30.


 馬車の速度が急激に上がり、エリクは咄嗟にニコを引き寄せる。さすがにカイまでは手が回らず、彼は「うお!?」と後頭部をぶつけてしまっていた。対するアーネストは慌てた様子もなく馬車の窓を開くと、騎馬で並走するブラッドに声を掛けた。

「ブラッド、どうした?」

「獣です。馬車を追って来ている」

「! 何?」

 簡潔なやり取りを耳にしたエリクは、さっと顔を強張らせる。急いで背後にある小窓を覗き込めば、皇太子の護衛団が切羽詰まった様子で言葉を交わす光景が見えた。そしてもう少し目を凝らすと、彼らの後ろから複数の影が追って来ている。左右の雑木林に紛れながら、こちらに動きを読ませない巧みな走りは獲物を狩るそれと同じだ。

 

 そしてその獣の瞳は、皆一様に青く輝いているではないか。

 

「な……っ何で、あんなに沢山」

「厄介だな。誰か生肉でもぶら下げているのか?」

「冗談を言っている場合ではありません。殿下はこのまま樹海へお急ぎを。出来るだけ我々で対処しましょう」

 そんな会話を後目に、エリクは小さく唇を噛む。

 

ブレイト・イウミット……ヤーエ

 

 ──獣はエリクを狙っている。

 以前にニコから告げられた言葉が過り、暫くは鳴りを潜めていたはずの“右腕”が痛み始めた。どうにもあの青い瞳の獣が迫ると、自分の身体は恐怖を引き起こすらしい。だがエリクは頭を振って痛みを咎め、すぐさまアーネストに告げる。

「アーネスト様、僕を降ろしてください! あの獣は僕を狙っているみたいなんです」

「! どういうことだい、エリク。あれは無差別に人を襲うと聞いたが?」

「詳しくは分かりません、でも……あなたに万が一のことがあってはいけない。僕が降りれば、この馬車は見逃してくれるかもしれません」

 ティール聖王国の次期聖王をこんなところで、況してや自分を狙っている獣に襲わせるわけには行かないだろう。正直なところ降りれば即行で食われる気しかしないが、皇太子と一平民の命など天秤に掛けるまでもなかった。

「来るぞ!」

 そのとき、馬車の後方から剣戟の音が始まる。獣の唸り声が近くまで迫る中、エリクが馬車の扉に手を掛けようとしたときだ。

「殿下、お下がりください!」

 ブラッドがアーネストの肩を押し、馬車の中に引っ込ませる。直後、ブラッドの元に獣が飛び掛かった。彼は瞬時に剣を引き抜いては、馬上で獣の牙を受け止める。窓の外で猿のような四本の脚がばたついたかと思えば、ブラッドは片手で剣を難なく振り払った。血を飛ばしながら獣が雑木林に消えれば、漆黒の瞳がこちらに寄越される。

「エリク、やめておけ。お前が出ても時間稼ぎにはならん」

「く、食われてる間は止まるかなと」

「やめんか」

 ブラッドが叱るような声を上げた直後、今度は馬車の屋根に衝撃が落ちる。獣が飛び乗ったのだと理解したのも束の間、ブラッドがいる方向とは反対側の窓が叩かれる。

「ぎゃあ!? ちょっと何々何々!? 外に猿の手があんだけど!?」

「カイ、伏せ……!?」

 視界が爆ぜる。

 窓を突き破ったのは薄気味悪い獣の前脚ではなく、エリクの隣にいたはずの少女だった。「ニコ」と唇を動かしても声は出ず、瑠璃色の瞳がこちらを見遣ることはなかった。金髪がそのまま外へ飛び出し、太陽の光を反射する。

──プリィ・モ」

 彼女の姿が視界から消える間際、聞こえたのは高揚を孕んだ声。獣を両手で掴んだニコの横顔は、やはり何処か楽しげな色を宿していた。

……ニコ!!」

「うおわッ、エリク落ち着け! お前は落ちたら大けがするって!」

 窓から身を乗り出すエリクを、カイが咄嗟に引き戻そうとする。その腕に抗いつつも馬車の後方を確認すれば、道を転がったニコが軽々と立ち上がる姿が見えた。護衛団が慌てて騎馬を避けさせる中で、彼女は飛び掛かって来た獣を即座に蹴り飛ばす。獣は木に衝突しては力なく倒れたものの、また別の牙がニコを狙った。それらを次々と捌く彼女に、護衛団からどよめきが起きる。

