23.


──闘技場!?」

 豪奢な馬車の中、エリクはつい大声を上げた。ビロード張りの座席は座り心地こそ良いが、エリクの焦りを鎮めてくれるほどではない。それに対し向かいで悠然と足を組んでいるフランツは、やはり柔和な笑みで頷くのだ。

「ええ。恐らくニコ嬢を始末するために、そこを活用するのではないかなと」

「始末……っ? ニコを狙ったのが誰か分かっているんですね?」

 この男は「エリクたちを“餌”に使った」と言った。つまりフランツは少なくとも、この状況をある程度は想定していたということ。だからこそ慌てる様子もなく、こうして困惑するエリクを馬車に乗せ、件の闘技場とやらに連れて行っている。不信感が募る一方のエリクは、軽い頭痛を覚えながらもフランツの説明を受けた。

「闘技場に剣闘士として出場する者の多くは、命知らずな傭兵や貧困を極めた浮浪者、それから非合法にも貴族が所有する奴隷です。無法者が集まる場所、とでも言いましょうか」

……それは、知っていますが」

 闘技場は遥か昔から存在する、貴族の遊び場とも言える娯楽施設だ。どちらの剣闘士が勝利するか──またはどちらが死ぬかを予想し、金を賭けて楽しむという何とも不愉快な場所である。

「つまり闘技場で誰が死のうが、我々の耳には入ってこないのです。身分が無いことはもちろん、闘技場の商品として登録された者は存在自体が希薄になる。……ああ、逆で言えば世紀の大罪人であっても、死刑を嫌って自ら闘技場へ逃げ込み、今も剣闘士として生き永らえている場合もあるかもしれませんね」

 つらつらと語られた話を何とか飲み込み、だが決して納得したわけでもないエリクは、ゆっくりと口を開いた。

……だからニコを──暗殺者を闘技場に放り込んだ」

「ええ、短絡的ですよね。闘技場を“非公開の手軽な死刑場”とでも思っているのでしょう。ふふ、残念ながらそんなことをしても足はつくのですがねぇ」

 フランツは至極楽しげな様子で外を眺める。その横顔は穏やかな紳士というよりは、これから狩りに出かける猟師を彷彿とさせた。爛々と輝く瞳は、飢えに飢えた肉食獣といったところだろうか。

 エリクは唾を飲み込み、妙に浮ついた口調のフランツに尋ねた。

「フランツさん、ならばニコを狙ったのは……彼女を暗殺者として見なしている誰か、ですか……?」

「いいえ。……もっと質の悪いものですよ」

 彼が低く答えた直後、馬車が止まる。外側から扉が開かれるや否や、フランツは軽やかに段差を飛び降りた。

「さ、急ぎましょう。ご安心を、私はニコ嬢に危害を加えませんし──彼女を剣闘士にするつもりもありませんよ」

 

 

 ▽▽▽

 

 

 そこは、異常な熱気に包まれていた。

 舞台を見下ろすために造られた広大な観客席、そこに隙間なく敷き詰められた人々は、各々が賭けた剣闘士に口笛や野次を飛ばす。今も二人の若い剣士が鎬を削っており、場は盛り上がる一方だった。彼らはきっと、あの若者のどちらかが不運にも息絶えたとしても、気に留めることなどないのだろう。

 闘技場に初めて足を踏み入れたエリクは、まるで異世界にでも来てしまったかのような面持ちで辺りを見渡す。こんなところにニコとカイが放り込まれたのだと思うと、申し訳なさで胸がつまった。

「エリク殿、大丈夫ですか? 先に王宮へ向かっていても……」

……いえ。……その、さすがに……フランツさんのことが信じられなくなってきたので」

「おや、それはそれは。お優しいエリク殿に嫌われると、心に来るものがありますね」

 特に何も感じていなさそうな顔でフランツは言う。エリクが疲労を感じて溜息をつけば、不意に周囲から歓声と非難が上がる。驚いて舞台を見下ろせば、どうやら勝敗が決まったようだった。

「何だ……とどめは刺さんのか」

「生温い試合だったな」

 観衆は落胆を隠しもせずにそう零し、己の賭け金と次の試合を確認する。剣闘士の素性も生死も、心底どうでもいいのだろう。確かにこの闘技場という施設は、厄介者を隠蔽するには絶好の場所なのかもしれない。

 

──おい、見ろよ。飛び入り参加だとよ」

 

 エリクが俯きかけたとき、そんな声が耳に飛び込む。ハッとして客席の前列へ向かえば、フランツもその後に続く。

「すみません、通してくださいっ」

 何とか人混みを掻き分けたエリクは、舞台袖から押し出された小柄な人影を見て瞠目した。

「ニコ……!!」

 つばの広い帽子に、気持ち程度の防具であろう黒いベスト。真剣を握らされた少女は、今起きたばかりなのか眠そうに目を擦っていた。今までの屈強な剣闘士とはかけ離れた容姿を受け、観衆から不満の声が一斉に上がる。

