獣に噛み付かれでもしたら肉ぐっちゃぐちゃだぞ」

「骨も持っていくから気を付けてね、カイ」

「え」

……。僕の腕、あの獣に食い千切られたって話してなかったっけ?」

「してないけど!? 何そのトンデモ体験!?」

 一転して顔を真っ青にしたカイは、恐怖を紛らわせるためかニコを自身の前に置く。彼の反応に後頭部を掻きつつ、ちらりと皇太子を見遣る。当然こちらも何か言いたげな顔をしていたので、エリクはざっくりと八年前に起きたことを話したのだった。

 

 

……なるほど。八年前に右腕を食われ、先日のオースターロでも獣から狙われたと。確かにエリクに執着しているようにも見えるな」

 話を聞いたアーネストは納得する反面、先程よりも更に参った様子で額を覆ってしまう。

「なおさら、君の今日の行動が如何に危険だったのか分かった。馬車から降りていれば、真っ先に食われていたということだろう?」

「うっ……」

 そうです、とはさすがに答えられず、エリクは曖昧な笑みでやり過ごす。まさか皇太子から溜息をつかれる日が来るとは思わなかった。さぞ気分の悪い話だっただろうと隣を見れば、カイもエリクの右肩を凝視して顔を引き攣らせている。

……ニコだけじゃなくてお前も厄介なモンに狙われてんのな……」

「まあ……そうだね」

「そういや皇太子様、エリクの町に出た獣は聖都に送られたんだろ。何か分からなかったのかよ?」

 それは馬車でエリクが尋ねようとしていたことだった。獣の襲撃で会話が中断されてしまったために、答えを聞くことが出来ずにいたのだ。

 皇太子は「それがね」と、カイの不躾な言葉遣いを気に留める様子もなく口を開く。

「学者を集めて解剖に当たらせたんだが、狼の肉体とほぼ変わりはなかったそうだ。……ただ、あの脚だけは猿の手足のように“変形”したと見るべきだと」

「変形……? 突然変異ということですか」

「それか、人為的な交配実験だな」

 突然変異と交配実験ならば、後者の方が現実味を帯びるだろう。今までに見た獣は全て、猿の手足と同じ脚を有していた。一匹違わず強靭かつ不気味な肉体を持っており、エリクは独立した種が存在するのかと考えたりもしたが──肉体構造が狼と変わりない、というのならそれは否定される。

 つまりは野生の狼を捕まえ、何らかの実験を施して世に放っている誰かがいる、という危険極まりない推測がされるわけである。アーネストはその可能性も既に考慮しているらしく、少々険しい表情で続けた。

「今日仕留めた獣も調べたいところだが、さすがに聖都を腐臭で覆うわけにも行かなくてな」

「あれ全部持って帰ったら空気汚染と国民逃亡のダブル案件だろうしなぁ」

 彼らの言う通り、獣は死ぬと凄まじい腐臭を放つ。それも一定の時間が経過したあとではなく、死んだ瞬間と言っても良い。まるで、そう。

 

 ──肉体が“何か”に耐えられなくなったように。

 

 蒼穹の瞳が頭から離れなくなる前に、エリクは静かに瞑目した。八年前は魅入られてしまったが、あの瞳はあまり良くないものだと今は思う。獣の数が増えているであろう今、ぼんやりしていたらあっという間に腕どころではなく、全身を喰われてしまうのだから。

 じっと俯いていれば、彼の傍でアーネストとカイの会話が再開される。

……ミラージュ殿にその件も尋ねてみるか。今度は応えてくれると良いが」

「振られたんだっけ、皇太子様」

「帰れと言われただけで断じて振られていない。そもそも私はミラージュ殿と直接会ったことがない」

「え、そうなの?」

 ちらりと皇太子を見遣ると、萌黄色の瞳が渋く細められていた。物憂げに青白磁の髪を掻き上げては──ソファに突っ伏してしまう。

「立太子の儀を終えて、初めて樹海へ赴いたんだぞ。だというのに顔も見せずに拒絶されるなんて初めてで心が折れそうだ」

「いや既にもうバキバキに折られてるじゃねぇか。聞いたぜ、皇太子様は顔が良いから女の子にちやほやされてたって。だからショックなんだろ」

「少し自惚れていた節は認める」

 認めるのか、とエリクの頬がひくりと動いたのも束の間、アーネストは溜息交じりに立ち上がる。首を振れば柔らかな髪が顔から退けられ、どこか気合が入った様子で眉が引き締まった。

「だが今回は聖都の平和を守るためにも会っていただこう。私の顔が見たくないというのなら布でも巻いていればいいだろう、そうだそうしよう」

「アーネスト様の沽券に関わるのでやめてください」

 魔女から拒絶されたことがどれだけ堪えているのか分からないが──顔面を布でぐるぐる巻きにした皇太子など絶対に見たくないと、エリクはそっと声を掛けておいたのだった。

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