「ブラッド、彼女の援護を」

「御意」

「馬車を止めろ!」

 アーネストの指示により、馬車が次第に減速していく。ブラッドは騎馬を離してから、自らも鞍から降りてニコの元へと駆けて行った。途中、死角からやって来た影を振り向きもせずに一撃で処理してしまうと、腰にあった短剣を鞘ごとニコへと投げる。

「!」

 獣を薙ぎ払うついでにそれを掴み取ったニコは、ちらりとブラッドを一瞥しつつ抜剣した。恐ろしい速さで獣の肉体を真っ二つに切り裂き、彼女は羽が生えたかのように地を蹴る。ブラッドと共に臆することなく獣の群れを蹴散らしていく姿に、馬車から降りたアーネストが感心したように声を洩らした。

「凄いな、やはり共鳴者と遜色ない──どころか目覚ましい力を発揮するな」

「アーネスト殿下っ、馬車にお戻りを! まだ獣が……」

「うあぁ!?」

 誰かの悲鳴が上がった。ハッとしてニコたちから視線を外せば、草むらに潜んでいた一匹の獣が騎士の剣に食らいつき、そのまま容易く噛み砕く姿があった。強靭な顎が鉄の残骸を吐き出し、続けて騎士の首に噛み付こうといった瞬間。

「!?」

 

 短く、されど朗々とした口笛が響く。

 その音に獣は動きを止め──エリクに狙いを変更しては走り出した。

 

「ぅえ……っ!? こ、こっち向いたぞ!?」

 慌てふためくカイを後目に、エリクはすぐさま馬車の中へと体を引っ込める。すると大きな音を立てて獣が外装にぶつかり、中にいるエリクを食らうべく窓を無理やりくぐろうとした。硝子や木材の破片が肉体を裂こうが、毛皮が赤く滲もうがお構いなしだ。おぞましい執着を前に“右腕”の痛みが増す一方のエリクは、一先ずカイだけでも反対側の扉から逃がそうと口を開いたのだが。

──ギャウッ」

 獣の口に、深々と剣が突き立てられる。喉を抉る勢いで穿たれた刃は、エリクの背後から伸びていた。恐る恐る振り返ってみれば、そこに剣を握ったまま笑うアーネストがいる。

「無事かい、エリク」

「え……は、はい」

「私がやらずとも良かったかな」

 皇太子の言葉が飲み込めず、再び獣に視線を戻す。よく見ると、アーネストの剣とは別の切っ先が、馬車の外側から獣を貫いているではないか。二方向から串刺しにされた獣は生気を失い、やがて外へと引きずり出される。

 代わりにそこから顔を覗かせたのは、真ん丸な瑠璃色の瞳だった。

……ニコ……」

 ニコはまばたきを一つしてから、下に引っ込む。ぱたぱたと足音が半周し、やがて馬車の扉側に回ってきた。アーネストが道を開けてやれば、すぐにニコが身を滑り込ませる。

「エリク、だ……だいじょ、ぶ?」

 心なしか前よりも滑らかになった発音で、彼女は尋ねてきた。暫し呆けてしまっていたエリクは、やがて無意識のうちに微笑みながら頷く。

……うん、ありがとう、ニコ。また助けてくれて」

「ん」

「わっ、アーネスト様も、ありがとうございました」

 猫のように擦り寄って来たニコを抱き止め、エリクは外に立っているアーネストにも礼を述べた。皇太子は「いや」と頭を振り、先程危険な目に遭った騎士を見遣る。剣は使い物にならなくなったが、どうやら軽傷で済んだらしい。

「君が気を引いてくれなければ、彼は命を落としていただろう。私こそ礼を言おう」

「いえ……無事で良かったです」

 言いつつ外の様子を窺えば、ブラッドが既に剣を納めて護衛団に指示を出している。辺りには獣の死骸が転がり、やはりひどい腐臭を放ち始めていた。

「しかし、本当にエリクを狙って来たな。目の前の獲物を放ってまで」

……あの、アーネスト様──」

「ああ、聖都に帰れなどとは言わないよ。君がいないと彼女が寂しがるだろうし」

 ニコを指してそう述べたアーネストは、「ともかく」と仕切り直すように笑みを浮かべる。

「予備の馬車に乗り換えようか。話は落ち着いてからで良い。……ところでカイ、さっきから魂が抜けているが大丈夫かな?」

「はッ……」

 あまりの衝撃的な急襲に頭が追い付かなかったのか、カイはその問いかけでようやく我に返ったようだった。

 

>>

back

inserted by FC2 system