「何だあのガキは!」

「すぐ終わっちまうぞ」

 そんな声に耳を塞ぎたい一心で、エリクは彼女に呼び掛けようとしたのだが。

「エリク殿」

「!」

 左腕をぐいと掴まれる。見れば、舞台を見下ろすフランツの横顔がそこにあった。何の感情も宿さない冷ややかな眼差しは、こちらを見ていないにも関わらず他を圧倒する。以前にもこの目を見たことがあるが──これは身分差ゆえの畏怖などではないと、今なら分かる。

「申し訳ないが、少々この場は傍観していただきます」

「何故……っ! このままじゃニコが誰かと戦わなきゃいけない!」

 そしてもしもニコが負けるようなことがあれば、傷ついてしまうのならば、エリクは耐えられないだろう。逆に彼女が相手の剣闘士を傷付けることになっても、後味の悪さは拭えない。彼女はここが闘技場であることも分からずに、ただ己の身を守るために相手を殺めてしまうかもしれないから。

 エリクの心中を察しているのか、フランツは小さく頷く。

 

……“彼”の要望です。殿下に会わせるより先に、この場でニコ嬢を見極める、と」

 

「え……」

 ちらりとエリクを一瞥した彼は、一階の舞台を見るように促す。戸惑いを宿したまま従えば、ニコの反対側から相手の剣闘士が現れた。

 体格の良い黒髪の青年は、ニコと同じような簡易な鎧に身を包んでいる。だがその気迫は観客席にまで伝わるほど張り詰めており、そこらの剣士などでは到底出せないものであった。

「今は辛抱を。……結果は彼女次第、ですが」

……!」

 フランツの静かな言葉を合図に、姿勢を低くした青年が駆け出す。

 それにニコが気が付いたのは、青年が目の前で剣を振りかぶったときだった。瑠璃色の瞳を一度だけ瞬かせ、ふと彼女は体を反らす。直後、耳の横を掠めた剣が、その金髪を風で舞い上げた。

 

──起きろ、暗殺者」

 

 青年の一撃と囁きで、ニコの目が覚めた。引き摺っていた剣を指先で回し、しっかりと握り直すのも待たずに一閃する。すかさず青年がその剣を受け止め、甲高い剣戟の音が響き渡った。

 一瞬の、かつ予想外な展開に観客は唖然となり、すぐさま熱狂する。

 騒々しい声など聞こえていないかのように、青年は立て続けに剣を薙ぐ。エリクが立っている場所からでも重圧を感じると言うのに、器用にもニコはその攻撃を受け流していく。一度、鍔まで深く刃が交わったときだ。青年が呼吸を乱すが如く剣を振り払い、ニコの体勢を大きく崩す。

「ナーァ」

 しかし、彼女はぽつりと呟きながら、頭上に振り下ろされそうになった剣を間一髪で躱した。それだけに留まらず、地面に打ち付けられた青年の剣を蹴り飛ばし、無理やり距離を開けさせる。そうして青年が体勢を立て直すより先に、ニコは間合いに飛び込んでは──青年の腹部に飛び蹴りをかました。

「っ!?」

 しかし逃がさないと言わんばかりに、彼女は浮きかけた青年の体を掴み寄せる。胸倉を掴んだまま、ニコは容赦なく彼の顔面を地に叩きつけてしまった。

 鈍い音が客席にまで聞こえ、ざわざわと観衆が動揺する。

……あーあ……ちゃんと防具つけてこないから……。死んだんじゃないですか」

 青褪めているエリクの隣で、フランツが何処か呆れた声で呟いた。

 一方のニコは剣を握ったまま、だが追撃はせずにじっと青年を見下ろしていた。その瞳は凪いだ海のように静かで、されど内には荒れ狂う焔を秘め。青年が動く気配を察しては、俄かにその瞳が開かれる。

──なるほど」

 剣を杖にして立ち上がった青年は、口周りにべっとりと付着した血を乱暴に拭う。外見はひどい状態だが、彼自身はさほど堪えた様子もなければ、眼光の鋭さも失われていない。

「純粋に打ち負かしたくなったな、“娘”」

「? プリィ・ヤーエ?」

「悪いがお前の言葉は知らん」

 ぴしゃりと切り捨てた青年が再び剣を構えれば、ニコも何の躊躇いもなく剣を向ける。そして双方が大きく一歩踏み出した時、騒音を掻き消すほどの声が彼らの動きを縛り付けた。

 

──やめてくれ!!」

 

 余韻が次第に消える頃、再び観衆の声が戻ってくる。否、最初からその声は、騒音の中の一つに過ぎなかったはずだ。

 それをしかと聞き取った少女は剣を手放し、目の前で同様に動きを止めている青年から、興味が失せたように視線を外した。

「エリク」

 その先で身を乗り出しているエリクの姿を認めては、安心したように瞑目し──。

 

 

>>

back

inserted by FC2 system